悲しみを乗り越えて
羽釜の蓋を開けるとむわり、と白い湯気が立ち込めた。
杓文字で釜の中の白米を底からふっくらと混ぜ合わせると、炊き立てご飯の甘い香りが鼻孔をくすぐる。おかずとみそ汁はすでに出来上がっているので、あとは盛り付けをすれば朝食の準備は終わりである。
羽釜に蓋を戻した私は草履を脱いで土間から上がり廊下を進む。廊下の先、目的の部屋の前に辿り着くと中の人物に聞こえるように声をかけた。
「桑島さん、おはようございます。朝ご飯の準備が出来ました」
「ああ皐月か。うむ、今行こう」
中からは芯が強くやや高めな老人の声が返ってきた。
ほどなくして襖が開き中から立派な髭を蓄えて、白い三角が散りばめられた黄土色の着物を着た老人が出てくる。
義足の右足に左頬には傷跡のその風体は凛々しく、そこらの一般のご老人には到底見えない貫禄が溢れ出ている。
二人で並んで居間へ着くと桑島さんを座って待たせ、私は台所へ戻って二人分の箱膳を準備する。
桑島さんは自分の分は自分で運ぶと言うが、片足が義足であるうえ、なくても歩けはしているが杖をついている人に持たせるのは忍びないので、意地でも私が運ぶようにしていたらいつの日か諦めてくれたのか居間で座り待っていてくれるようになった。
箱膳を運び終えて私も自分のお膳の前に腰を下ろすと、それを見計らった桑島さんが両の手を合わせるので私も同じく手を合わせる。同時に「いただきます」と言った私達は橋を持ち食事を始めた。
年の功か、礼儀正しい桑島さんは食事中にお喋りをすることはなく、静かにもくもくと橋を進めている。
私も特別、急な要件などがない限りは食事中に話しかけることもないので気にせず自分の食事を食べ進めた。
最近の私の静かな朝の日常だ。
「皐月、ここでの暮らしはやっていけそうか?不便があれば遠慮せず儂に言いなさい」
食後のお茶を飲みながら、これを飲んだら片付けをして…と今日のやることを頭の中で整理していたら、同じくお茶を飲んでいた桑島さんがこちらを見てそう言った。
「ありがとうございます。私は大丈夫ですよ!傷も大分良くなりましたし」
「そうか。それならばいいのだが、無理はするんじゃないぞ」
「はい!」
ツリ目で厳つい容姿の方だけど、ここに来てからずっと私のことを気にかけてくれる優しいお爺さんに自然と表情が緩む。
私がこのご老人、桑島慈悟郎さんのお屋敷で生活をするようになって三週間ばかりが経っていた─…
▲▲▲
─三週間前─
……足の感覚が、ほとんどない。
村の人達に追い立てられた勢いで草履なんかも履かずに山に出てきてしまった。もちろんお風呂上がりで羽織りなんかも着てなかったから、屋敷を飛び出した始めはとても寒くて体の震えも止まらなかったが、それも数時間経てば寒さに慣れてしまったのか今はなんとも思わない。
ああ、凍傷になりかけているなぁ…と無駄に冷静な頭で思ったけれど、周りを見ても雪と木々が果てしなくあるだけで暖をとれそうな所もない。
絶望的な状況であったけれど白雪夫妻と鬼のあの人の事を思うと、ここで生きることを諦める気持ちにはならなかった。
そうして歩き続けていたら木々の中にひっそりと建つ小さな小屋を見つけた。
近くで見ると外装からすでにボロボロだったけれど、外に居るよりかはマシになると思い建物の中へ入れてもらおうとして戸を叩いた。
「…ごめんください」
あまりの寒さで震えたか細い声しか出なかった。声はともかく戸を叩いた音は、静まり返る雪の山中では聞こえていただろうと思い反応を待ってみる。
「………居ないのかな?」
待てども一向に反応のない様子から、もしかしたら空き家なのかも…と考えが浮かんだ。
手足の感覚がなくなってきていることもあって、不本意ながら建物の中に入らせてもらうことにした。
これでもし住人がいた時は素直に謝ろう。
立て付けの悪い戸を少しばかり強引に開ける。
中はしばらく人が生活をしていなかったようで、少しすすけていていた。
一通り建物の中を見て回ったが人の姿はなく、どうやら本当に空き家だったみたいだ。
夜逃げでもしたかの様に生活用品などがそのまま残っていたので、これ以上に体を冷やさないため掛け布団を一枚拝借して包まる。
微かに残っていた体温がじんわりと布団の中で広がって、冷めきった体を少しずつ温めてくれる。
鬼の襲撃に養父母の死。
村の人達からの嫌悪と殺意。
傷だらけの体で真冬の山を彷徨って─…
昨晩から起きる悲劇の連続に心身共に疲れきってしまっていた私は、落ちる瞼に逆らうことなく意識を手放した。
────
ぼんやりと目を覚ました時には日はすっかり落ちて、山も小さな屋敷の中も真っ暗闇だった。
体を覆っていた掛け布団のお陰で凍傷の症状は抑えられたようではあったけれど、まだまだ体は寒さに震えていた。
はぁ、と小さく吐いた息が白くなって、やがて消えていくのをぼんやりと見つめる。
もう体を動かせる気力もない。
重くなってくる瞼に逆らえず少しづつ視界が狭くなっていく。霞がかる意識の中で寝たら駄目だと己の脳に警告が出ているのに気が付いているけれど、どうしようもなく瞼が下がってくる。
ああ、ここで死ぬんだろうか─…
そう思い始めた時
突然開いた玄関の戸の隙間から外の冷たい空気が私の頬をなでた。薄なっていく意識の中、誰かに声を掛けられたのを最後に、私の視界は暗転した。
▲▲▲
あの時助けてくれた人が桑島さんだった。
医者として近隣の町村では割と名の知れていた白雪夫妻の訃報は瞬く間に広まり、隣町に住んでいた桑島さんも村の騒動の噂を耳にして様子を見に来てくれたらしい。
いざ村に着いて話を聞いた桑島さんは、白雪夫妻の死は私がやったんじゃないと分かってくれたようで、薄着で山へと入った私の後を追い山中の小屋で凍傷により死にかけの私を見つけ保護してくれたのだ。
その後は桑島さんの屋敷で治療を受けさせてもらったことで、私は少しづつ回復していった。
体調がある程度に安定した頃、桑島さんから村の人達は私が白雪夫妻を殺したと思い込んでいることを改めて聞いた。
脳裏に村の人達が私に向けた憎悪と殺意の表情が鮮明に残っている。
ああ、また失ってしまった………
未だに取り戻せずにいる記憶に足して、新たに得たものですら私の元には残らない現実に悲しさが涙となって瞳からこぼれる。
「…行く宛がなければ、ここに居なさい」
白雪夫妻と村の人達の信頼など全てを失って行く宛なんて当然なく、まさに絶望で先が見えなかったけど、桑島さんのその言葉に白雪夫妻の聲が蘇った。
『皐月(ちゃん)、生きなさい』
絶望で忘れかけていた二人の意志を、私は守りたい。
その日から私は、桑島さんの屋敷で生活することになった。