甦る光
じわじわと視界が波打って哉雅さんの顔が滲んでいく。逝ってしまった。姿かたちはあるのに、もう、ここには居ない。皐月、って温かい声で呼ばれることも、優しく微笑んでくれることもなくなったんだ……。
ぱたぱた、と溜めきれなくなった涙がこぼれて哉雅さんの頬に落ちていく
「チッ。やっぱり年寄りはマズイな」
真っ暗闇で冷たい、大きな悲しみという感情に飲み込まれてしまいそうな時、現実に引き戻すように鬼の声が耳に入った。
「ババアもどうせ喰えたモンじゃねーだろうし、こっちの女にするか」
「…………………」
一人で喋りながら、ヒタヒタ、と裸足が畳を歩く音が段々と近付いてくる。鬼が近寄ってきている。頭では理解しているけど、少しずつ熱を失っていく哉雅さんから離れたくなくて逃げようとも思えなかった。
どうせなら、私も二人と一緒にー……
『皐月(ちゃん)、生きなさい』
「……ーっあぁ!!!」
「っ!!?」
聲が聴こえた。
温かくて、優しい聲が…。
その瞬間、私は考えるよりも速く哉雅さんが握っていた刀を掴み取り、私に襲い迫っていた鬼を薙ぎ払った。
私が切りかかってくるとは思っていなかったのか鬼は驚いた顔をしていたけれど反射で身を引いたのだろう、私が振るった刃は鬼の頬を掠めただけだった。
「…ーっぐぅ…!」
反対に私は鬼の攻撃をモロに受けて負傷してしまった。
右の胸元が切られたことで襦袢の布がぺらりと捲れ、傷口からは止めどなく血が流れている。
痛い。傷口がじわじわと熱をもって痛む。
「…この匂い…。女、お前"稀血"か!」
鬼が私を見て高揚した様子でそう言った。
まれち?ああ、"稀血"か。たしか光柱の手記にそんな記述があった気がする。私、稀血だったんだ。
危機的状況な筈なのに私の頭は場違いな程に冷静で、自分が鬼でいうご馳走に当たることを認識していた。
その間に鬼はこれまでと打って変わり興奮した様子で、血走った目で私の姿を捉えると猪突猛進に襲いかかってきた。
なんとか刀で応戦するも、慣れない武器に思うように動けず私の体には傷が増えていく一方だ。
血だらけで息を上げる私を見て鬼は愉しそうに笑う。
このままじゃ駄目だ。
哉雅さんと乙羽さん。二人が繋ぎ守ってくれたこの命を簡単に奪われてはいけない。
乱れた息を整えるため深呼吸する。
そうだ"呼吸"だ。
深呼吸をしたことがきっかけで、私は以前に光柱の手記に記されていたことを思い出した。肺活量や身体能力を向上させるという"全集中の呼吸"を使えば私にも鬼の頸を切ることが出来るかもしれない。
ただ問題なのは、その"全集中の呼吸"を私はやったことがない。
手記を読み進めていけば少しでも失った記憶を思い出せるかもしれない、と淡い期待を抱いて私は光柱の手記を毎日のように読み耽っていた。ただ二年間ずっと、読んでいただけ。
いきなり実践でやったことない"呼吸"が出来る自信なんてない。当然だと思う。それでも―……、!
『「―大丈夫。絶対だいじょうぶ だよ。」』
ずっと、ずぅーっと胸の奥の方で温かく優しい声が一緒にそう言った気がした。
目を閉じて全身の神経に意識を集中する。瞼を閉じる前に見えた鬼の顔は私の発した言葉に怪訝な表情をしていた。
体の内の血と酸素が巡る動きに意識を集中させながら、光柱の手記に書かれていたことを思い浮かべる。
"それはまず深く息を取り入れ、止める"
"全身に息が巡った時が要"
鼻で嗤った鬼が畳を蹴り上げる音がすると、風を切ってすぐ私の目の前に迫りくる気配を感じた。
"全てを解き放ち、己が光の如く輝ききるべし"
「 光の呼吸 壱ノ型
目を開いた先には首から上のない鬼の胴体。
頭は重力に従って床に落ち、私の足元へと転がってくる。
私、生きてる。
自分の左胸に手を当ててみればトクン、トクン、と心臓が一定のリズムで動いているのを感じられる。
安堵感からほっと小さく息を吐き出した時、下から鼓膜を震わせる罵声が飛んできた。
「〜〜ンのアマァっ!くそっ!クソォっ!…オマエさえっ!稀血さえ喰えればオレだって!!…あの方に認めてモラえるのにっ……!!」
「…………」
光柱の手記に鬼は皆、元は"人間"であったと書いてあるのを見た。鬼の始祖の血によって、人間が鬼となるのだと。
そして、鬼は人の血肉しか喰べられないことも。
この人も前は私と同じ人間だったんだ。
どうして鬼になってしまったのか。……されてしまったのかは分からないけれど、鬼となってからはきっと少なくない数の人を喰べてきたんだと思う。
