素顔を知った者

 微かな寝息が聞こえて、書類仕事をしていた雲雀は万年筆を置いてソファーに近づく。
 ソファーには、本来応接室にいないはずの少女がいる。

 名前は、時和天音。1年A組の中で優秀な成績を収めている女子生徒。
 元理科の教師・根津銅八郎を解任ではなく刑務所行きに追い詰める証拠を校長に提出するまえに、その証拠を受け取った時から知っている。

 興味を持って調べると、意外と面白い経歴を持っていた。


 両親は科学者で、海外へ出張に行くほど有名。
 兄は都会でも超難関で有名な大学に首席で合格した猛者。
 妹は地元で格の高い小学校に在学して、不登校が多い問題児だが成績優秀者。
 祖父は過去にイタリアの武器製造会社で働いていた経歴の持ち主。
 ちなみに雲雀は、天音の祖父を知っている。なんせ雲雀の仕込みトンファーの製作者なのだ。


 そんな家族に恵まれた天音は、家族と比べて平凡だった。
 学校では優秀な方だが特出したものはない。
 影も薄く、容姿も地味で、誰も気にかけない。

 何か秘密があるのではないかと思っていた矢先に、屋上へ向かう階段で若桜天音とぶつかった。
 慌てて謝った彼女は階段を上ろうとしたが、声をかけると振り返る。
 そこで、驚く。涙で頬を濡らしながらも、毅然きぜんと返事を返した姿に。

「君、何で泣いてるの」

 たずねたが、彼女は乱暴に涙を拭って、苦しげな呼吸を押し殺そうと喉を押さえた。
 痛々しい姿だというのに、不思議と弱さは感じられない。
 代わりに、脆いと思った。

「なっ……んで……」

 そんな彼女を応接室に連れ込むと、彼女は問いかけた。

「そろそろ掃除時間だ。あのままだと邪魔だから」

 雲雀は適当な理由を返すと、彼女は……ありがとう、と言った。
 なぜお礼を言うのか不可解で問えば、天音は震える声で答えた。

「だって……私がここにいたら、仕事の邪魔に、なるでしょう……? なのに……匿ってくれた……。――だから……ありがとう」

 掠れた声でもう一度礼を言った。
 今度は、ふわりと笑って。
 ガラにもなく、それがとても美しく見えた。

「時和……天音……」

 鞄に顔を埋めて眠ってしまった天音の名前を呟く。
 一瞬だけだが、心を動かす何かを持つ少女。
 雲雀は、このままでは体を痛めると思って気まぐれにも天音を横たわらせた。
 ついでに邪魔になる眼鏡を取って――呼吸が止まった。

 分厚く大きな眼鏡で隠れた顔が、とても美しかったから。

 家柄で美貌の主は腐る程見た。けれど、それとは比べ物にならない何かがあった。
 涙に濡れた長い睫毛に触れても、起きる気配はない。

「無防備すぎる」

 確かに雲雀は他人に興味がない。あるとすれば、それは強者だけ。
 だからといって無防備に眠るだろうか。雲雀が無体を強いたらどうなるのか。
 呆れから溜息を吐き、雲雀は羽織っている学ランを天音にかけた。

 ここで、ふと思う。なぜ自分は、天音に自然と優しくしているのかと。

「……不思議な小動物だ」

 そう、小動物。自分が口にした言葉に納得した雲雀は、小さな笑みを浮かべた。



◇  ◆  ◇  ◆



 チャイムの音で意識が戻る。
 私は……いつから眠っていたのだろう……?

 よく思い出せないまま横になっている体勢を起こすと、上に学ランがあった。

「掃除時間、終わったよ」

 雲雀恭弥の声で、ほっと安堵する。
 よかった。これで授業を無断欠席していたらどうなっていたか。

「ありがとう……」

 未だにぼやける目を擦ってお礼を言う。
 不意に、自分が眼鏡をしていないことに気づく。

 えっ、いつ取ったの!? それくらい気づこうよ!

 完全に意識が覚醒して周囲を見渡すと、ローテーブルの上に置いてある鞄の上に眼鏡があった。
 安堵して手を伸ばすと雲雀恭弥にその手を掴まれた。

「えっ?」

 驚いて顔を上げると、雲雀恭弥の顔が近くにあった。
 思わず仰け反ってソファーの背凭せもたれに寄りかかる。

「その目の色、本物?」
「えっ、あ……そう、だけど……」
「この眼鏡は、それを隠すため?」
「……家族の言いつけで」

 律儀に答えると、雲雀恭弥は「ふうん」と呟いて離れた。
 ……何が何なの?

「早く教室に戻りなよ。授業、遅れるよ」
「……あっ! えっと、ありがとうございました!」

 やばい、遅れたらやばい! 特にノートの書き取りが……!
 鞄と眼鏡を引っ掴んでお礼を言った私は、慌ただしく応接室から出た。

 ……雲雀恭弥って、案外優しいんだ。なんだか意外。
 廊下は走ったらいけないけど急いで、あと少しで一年生の教室がある階に着く。

「時和さん!」

 階段を下りた時、沢田綱吉の声が聞こえた。
 顔を向けて沢田綱吉を見ると、彼は目を見開いて私を凝視していた。

「どうしたの?」

 気まずくて問いかけると、我に返った沢田綱吉が恐る恐る訊ねてきた。

「あ、あの……時和さんって……眼鏡しなくても大丈夫なの?」
「……あっ」

 忘れてた! みんなに怒られる!

