人ならざる者
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「
不意に、上から
薄目を開いて見上げると、そこには美しい男の顔があった。
男にしてはやや長い髪は雪のような白で、波打つような癖がある。
長い前髪で隠れていない凛々しい切れ長な左眼は、引き締まった顔に良く似合う。
高く筋の通った鼻に、程良い厚みのある薄ピンク色の
日本人とフランス人が掛け合わさったような風貌は、まるで精巧なビスクドール。
そんな洗練された美貌の主は、詩那を見下ろして不敵に笑っている。
髪と同色の長い睫毛に囲まれた、冷たい印象を持たせる金色の瞳と視線がかち合う。
「だ、れ……?」
「クハッ! この状況で
若々しい男の高らかな声に我に返った詩那は前方に目を向ける。
この時点で気付く。自分が塀の上にいることに。
謎の男に、背後から抱きしめられていることに。
「え……えっ?」
「混乱する暇はない。今のお前は戦う
男に指摘されて息を詰める。
抱きしめている男の袖を無意識に握れば、ふっ、と男は小さな吐息をこぼす。
呆れたのではない。それは優しい、小さな笑みだった。
「俺と契約しろ」
「……契約?」
突然の申し出に目を丸くして男を見上げる詩那。
一方、そんな暇を与えないと言わんばかりに禍殲卑が拳を振るう。
当たる。身動きが取れない詩那は反射的に身を固めて目をきつく閉じる。
「恐れる必要はない」
平然と言葉をかける男の声で、恐る恐る目を開く。
目の前には禍殲卑の拳がある。だが、男は片手でその拳を受け止めていた。
「んなっ!? て、てめえっ……!」
「なあに、正式な契約ではない。仮契約だ」
憤る禍殲卑の声を無視する男は詩那に説明する。
「正式な契約は、お前が死ぬまで俺を縛ることになる。だが、仮契約になれば、俺の自由を制限しない。それでもお前が呼べば参じることができる利点がある上に、お前から
誰かの自由を奪うことを
だが、詩那は
「……でも、貴方にメリットはない。私と契約してもいいことなんて……」
「価値はある」
断言した男をもう一度見上げれば、彼は真剣な眼で詩那を見詰めていた。
どうして初対面であるはずの自分に、そこまで言い切れるのか。
ただ判るのは、彼の強い意思と、
彼なら自分を裏切らないという、
「……わかった。契約する」
「そうでなくては」
決意を固めれば、男は口角を吊り上げて不敵に笑う。
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ!」
禍殲卑がもう片方の拳を放つ。
男は詩那を横抱きに持ち直して軽やかに宙へ飛び、空振りした禍殲卑の拳が塀を砕く。
「正式な契約と違い、仮契約は真名ではない仮の名を与えることで成立する。……が、俺には
驚いて男を見上げれば、彼は穏やかに眦を下げる。
詩那は、その眼差しに慈しみが宿っている気がした。
「――
男が名乗った瞬間、脳裏に文字が浮かんだ。
鮮やかな模様。小さな虎。そんな
美しい彼にぴったりだ、と心から思った詩那は小さく頷いた。
何もない空中を蹴って更に飛ぶ男の腕の中で、詩那は声を張り上げて告げる。
「我が名は神崎詩那。汝、彪人と契約を結ぶ者なり――!」
痛む体を振り切って声を張り上げた。
すると、胸の奥に熱が宿る。強く、それでいて優しい温もりが体全体に広がっていく。
不思議な感覚に目を瞬かせた途端、ぐらりと世界が傾いた。
「……あれ?」
気付けば、そこは見知らぬ空間だった。
淡い紅色が視界を埋め尽くす中、穏やかにそよぐ風を浴びて髪が泳ぐように揺れる。
ざわざわと枝が擦れる音に包み込まれ、自分が木の上に座っていることを自覚する。
ただの木ではない。大自然の樹海にあるような太い幹に、小さな一軒家を乗せても問題ないくらい頑丈な枝。樹齢何千年も感じさせるが、瑞々しさが
自然を愛する探検家でも拝むことすら叶わないくらい、壮大で美しい――桜の木。
詩那はその枝に、ちょこんと座っていた。
目を瞬かせた詩那は、じっくり枝の先に咲く花を見詰める。すると、風に乗って儚く散ったはずの花の
「すごい……。……え?」
不思議な現象に目を丸くした詩那は、やっと自分の服装に気付く。
シンプルな白い服の上にベージュのカーディガン、薄紺色のスキニーを着ていたはず。それが
裾幅が広く、上品に桜の花を散らした黒地の
通常ではありえない大きな月は青白く輝き、赤や青や白に
続いて周囲を見渡せば、広大な草原が一面に広がっていた。風に沿って海のような波を作る草原には、ちらほらと淡く色づいた花が咲いており、
草原の手前には桜の巨樹が
心を奪う、幻想的な世界。
美しさのあまり見とれてしまう詩那は、ハッと我に返る。
「ここ、どこ?」
さっきまで現代的な日本の住宅街にいて、禍殲卑と魂喰に襲われていた。
そして、突然現れた謎の男――彪人と仮の契約をした。
だが、その直後に不思議な世界にいて、着替えた覚えのない不思議な振袖を着ている。
どう考えても可笑しい。しかも、初めて見る景色なのに胸の奥が締め付けられた。
心臓を刺すような痛みを
(何で……懐かしいって思うの……?)
何故、懐かしいと感じてしまうのか。
何故、泣きたくなるほど苦しいのか。
込み上げてくる不思議な感覚に支配されて、目の奥が熱くなった。
しかし詩那は、その切なさを振り払うよう頭を横に振る。
今は感傷に浸っている時間はない。どうやって現実に戻れるのか思案しなければ。
「……あれ?」
ふと、桜の枝の先に何かがあった。
それは、
日本刀で馴染みのある
柄に巻かれた
刀身は全体的に白く、刃まで同化しているため刀を美しく見せる
「……取れる、かな?」
とても綺麗な刀は、枝の先にある。落ちないか心配だが、それよりも好奇心が勝る。
ゆっくり枝の上を這って手を伸ばせば、驚くことに刀が浮き上がり、吸い寄せられるように詩那の掌に納まった。
右手で握り締めた詩那は目をぱちくりさせて、じっと刀を見詰める。
――刹那、脳裏に何かが浮かんだ。
「ひがん……ざくら……?」
そっと声に出して、それが刀の名前なのだと漠然と理解する。
次の瞬間、景色が歪んだ。
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