この人が鬼となる経緯や動悸は与り知らないことだし、日輪刀で頸を切り落とされない限り老いることも病にかかることもない強靭な体になれるのだとしても、自分と同じだった人を喰べざるを得ないモノとなることはとてもー…
「……ンで、テメェが泣くんだよ……。」
私の目からとめどなく涙がこぼれていく。
それを鬼の彼はすごく意味がわからないというような顔で私を見る。
「……同情か?…オレを哀れんでんのか?…テメェがオレの頸を切ったくせしてっー……!」
同情なのかもしれない。
私は…、私が生きる為にこの人の頸を切った。
なのに、人間だったこの人が同じ人間を喰べなくてはいけない鬼として命を散らすことがとても、……悲しいと思った。
「っふざけんンなよ!…テメェがオレに同情する権利なんざー……っ、!?」
「…ごめんなさい。」
崩れ始めているその人の頬にそっと触れる。
青白い肌は見た目よりもうんと冷たく、人の温もりはもう感じられない。
私はこの人に殺されそうになったし、
大切な人たちの命を奪われた。
そのことはずっと、許すことが出来ないけれど。
「…私、……あなたの分まで、生きます」
「……………」
人喰い鬼だったとしても、私はこの人の命を奪った。
その罪を背負い、私は生きる。
だから、どうか神様―…
鬼のこの人は人を殺したけれど、
人間だったこの人の魂は救われてほしいと思う。
来世では鬼になんてならないで、
あなたが、幸せになれる人生が必ずあると信じて願います。
彼の瞳から一粒の雫が流れると、
彼の胴体と頭は塵となって消えていった―…。
▲▲▲
彼が消えた後、私は冷たくなってしまった哉雅さんと乙羽さんを見て一晩泣きじゃくった。
空が白み始めた頃には涙も段々と出なくなってきて理性も涙と合わせる様に戻ってきていた。
泣き続けたところで二人が生き返ってくることはない。
「………お墓、…つくらないと…」
二人の遺体をこのままには出来ないから屋敷の畑の傍に埋葬することにした。その為にはまず墓穴を掘らないといけないけれどその前に、離れて倒れている二人を隣に寝かせてあげよう。
そう思って哉雅さんの隣に乙羽さんの体を運ぼうと抱えた時だった―…
「…ごめんくださーい!」
屋敷の外から声がした。
村の人の声だ。こんな朝早くに訪ねてくるなんて珍しいなぁ、
どうしたんだろう?
「白雪先生、日の出前に申し訳ないのですがうちの子が熱を出してしまったので薬を―……ヒィっ!?」
最近では村の人達は哉雅さんの病態を知っているので診察や薬をもらう時には、哉雅さんの部屋に直接訪ねて来ていた。
なのでこの人もいつもの様に外から直接、哉雅さんの部屋に訪れたのだろう。
しかしいつもと違って哉雅さんの部屋は今、鬼の襲撃で荒れた惨状となっているので部屋の中を見た村の女の人が小さく悲鳴を上げる。
私が夜に起こったことを説明しようと口を開いたら―…、
「―っこの人殺し!!!」
「………え…?」
村の女の人が私を見てそう叫んだ。
言われた言葉がなぜ自分に向けられたのかが分からなくて頭の中が混乱する。女の人はその胸に小さな子供をぎゅっと抱いて親の仇を見るかのような視線で私を射抜いて、その圧に体が凍ったように息が詰まり動かなくなる。
「…ち、ちがっ―、」
「よくもっ!あんなに良くした人達にこんな仕打ちが出来たわねっ!!」
弁解しようと上手く息が出来ないままに声を出せば、それに被せて女の人の怒号が投げられる。
ちがうっ、私が二人を殺したんじゃないっ…!
そう思っても言葉は上手く口からは出てくれなくて、小刻みに息を吐きだすだけで終わってしまう。
その間にも女の人の罵声は止むことはなくどんどんと過熱していく。
「身寄りのないアンタを優しく招き入れた先生達をっ!人殺し!この村から出ていけっ!!」
女の人の言葉が鋭い刃物になったように私の心を切り裂いていく。
じわじわと涙が目に浮かんでくると、日の出前だけれどこんなに大きな声を上げ続けていれば村の人達も目を覚ましてきたのだろう、ぞろぞろと様子を見に人が集まってくる。
女の人の罵声と部屋の中の惨状を目にした村の人達は、みんな女の人と同じ目をして私を見た。中には鍬や鎌を私に向ける人もいて、ついに私の目からは堰を切ったように涙がこぼだれ出す。
村の人達から向けられる憎悪に絶望して動けずにいる私に、村の人達は武器を手ににじり寄ってくる。
『皐月(ちゃん)、生きなさい』
「―…っ!!」
「あっ!逃げたぞ!!」
「待てェっ!この人殺し!!」
「村から出ていけェっ!!」
再び聴こえた優しく、温かい聲に凍った体は溶けたように村の人達の罵声を背に浴びながら動き出す。
私は日の出前の薄暗い山の中へと走り、村を飛び出した。