最期の平穏

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 青々と茂る葉に埋め尽くされた木が立ち並ぶ緩やかな坂道。
 春になれば美しい桜吹雪が辺りを埋め尽くし、歩道や車道に淡い紅色の絨毯じゅうたんを作る。
 しかし、現在の季節は初夏。満開に咲き誇っていた花びらは徐々に散り、代わりに瑞々しい若葉が萌え、しっかりとした厚みへ育った頃。
 美しい景色が過ぎ去った寂しさはあるが、初夏の涼しい風と青葉の香りが心地良さを誘い、軽い森林浴を楽しめる。

 そんな木陰の中で、一人の少女がカナル式の白いイヤホンを両耳につけて、気持ち良さそうに歩いていた。

 白い縁取りを施したセーラー襟が特徴的な紺色のブレザーに包まれた上半身と、黒地を赤で彩らせたタータンチェックのスカートと黒いハイソックスで隠した華奢な足。
 スカートは膝丈だが、年頃の娘は惜しみなく太股をさらしている。だが、少女は羞恥心に負けて、腰回りを折って短くすることをやめた。
 校則を守る、きっちりとした模範的な着こなし。だが、それが少女の美貌を清楚なものに印象付ける。

 腰下まで真っ直ぐ伸びた髪は、アジア系の女性が大層羨むだろうからす濡羽色ぬればいろ。陽光を浴びて艶やかな光沢を帯びて、更に美しさを引き立てる。銀の光沢がある髪留めで、耳の後ろの少量を後頭部で留めるハーフアップという髪型が良く似合う。

 頬に沿う横の髪を鎖骨の位置で切り、程良く整えられている。その顔の輪郭りんかくは流麗で、程良く小さい。
 傷一つない肌理きめ細かな肌は白皙はくせき。病的と感じないのは、血色の良い顔色のおかげ。
 高すぎない小さめの鼻は綺麗な筋が通って、更に顔立ちを良くする。
 瑞々しくうるおったくちびるは、ふっくらとしたチェリーピンク。

 理想的な形だが、一番目を引くのは――びっしりと長い睫毛に囲まれた目。
 凛とした目付きだが、穏やかな目元で柔らかな優しさを演出している。

 そんな目を美しく引き立てる――瑠璃色るりいろの瞳。
 ガラス玉のようなまじのない、空のように澄み切った色。
 日本人らしい風貌に一つだけ西洋の色を足した、精巧せいこう和洋折衷わようせっちゅうの人形。まさにそんな言葉が似合う少女だった。

 少女の名前は、神崎詩那かんざき しいな
 今年、地元の私立高等学校に進学した高校一年生だ。

「……ん?」

 ふと、詩那は前方の先にある光景を瞳に映して、瞬き一つ。

 今は朝。あと二十分ほどで学校が始まる時間。
 だというのに、坂道の上で乱闘が起きている。

 普段の詩那なら自ら関わろうとしないだろう。しかし、乱闘の中心にいる人物を見て苦笑いが浮かぶ。

「まぁたやってるなぁ」

 清楚な令嬢という印象が覆される砕けた口調。しかしそれが、詩那の自然体な在り方を引き立てる。

 形の良い細い眉を軽く寄せて小さく笑い、乱闘の中心にいる人物を見る。
 下ろせば背中まであるだろう純白の髪は、青いシュシュで高い位置でポニーテールに結い上げられている。やや切れ長で凛としているが、澄んだ青い瞳で儚い印象を強く感じさせる。
 引き締まった線が美しい顔の輪郭に、今にも消えそうな淡い色に似合う桜色の唇。
 現在は紺色のブレザーからベージュのカーディガンに衣替えする時期であるため、袖の長いカーディガンを着ている。

 深窓しんそうの令嬢と謳われても可笑しくはない美貌を持つ、長身の少女。
 ……だが、敵を薙ぎ倒す強い意思を宿した眼差しは鋭く、苛烈な怒りが滲み出ている。

「オラァッ! がぐッ」

 頭の高い位置で結い上げた白いポニーテールを翻して、殴りかかろうとする少年の顔の側面に後ろ回し蹴りをました。

 少女に暴力を振るう少年達は、詩那と少女が通う高校の男子制服を着ていた。
 白い縁取りを施した紺色のブレザーに、黒地に青緑色のタータンチェックのズボン。衣替えの時期なので、ブレザーではなくベストを着ている者もいる。
 少女に寄って集っている少年達の数は五人。しかし、地面に倒れ伏している人数で、一人で立ち向かっている少女の強さがうかがい知れる。

 不意に、持参していたのか竹刀を持つ少年が少女の背後を狙う。
 気付いた詩那は、肩にかけている焦げ茶色の鞄を静かに右手で持ち、力一杯に投げた。
 距離は約三メートルだったため、少年の顔面に充分届いた。

