失われた記憶

微睡みの中で私に話しかける声が聞こえた気がした。
それは始めとても小さな声だったから気付けなかったけれど、声は段々と大きく、よりはっきりと聞こえてくるー…。

「……ー娘さん!起きるんじゃ!こんな所で寝てたらいかん!」

今までで一番近くではっきりと聞こえた声と揺らされる身体の振動で、私の意識は微睡みからゆっくりと浮上していく。
目を開けた先には白髪のお爺さんが焦りと心配を込めた表情で私の顔を覗き込んでいた。


だれ?…知らない、お爺さん。


眠りから覚めた私を見てお爺さんは「具合が悪いのか?」と尋ねてきた。それに対し私は覚醒しきらない頭で少し考える。

具合は、悪くないと思う。

首を横に振って見せると、お爺さんはほっと安心したかの様に小さく息を吐いた。

「まだ明るいとはいえもうじきに日が暮れる、こんな所に年頃の娘っ子が一人は危ないぞ」

お爺さんは優しく私の体を支え起こしながら真剣な声色でそう言った。お爺さんが言う通り日が傾き空は茜色へと染まり始めている。
山に隠れ始めている太陽をぼんやりと見ながらどうして私はここに居るのかと考えて、ふと思考に何かが引っかかる。



あれ?そういえば私……



「村で見かけない顔じゃが、お前さん家は近いのか?」

そう聞いてきたお爺さんの言葉はほとんど私の耳に入ってこない。
やっと意識が覚醒してきたけれど、私の頭の中には分からないことだらけでその問いに答える余裕がなかった。



ここが何処なのか、私が帰る場所も………分からない。



「……帰り道が分からないのか?娘さん名前はなんと言う?」




自分の名前すらも分からなくて、私は最後まで何も答えることが出来なかった。








▲ ▲ ▲








「哉雅さん、お夕飯の用意ができました!」
「ああ皐月か、ありがとうすぐ行こう」

藤の木の下で哉雅さんと出会って一か月が経った。

あの時の私は何もかもが分からなくて哉雅さんの問いに何一つ答えることが出来なかった。取り乱す私の様子に何となく事情を察してくれた哉雅さんはむやみに問いただすことはせず、日が落ちる前にと私の手を引いて五代家へ招いてくれた。

白雪家に着いてからも哉雅さんは自分の状況がまだ把握しきれていない私を落ち着かせる様に優しく接してくれて、哉雅さんの奥さんである乙羽さんは突然連れてこられた素性も分からない小娘を温かく迎え入れてくれた。

とっぷりと夜が更けた頃には私も大分落ち着きを取り戻して、改めて哉雅さん乙羽さんと私自身について話し合ってみたけれど相変わらず私は何一つ答えられることができず哉雅さんの結論で私は記憶喪失になっている可能性が高いとのこと。私の恰好も哉雅さん達の集落ではまだ見慣れない洋服を着ていることから都会から出てきた際に、何らかの理由で記憶を一時的に失ってしまっているのだろうと哉雅さんは言っていた。

私が住んでいたかもしれない都会に行ったとて記憶が戻る保証はなく家に帰れるとも限らない。もしかしたら何か事情があって都会から逃げてきたとも考えられた為、哉雅さん達は私の安全を考えて白雪家に記憶が戻るまで過ごす提案をしてくれて、私はその提案に甘えさせて頂くことにした。記憶がなくても分かる二人の優しさに私は申し訳なさと嬉しさで思わず泣いてしまった。

ちなみに私が皐月と呼ばれているのは、私の着ていた洋服の衣嚢から出てきた一枚の紙札に明らかな手書きで"皐月さつき"と書いてあったのが見つかったから。見つけた時、何も覚えていない私だったけど紙札に手書きで書かれているその文字が何故か不思議と自分の名前だと感じた。
私の持ち物はその一枚の紙札と首から下げていた白い翼が生えた不思議な形の鍵、来ていた洋服のみでこれ以上は何も分からなかった。

「乙羽さん。哉雅さん呼んできました」
「ありがとう皐月ちゃん。配膳もお手伝いお願いしてもいいかしら?」
「はい!任せてください」

台所に戻り食事の準備をする乙羽さんに哉雅さんを呼んで来たことを伝えると、乙羽さんは柔らかい笑顔を見せながらありがとうと言ってくれる。私は乙羽さんの温かい言葉に心がぽかぽかする感じを覚えながら、乙羽さんの隣に立ち自分も配膳の用意を進めた。三人分の食事を居間に運び終えると私達はそれぞれ食事の乗った箱膳の前に座り手を合わせる。

