師匠は「音を立てるな」と言った通り極力静かに下山を先導した。俺も巽も走って下りたいくらいだったけど、それも許されなかった。
ここまで来ても、あの山は怖くなかった。
怖くないのに、何かがいた。
最後までいつも通りを装って歩いて車の元まで戻り、師匠が運転席に、弟子二人は後部座席に乗り込む。助手席にはあざらしの抱き枕が乗っていた。このあざらしにも色々と理由はあるのだが、それはまたのちのち。
無言の師匠がエンジンを掛けてマークXを走らせる。
蛇行した山道をそれなりのスピードで駆け抜ける。一度すれ違った車は今からあそこに向かうのだろうか。
街の明かりが見えてきたところで、隣の巽が大きく溜め息をついた。
「……なんもないって言ったじゃないか、あんた」
「何もなかったよ。途中まではね」
さっき霊感のレベル分けの話があったが、師匠は文句なしの十レベ、普通の人間の最強クラスだ。
「何もなかったし、実際あの山に子どもの霊はいない。あれは山全体の『意思』だ」
「意思、ですか」
「そう。次々人間が肝試しに訪れるせいで、自分が心霊スポットなんだと有難くも勘違いしてしまった山が、そうあろうとしてくれている姿」
それで「サービス精神旺盛」とか言っていたのか。
「山の意思だから、あそこから離れることはない。子どもの霊を連れて帰るなんてこともないだろう。超本格的なお化け屋敷ってとこだね、屋敷じゃないけど」
師匠から聞いたことがある。
人間、動物、その他植物昆虫類、そしてヒトではないもの。存在ありき。名前が後付け。
人間に人間と名前をつけたのは人間だ。
そして、もともと互いにそこに在るだけだったものに名前をつけて、存在を定義して、善悪の性質を振り分けて勝手に信奉したり畏れたりしたのも人間。人間の信じる力は強すぎて、時たまヒトではないものの層にまで影響を及ぼすことがある。
つまり師匠が言っているのは、肝試しに訪れる人々が「子どもの声が聞こえる」と噂しているものだから、全然そんなわけがないのに山自身「子どもの声がするらしい」と勘違いした結果、本当に子どもの声を聞かせてしまっているということだ。
「……巽が服を掴まれたのもサービスの一環か……」
「あんな嬉しくねぇサービスもねぇよ」
憮然とした表情で巽が腕を組む。
ややあって、師匠は街中を走りながらぽつりと呟いた。
「恐ろしい話だ」
ようやく気力を取り直しつつあった弟子二人、運転席の彼の後ろ頭に視線を集める。
「今回はなんの害もない、言うなればただお人よしな山の、ただの心霊スポットだったからよかった。これがもし人に害をなすような悪意あるものに、たちのわるい勘違いが起きたとすると――」
山だからよかった。
山だから下山すれば問題ないし、付いてくることもない。ただの心霊スポットで、子どもの声が聞こえる程度の現象だったから、怖い思いをするだけで済んだ。
師匠の言葉を深く考えるのが怖くなった俺は、シートに体重を預けて窓の外を眺めた。
すっかり夜の帳に包まれた鹿嶋市の夜景はきれいでもなんでもなかったけど、これから幾度となくこの車から眺めることになるその景色は、あの日々から幾年経った今でも俺の脳裡に焼き付いている。