08

わたしがヒーローになりたいと思ったのは何故だろう。"雄英生らしく"という飯田くんの言葉が耳から離れない。あの後、一度は委員長になった出久くんが辞退しつつ飯田くんを推し、1-Aの学級委員長は飯田くんになった。食堂での騒ぎのこともあって、クラスのみんなからも異論は出なかった。
飯田くんの所作を見ていると、彼もまた正しいと思う。真面目ゆえに行き過ぎることもあるけれど。「皆の手本となるように、皆を正しく導けるように、誠心誠意取り組ませてもらおう」と嬉しそうにしていた飯田くんを度々思い出す。ふと気付けば、教室には誰もいなくなっていた。

慌てて時計を確認し、窓から外を見下ろすと真っ黒な頭に真っ黒な服が目に入る。げ、と思わず声に出た。マスコミに侵入された正門には、一時的に防犯機能が疑わしいといった理由で相澤先生とブラドキング先生が並び立ち、下校する生徒を見送っていた。今日の騒ぎのこともあり、部活動や自主練が禁止されたため速やかに帰宅しろと言われたのはもう20分ほど前のことだ。急いで教室を出て、バタバタと靴を履き替え、まだまばらに残っている下校中の生徒の群れの中に紛れ込む。

「……苗字」
「はっ、はい!!」

相澤先生の声に足を止める。バレないかもと思ったが、さすがにそんなにムシのいい話はないようだ。

「俺が教室を出て何分経ったと思ってんだ。他の奴らはとっくに帰ったぞ。指示はちゃんと守れ」
「す、すみません…」
「A組もB組も合わせておまえが一番最後だ」
「以後気を付けます」
「まぁいい。気を付けて帰れよ」

お説教からずっと無表情のまま、ひらひらと手を振る相澤先生に軽く会釈をして崩れてしまった門から外へ出る。相澤先生の顔を見るとどうしても「除籍だ」と言われたあの無慈悲な夢を思い出してしまう。
もともと沈みがちになっていた気持ちが更にどんよりとしていくのを感じながら通学路を歩いていると、ある一角に人だかりが出来ているのに気付いた。そんなに大勢の人がいるわけではないが、いつもなら誰もいない脇道を囲むようにして出来ているソレに違和感を覚える。

「どうしたんですか?」
「通り魔だかケンカだかわからないけど、何か暴れてるらしいよ」
「…なるほど。ありがとうございます」

一番手近な野次馬に声を掛け、大したことがなさそうだと通り過ぎようとしたその瞬間に「雄英らしく」という飯田くんの言葉が脳裏をよぎった。もう一度、人だかりに目をやる。ヒーローはこういう時見過ごしはしないはず。そう思って、野次馬の中へ飛び込んだ。謝罪をしながら、個性の力も借りながら人の体を押しのけて一歩一歩と前へ進んでいき、そして原因である人物が目に入った瞬間に悔やむこととなった。
ふわふわとした青白い髪の毛が風で揺れる。顔を始め、肩や腕など至る所に手のひららしきものをつけた男だった。彼の姿を確認し、思わず身を竦めた。あの人の視界に入ってはいけない。
背筋を冷たいものが伝ったような気がした。錯覚だろうか。それでも本能が告げている。この場から立ち去らなくてはならない、と。

「黒霧のヤツ、どこ行ったんだ?こんな雑魚どもの相手をしなきゃならないなんてツイてない」

彼はボソボソと呟きながら、目の前に立っている女の人の首筋に触れた。その途端に彼女の皮膚が剥がれ始め、血と肉が露わになる。あれが個性なのだろうか。周囲の野次馬がなぜ騒ぐだけで動かないのかわかってしまった。恐怖で体が固まってしまっているのだ。どうしてわたしはここへ来てしまったんだろう。あの人の視界に入る前に、ここから立ち去らなくては。

――雄英生の名に恥じない行動を

だめだ。こんな時にまで。そう思ったのに、わたしの足はもう動き始めていた。

「……その制服」
「だ、大丈夫ですか?」

女性のことを掴んでいる男の腕へと手をかけ、そう声を発するので精一杯だった。か細く、震えている今にも泣き出しそうな情けない声。女性の喉元の皮膚は抉られていて、目線も虚ろ。もちろん返事はない。彼女の目尻に溜まった涙が頬を伝うのに気付き、唇を噛み締める。もう少しだけ早く動けていれば良かったのに。

「オイオイ無視かよ」
「……この手を離してください」
「まず命令か、さすがはエリート様だな」
「この人だかりを見た時に通報してあります。すぐにヒーローか警察が来ます」
「……へえ。今は面倒ごとは困るな」

マスクの奥で狂気に満ちた瞳がギラギラと光っている。ゾクリ。その感覚には気付かないフリをする。お願い、だれか、早く助けて。心の中でそう祈りながら、目の前に立つ男をじっと見つめる。

「…あ」

彼の視線が上へ向かう。釣られてビルを見上げれば、屋上から黒いモヤのようなものがこちらを見下ろしているのがわかった。あれは何だ。身を硬くしたその瞬間、男に腕を振り払われる。

「早くゲート出せ!」

掴まれていた女性とともに地面へと投げ出される。あの細い体のどこにこんな力があるのかと驚きつつも、女性がこれ以上ケガをしないように彼女の体を自分の方へ引き寄せ、地面へと個性を発動させる。バイン、と地面に当たる前に身体が跳ねた。
横目で、男が黒いモヤの中へ消えていくのを眺めながら呟く。

「あ、やばい」

個性のコントロールをミスした。少しの反動とともに地面へと叩きつけられ、小さく呻く。何とか女性の下敷きになることはできたが、彼女の首からは止めどなく血が流れ出て、顔色は真っ青のまま。あの男にやられた首元の傷は素人目にも致命傷だった。
ハンドタオルで傷口を押さえるが、ドクドクと溢れる血液は止まらない。パトカーのサイレンの音が聞こえてくる頃には、最初は遠巻きに見ていたはずの周囲の野次馬はどんどん輪を狭めて近づいて来ていて――吐き気がした。