 慌てて眼鏡をつけると、沢田綱吉が問いかける。

「その……時和さん。掃除の時いなかったけど……大丈夫?」

 ……どうして私を心配するのだろう。友達でもない他人なのに。

「……少しマシになったけど、沢田君が気にすることじゃないよ」
「気にする。オレのせいで時和さんを傷つけたんだから」

 驚いて沢田綱吉を凝視すると、彼は真剣な顔で、そしてつらそうに眉を下げていた。
 私が泣いたのも、山本武を嫌いになったのも、自分のせいだと思っている。

 ……彼は、優しすぎる。

「沢田君のせいじゃない。あれはあの子の弱さが招いた結果だから」

 辛辣な言葉を吐く。けれど、沢田綱吉は怒らない。ただただ、悲しそうだった。

「……本当に、優しいね」

 ぽつりとこぼれた言葉に、沢田君は「え」と驚く。

「自分が死ぬかもしれないのに、友達を助けた。間違いを認めて、みんなの前で思いを伝えた。決闘の時もそう。先輩を傷つけるにしても、怪我はさせなかった」

 屋上から落ちても、自分を優先しなかった。
 持田の時も、本気を出せばボコボコにできたのに、しなかった。

「沢田君は強いよ。自覚してないだけで。本当は立派なんだから」

 本当に、羨ましいくらい。
 微笑んで言えば、沢田綱吉は衝撃を受けた顔をした。

「そろそろ教室に行こう。授業に遅れたら大変だよ」

 何事もなかったかのように言って、私は教室に向かった。


 この時、私は気づかなかった。いや、気づけるはずがない。
 私の言葉で、沢田綱吉の心境が変わりつつあることを。



◇  ◆  ◇  ◆



「沢田君は強いよ」

 誰かにそう言われたのは初めてだった。
 立派だと言ってくれたのも初めてで、心が震えた。


 時和天音。分厚くて大きな眼鏡をつけて顔の大半を隠して、長い黒髪を一つに束ねた、はっきり言って地味なクラスメイト。
 でも、空の彼方まで届きそうな、春の木漏れ日のような柔らかな温もりを感じる澄んだ声は綺麗だ。
 あの声であんなことを言われたら、誰だって衝撃を受けるに決まってる。

 時和さんは不思議だ。ずっと前からオレを理解しているような言葉を簡単に言って。

 山本のことだって、誰よりも早くスランプに気づいた。怒ったときも、山本の努力を否定しなかった。厳しいのに、言葉の端々から優しさを感じるほど。

 オレのことを優しいと言うけど、時和さんの方が優しいと思う。
 じゃないと、こんなオレの背中を押さなかった。苦し紛れに彼女に当たったオレに勇気をくれた。


「あなたには彼を救う権利がある。早く行って、助けてあげて」


 あの時の柔らかな声で告げられた言葉に衝撃を受けた。
 オレが間違いを犯したことを知っても、後押しして覚悟を決めさせた。
 時和さんは厳しいけど、その分だけ優しいんだって、この日、初めて知った。

「ツナ、どうした?」

 ハッと我に返ると、いつの間にか放課後を迎えていた。
 左隣の席に座っている尋君が心配そうに声をかけてきて、オレは慌てて誤魔化す。

「な、何でもない」

 ぎこちなかったせいで、尋君は眉を寄せてオレをジッと見つめる。
 気まずくて視線を泳がせていると、時和さんが足早に帰っていくところを見た。


 ――あの時、時和さんの素顔を知った。
 地味だと思っていた彼女の素顔はとても綺麗で、青っぽい瞳は神秘的だった。
 あの素顔で微笑まれたら、きっと――


「ちょっ、何で急に顔赤くなるんだよ」

 驚いた声で尋君に言われて、顔が熱くなっていることに気づく。

 うわっ、なに想像してんだ!? 時和さんの素顔で笑顔が見たいだなんて……!

 言葉を詰まらせていると、尋君がニヤリと笑う。

「笹川か?」
「いやっ……違うんだ」

 尋君のからかう言葉で少しずつ落ち着いてくると、はっきりと否定する。

「え? じゃあ、何で……」

 戸惑う尋君。何をそんなに驚いているのかわからないけど……。

「ナイショ」

 笑ってはぐらかして、オレは教室から出た。
 そう、内緒だ。時和さんの素顔を見たことも、彼女に認められたことも。


 ――……本当に、優しいね。


 切ない声で言われた言葉を思い出すと胸が詰まった。
 つらいんじゃない。泣きたくなるほど嬉しかったんだ。

「仲良く……なれると、いいな」

 時和さんは友達を作ろうとしないから、どうだかわからないけど。
 でも、時和さんと仲良くなりたいと思ったのは本当だ。
 また、あの声で、あの言葉を言われたい。そう思ってしまった。


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