1話
いつもなら酒場というの名の通り酒飲みたちで賑やかなフラッグシップだが、その日は珍しく客達はアルコールではなくこの空間に響く耳心地のよい歌声に酔いしれていた。
お世辞にも立派とは言えない簡素なステージに不釣り合いな美しいグランドピアノの鍵盤を叩く一人の少女が歌を紡いでいる。その姿は幻想的でまさに高嶺の花ともいえる光景。
その日、フラッグシップに訪れた客達は少女の歌声により安らぎの時間を過ごした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「お疲れ様です」
演奏を終えると途端にフラッグシップはいつもの賑やかさを取り戻し、お酒や料理の注文する声や人々の会話でガヤガヤと騒がしくなった。今日はもうフラッグシップでの依頼は終えたので帰るために後片付けをし始めると、後ろから低く落ち着いた男性の声に労いの言葉を投げかけられた。
振り返った先には黒色をベースにした洋服を身に纏う長身の男性が、まるで満月を宿したような双眼を私に向けていた。
「本日も素晴らしい演奏でした」
「フリンズさん、ありがとうございます。今日も来てくださってたんですね」
「ええ。あなたの歌を聴きにここへ来ることが最近の僕の楽しみです」
無法地帯の土地に住まう者とは思えないほどに物腰柔らかい口調の彼は、私がフラッグシップで歌を披露するたび足を運んでくれる、言わば常連さんである。
「本日はもうお帰りですか?」
「はい。そのつもりです」
「でしたら外はもう闇深い。月明りだけでは心許ないでしょうからお送りしましょう」
「……あの、フリンズさん。毎度送ってもらわなくても大丈夫ですよ」
「僕がしたくてしていることですから。お気になさらず」
会話や所作の節々に教養の良さを感じさせる彼はただの紳士ではなく、このナド・クライの土地で起こるワイルドハントと呼ばれる災いに対抗する組織”ライトキーパー”に所属する一人だ。ワイルドハントは日が落ちた夜分に遭遇しやすいと聞くので職業柄、彼は毎度のように私を送り届けてくれている。
確かにワイルドハントは危険だけれど私は神の目を持っているし、まして長いこと国を渡り歩いてきた旅人だ。本職のフリンズさんには劣るだろうが己の身を守る程度の実力を持ち合わせている自信はある。なのでフリンズさんに毎度の帰路の護衛を遠慮したのは今回だけではない。がしかし、毎度物腰柔らかな口調に反してフリンズさんはとても頑固で口達者だ。結局、フリンズさんに勝てない私は満足気に笑む彼にいつも送ってもらうことになるのだ。
ナド・クライの首都ナシャタウンから足を踏み出せば夜分に残る人や機械の喧騒は遠ざかり、いずれ聞こえなくなった。かわりに頬をなでるひややかな風たちが草花を揺らす静かな夜道に私とフリンズさん、二人分の足音だけが鳴る。
「いい夜ですね」
隣から聞こえた言葉に夜空を見上げた。
陰りのない漆黒に散らばる星々は小さいけれどとても綺麗に輝いていて、そんな星々に囲まれている月は闇夜を歩く私達を聖母のような優しい光で照らしてくれている。夜風はいささか肌寒さを感じさせるが、それでもこの穏やかで神秘的な瞬間はたしかにいい夜だと思えた。
ふと視線を感じて隣に顔を向けると、今しがた見上げていた月と同じ色の瞳を僅かに細めてフリンズさんが私を見ていた。
日の下で見る彼は異常なまでの肌の白さや虚ろな表情が相まってどこか不気味さを感じさせられたけど、月夜の中で凛と佇むフリンズさんはその見目麗しい姿からとても絵になっている。まじまじと見る私にフリンズさんは不快そうな表情は見せず「ふふ」と小さく笑うと「今夜も冷えますのでそろそろ行きましょう」と言って止めていた歩みを再開した。
お互い他愛もない話を交わしながら廃材が至る所に積まれたカチャカチャ・クルムカケ工房を通り過ぎて浅瀬を渡った先の地には、豊かに生い茂る草木と幻想的で清らかな雰囲気を放つ祈月の花が咲き乱れている。
ああ、綺麗だな。と毎日見ているけど飽きずにそう思う。
ナシャタウンからそれなりに距離があるこの神秘的な島、ヒーシ島。とある出来事があってから私はヒーシ島の霜月の子にお世話になっている。霜月の里の入口とも言える新月神像の前まで着くと私達はどちらからともなく歩みを止めた。
「今日もここで大丈夫です。ありがとうございます」
「礼には及びません。貴女を送るついでに巡回もでき、僕には一石二鳥です」
「…お仕事の邪魔になってないといいんですけど」
「邪魔だなんてとんでもありません。たしかに一人で見廻る静かな夜も嫌いではないですが、貴女と過ごす今日の様な夜は他には代えがたいとても有意義な時間です」
ライトキーパーの職務について私はあまり詳しくない。どこまでも優しい彼の仕事を知らず内に邪魔していないか不安に思ったことを素直に言ってしまえば、彼はそんな事はありえないといった様子で緩く頭を横に振りそう言った。
自分とのなんて事ない時間を代えのない物だと言われて嫌な気持ちになる人なんてきっといないはずだ。少なくとも私はフリンズさんが私との時間を良い物だと感じてくれていることに照れくさくもあるが嬉しく思う。
「そう言ってもらえて少し安心です」
「僕が勝手にしていることなのですから、貴女が気を煩わせる必要などありません」
けれど、いくらフリンズさん本人が気にしなくていいと言おうと本来ならしなくていい業務を増やしてしまっていることに対して、やっぱり多少の罪悪感は残ってしまう。それを見通していたかのように彼は「ですが、貴女のことですから僕がなんと言おうと気にしてしまうのでしょうね」と端正な顔にうっすらと笑みを浮かべて言った。
フリンズさんとはまだ長い付き合いとは言えない間柄だが、思い返せばナド・クライに来て過ごした日々の大半は彼と一緒にいることが多かったような気もする。洞察力に優れた彼からすればこの会話で私がどう思うかなんて簡単に予想ができてしまうのだろう。
「すみません、そういった性分で…」
「いえ、そういったことも貴女の素敵なところだと僕は思いますよ」
「……、ありがとうございます」
「ふふふ」
あまりに真っ直ぐ褒めてくれるフリンズさんに段々と小っ恥ずかしくなってきた私は、最終的に小さく感謝の言葉を伝えるので精一杯だった。頭上から楽しそうにする彼の笑い声がした。なんだか弄ばれているようで少し悔しい…。
「……っ、とにかく!今日はありがとうございました。…フリンズさんも、帰りは気をつけてください」
「ふふ。はい、お心遣いありがとうございます」
「…それじゃあ、おやすみなさい」
「ええ。おやすみなさい」
フリンズさんに背を向けて私は霜月の里へと歩きだす。彼とのやり取りで変に緊張していた私は振り返ってフリンズさんを見る勇気なんてなく、無意識に急ぎ足でその場を離れた。
─だから、その後の彼が私の後ろ姿が見えなくなるまでその場に居たことも、その唇が小さく言葉を紡いだことも知らない。
『 本当にいい夜だ 』
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