「うがっ!? なっ、なんっ……ッ!? 神崎詩那!?」

 詩那の姿を視界に捉えた少年が驚愕のあまりに叫ぶ。
 どうして名前を知られているのか理解できない詩那は、不快そうに顔をしかめた。

「えっ、詩那?」

 少年の叫びで気付いた少女は目を丸くする。
 かなり驚いているようで、刃物のような鋭い表情を崩している。

「おはよう。朝から大変だね」

 壮絶そうぜつな乱闘に水を差した詩那は、何事もなかったかのように挨拶した。
 イヤホンをスカートのポケットにしまいながら普通に歩み寄る詩那に、少女は苦笑い。

「こーいう時はほっといて良いって」
「ごめん、無理」

 語尾に星のマークが付きそうなほど、清々しい笑顔でばっさり切り捨てた。
 その無邪気な笑顔に少年達は頬を淡く染めてしまったが、それに気付かない詩那は鞄を拾い上げ、近くにいる竹刀を持つ少年に顔を向ける。

「ねえ、女の子に寄って集って暴力を振るうなんて男としてどうなの?」

 満面の笑み。しかし、その目は笑っていない。

「しかも、何? 丸腰の女の子に武器を持ち出すなんて……最低にも程がある」

 浮かべている笑みが、だんだん薄くなる。
 明るかった声も徐々に低くなり、圧力を感じる。

 間近で見ている少年は表情筋を強張らせ、無意識に後ろ足を引く。

「今度またやったら……――眼球えぐって烏のえさにしてあげる」

 据わっていた目を細め、にこりと笑ってのたまった。

 思わぬ脅しに少年は硬直し、持っていた竹刀を落としてしまう。その反応に満足した詩那は、冷や汗を感じつつ口元を引き攣らせている少女を見る。

「早く行って休もう。荷物は?」
「お……おぉ。ちょ、ちょっと待って……」

 ぎこちなく頷いた少女は慌てて歩道側に置いている黒い鞄を取り、少年達から離れた詩那に駆け寄る。
 すれ違いざまに青ざめている彼等をチラッと見遣った少女は、いつも通り平静な表情で悠々と歩く詩那に恐る恐る声をかけた。

「あの……さ。さっきのめっちゃ怖かったんだけど……」
「そう?」
「うん……。背後に夜叉が見えた」

 今でも背筋に悪寒を感じる少女の感想に、ぷふっ、と詩那は吹き出す。

「夜叉って……! ちょっとそれ言い過ぎっ」

 クスクスと笑う詩那。先程とは違う心を温かくする無邪気な笑顔に、少女は肩の力が抜けてつられて笑った。


 白崎一颯しらさき かずさ。異国の母の色彩と美貌を受け継いだ、詩那の親友。

 彼女は詩那と同じ『悩み』を抱えている。
 幼い頃から秘めていた『悩み』に鬱屈うっくつした日々を送っていたが、この町の女子中学校で詩那と出会い、共通の『悩み』を持つ者同士として仲良くなった。

 初対面の頃の詩那は超越した存在と思っていたが、いざ話してみると案外普通で、それが魅力的な人だと知ってからは気兼ねなく接している。

 対する詩那も、一颯のことを近寄りがたい人だと思っていた。しかし、思い切って話しかけてみると、実際は男勝りな格好良い女の子だった。

 一颯は過去のことが原因で虚勢きょせいを張るくせがある。しかし、詩那が相手だと虚勢が綺麗に消える。
 幼い頃から喧嘩三昧けんかざんまいだった日常が色付き、心が癒される。
 掛け替えのない親友を得た一颯は、この奇跡のような出会いに感謝した。

「……なあ、詩那」

 一年三組の教室に入り、窓際の最後尾の席に座る詩那に声をかける。
 ちょうど詩那の右隣の席が、一颯の席だ。

「何?」
「昨日さ……ちょっと遭遇しちゃって」

 今は朝で教室内。大っぴらに話せない一颯は言葉をにごしながら言うと、詩那は目を丸くした。

「えっ。……大丈夫だった?」
「何とかな。詩那が考えたヤツ、凄く役に立ったよ」

 ありがと、と一颯がはにかめば、詩那も安心して破顔はがんした。

「ん、どういたしまして」

 心を許した人に見せる、優しい笑顔。
 一颯は、まるで夜空のようだと感じた。

 夜は時に無情なる闇を与える。しかし、月星が発する柔らかな光を包容して、更に輝きを引き出すのも夜だ。
 冴え渡る月にたとえられる一颯をも包容する、心に安らぎを与える優しい夜の空。
 神崎詩那という少女は、そんな在り方をしていた。

(やっぱり、詩那はいい奴だ)

 困った時は助けてくれて、いざという時は支えてくれる友達とは、滅多に巡り合えないだろう。
 一颯にとって、心から信じられる理想的な親友。
 だからこそ、一颯も詩那の力になりたいと思っている。

「あ、そうだ。この前新しい本、出たよ」
「マジ? どんなの?」

 詩那は話題とともに鞄から一冊の漫画を出す。その表紙を見た一颯は目を輝かせた。

「えっ! やっと出たんだ、これ!」
「うん。良かったら読む?」
「うん! ありがと詩那!」

 嬉しくて無邪気に笑う一颯。その笑顔に、詩那もつられてはにかんだ。
 そんな二人の美女の笑顔に、周囲が見惚れていると気付くことはなかった。


 少しの刺激が利いた、よくある日常の断片。
 それが気付かぬうちに崩れるとは、この時まで思いもしなかった。


◇  ◆  ◇  ◆



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