廃病院の女性の怪 03



 たっぷり三分そのままの体勢で黙り込んでいたが、師匠が息を吐いたので俺たちも項垂れる。いつの間にか息を止めていたみたいだ。

「……藤を連れてくるべきだった」

 苦りきった表情の師匠が絞り出したその言葉に、ことの重大さを思い知る。
 藤というのは、彼が相方を呼ぶときにつかういくつかの名前の中のひとつだ。俺たちが姉御と呼び慕う彼女は、師匠が普通の人間の最強レベルの見鬼だとすると、それをひとつふたつ簡単に飛び越えた神さまレベルの強い力を持っている。

「無事に出られるかどうかってとこですかね……」
「巽が危ないな、これは」

 俺にはよくわからない会話をかわす二人を交互に見つめていると、「お前には聞こえんかったんか」と巽が項垂れた。

「……『殺す』って言われた」
「えっ、なんで。そもそも彼女はなんであんなに怒ってるんです?」
「知るかよ……それがわかりゃ苦労せんわ……」

 ぞわ、と背筋が粟立った。
 さっきは足音も頭を擦る音も聞こえていて接近がわかったのに、今は音もなく、カウンター越しに俺たちの背後に立っている。巽が真っ蒼になって口元を手で覆った。師匠がにやりと口角を釣り上げる。
 この中では見鬼が最弱の俺には、『そこにいる』ということしかわからないが、俺より強い二人には何かの声が聞こえているんだと思う。

 師匠が懐中電灯を勢いよく放り投げた。ナースステーションの壁にぶつかって落っこちたそれ目がけて背後の気配が移動していくと、三人一斉に飛び出してカウンターを乗り越えた。
 俺はズボンのポケットからスマホを取り出してライトを点ける。先導する師匠の足元を照らしながら一階まで駆け下りたところで、巽がついに捉まった。

 シャツの裾を握られている。
 これまで後ろ姿しか視ていなかったが、彼女の顔には目や鼻がなかった。長い前髪に覆い隠されてよく視えないが、口もないように視える。のっぺらぼうみたいな白い顔は吐き気がするほど不気味だ。
 彼女の大きな頭にめり込むような形になった巽が、目を見開いて固まった。その喉の奥から喘鳴に似た悲鳴が零れ落ちる。

「巽!!」と思わず大声を出して立ち止まった俺の後ろで、師匠は待合スペースにあった朽ちたイスをひとつ掴むと、遠慮容赦なく巽に向かってぶん投げた。
 イスは巽の頭上、彼女の大きな額に命中する。
 卒倒した巽を半ば引きずるように肩に担いで、俺は病院の外を目指した。師匠はなおもイスをもう一つ二つお見舞いしている。そろそろオーバーキルだと思う。

 師匠に師事してわかったことだが、強い気持ちをもってすれば意外と幽霊には物理攻撃が効く。

 転げるように建物から脱出した俺が一旦しゃがみ込んで息を整えていると、続けざまに飛び出してきた師匠が凄まじい怒号を上げた。

「走れ!! あれは追ってくるぞ!!」
「嘘でしょ!?」

 慌てていまだ意識の戻らぬ巽を引きずって、師匠のマークXまで駆け戻る。
 師匠が後部座席のドアを開けてくれたので巽を放り込み、その上に覆いかぶさるようにして俺も車内へ転がり込んだ。ドアを閉めた師匠が運転席に座った瞬間、ばんっ、と助手席の窓が叩かれる。

「ひ――っ、師匠!」
「騒ぐな!!」

 女性が身をかがめて車内を覗き込んできた。のっぺりとした白い顔がこっちを向く。咄嗟に巽の頭を胸元に抱え込んで睨み返した。

「た、巽は渡さんぞ!! 頭でっかちさんめ!!」

 女性の動きが鈍った。
 瞬間、エンジンがかかって勢いよく車が発進する。もういっぺん窓ガラスを割れそうなほどの力で殴りつけた女性だったが、そこからはもうついてこなかった。

「危なかったな」

 そう呟いた師匠の視線が、一瞬だけ助手席に移る。それを追いかけてみると、助手席に座っている白いあざらしのぬいぐるみが、焼け焦げたかのような色に変色していた。
 恐らくあざらし様がいなければ、あの女性は車の中にも乗り込んでいたに違いなかった。

「……色々と危なかったですね」

 廃病院のある小高い丘を下りてしばらくすると、失神していた巽の瞼が僅かに動く。

「……、あ、あ……?」
「あ、師匠、巽が生き返りました!」

 死んでねーよ、と力ない文句が聞こえてきた。
 師匠はしばらく車を走らせて、コンビニの駐車場に停車した。ようやく人心地ついたような気持ちで、俺たちは座席のシートに凭れかかる。

「こ、怖かった……巽が死んだかと思った……」
「あれくらいで死ぬかボケ」

 卒倒したくせに、あんなものに抱きつかれたのを「あれくらい」と称することのできる巽のメンタルは本当にすごいと思う。
 師匠は車から降りてコンビニに入ると、俺にコーヒー、巽にお茶を買ってきてくれた。基本的に傍若無人というかオカルト余って人でなしみたいなところのある師匠だが、こういう気遣いができるところはムカつくほど格好いい。
 巽はお茶を飲んでほうっと息をついた。

「なんか俺、あの女を振った男に似てたんだそうです」
「なにか視えたのかい」
「捉まったときに少しだけ。……どうも顔がコンプレックスだったらしくて、あの映像に顔を映されたのが気に入らなくて腹が立っていたところ、元彼に似た俺がのこのこやって来たもんだから激怒したと」

「ははぁ」力の抜ける話だった。相槌もつい適当になる。
 そんな普通の女の子みたいな理由で怒った女性があんなに怖いもんか。

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