「聞いてくださいな哉雅様、今夜の肉じゃがは皐月ちゃんが一人で作ってくれたんですよ」
「そうか!…うむ、とても美味いぞ皐月」
「えへへ、ありがとうございます」

白雪夫妻は記憶がなく何も出来ない私にもいつも優しく接してくれる。
ここで生活を始めた時はあまりにも悲惨だった。
記憶の所為かは分からないけど着物も一人で着付ける事が出来なくて、お料理やお風呂を沸かす為に井戸で水を汲むことも火を起こすことだって出来なかった。ここで一ヶ月生活していく中、二人に色々と教えてもらったおかげで今では最低限の生活力をやっと身につけることが出来たけれど。

「後片付けは私がやるから、皐月ちゃんはお風呂の準備をお願いね」
「はい!分かりました」

夕食が終わると乙羽さんはそう言って私にお風呂の準備を指示する。一人で出来ることが増えてきたおかげで最近はこうしてお風呂の準備などを任せてもらえるようになった。お世話になってる二人に自分の力で何かしてあげられることがとても嬉しい。

一度屋敷を出て薪棚から適当な数の薪を手に取った私は足早に屋敷の中へと戻る。風呂場へ行き木製の風呂桶に被せた木蓋を退かして中に水が張っているのを確認したら、釜戸に火をつける。風呂の水は井戸水を使っていていつも日が登っている明るい時間に汲んでいた。哉雅さんになぜ昼間に風呂の水を汲むのか尋ねた時、「夜になると鬼が出るから外に出てはいけない」と言っていた。だから鬼の出ない昼の間にお風呂の水を汲んでおくのだそうだ。



"鬼"



おとぎ話や、伝承などで目にする異形の者。
疫病や天災など、恐ろしい出来事や病をもたらす存在。或いは人間が抱える恨みや嫉妬、怒りといった強い負の感情が変化した妖怪の姿。
諸説はあるが、結局のところ人の空想が生んだ生き物である。


そう思っていた。


白雪家の書棚に並ぶ『歴代光柱の手記』。それら手記全てには人喰い鬼についての記載がある。哉雅さんに聞いた時は半信半疑だったけれど手記を読み進めていく程、人喰い鬼は実在するんだと思わされた。

『歴代光柱の手記』といえば、人喰い鬼の情報よりも”光の呼吸”についての記載が圧倒的に多かった。光の呼吸とは人喰い鬼を滅する為に編み出された呼吸法で別名”全集中の呼吸”と呼ぶらしく、この呼吸を極めることにより肺活量や身体能力が飛躍的に向上し、人でありながら鬼のような強さを発揮することができるのだとか。
又、この呼吸を上手く利用すれば神経が研ぎ澄まされ負傷部位の止血などにも応用が出来るみたい。呼吸ってすごい。

その呼吸にもいくつか種類があるらしく”日の呼吸”を起源として、そこから派生し水、炎、岩、風、雷の五つの基本流派が生まれ、またそれらから派生して生まれた呼吸が多々あり【光の呼吸は雷の呼吸から派生した呼吸法である】と初代光柱の手記に書いてあった。

「……私が記憶をなくしたのは、鬼のせいなのかな?」

ぽつり、無意識に私はそう小さく呟いていた。

こんな私を見捨てずに手を差し伸べてくれた白雪夫妻に不満なんて一つもありはしない。むしろ感謝してもしきれない程にありがたく思っている。
けれど失った記憶の分、どうしても満たされない自分が居ることも確かなのだ。



鬼に会えば、何かを思い出せるのではないか?



ふと、そんな考えが頭を過ぎったがすぐにその思いも消えた。
手記に記されている様な残虐非道な人喰い鬼に会えたとして、たとえ記憶が戻っても命までもが無事で済むとは限らない。最悪な場合には白雪夫妻まで巻き込んでしまう恐れもあるのだ。そんな不確かで危ない橋を渡る勇気を私は持ち合わせていない。
それに私はこの手記の者達のように呼吸を扱うことなんて出来ず、鬼を滅する手段を持ち合わせていないのだから。

お湯を沸かし終えた私は乙羽さんに風呂の準備が出来たことを報告する為、お風呂場を後にした。

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