十一号館七階の怪 01



「忘れ物をした」

 ある日、師匠はパソコンの画面を眺めながらふと零した。
 今日も今日とてお化け屋敷で有名な古い洋館に集まって、それぞれ好き勝手時間を過ごしていた夏の日のことだ。俺は二人掛けのソファに寝転んでゲームを、巽は師匠の隣に座って樋口一葉『たけくらべ』を読んでいる。

 春、弟子入りした当初は呼びつけられない限り、あるいは巽に連行されない限りここには来なかったのだが、付き合いも三か月を迎えると用がなくても寛ぎに来るようになっていた。師匠が留守の時もあったけど、彼は決して「用がないなら来るな」とは言わないので、俺も巽もすっかり入り浸ってしまっている。
 なんせここは居心地がいい。
 ふっかふかのソファ、広い部屋、本棚にずらりと並んだ書籍、居間にはテレビ、巽の淹れる美味しい紅茶に師匠セレクトの美味しいお菓子、時々ごはん。極めつけは、一人暮らし大学生にはとっても助かる冷暖房完備。まだ暖房は活躍しないが冬になったらお世話になることだろう。なんならこたつとかあってもおかしくない。

 近所からお化け屋敷と呼ばれ、たまに悪ガキが不法侵入してくることもあるらしいが、今のところポルターガイストに遭遇したこともない。
 五月の『こっくりさん殺人事件』の末、結局どのサークルにも入らなかった俺には想像がつかないが、部員が部室に入り浸ったり、研究生が研究室に入り浸ったりするのと同じような感覚だろう。

 それはともあれ、師匠はパソコンの画面を眺めながらふと零したのである。
 ちなみに着物姿で洋館に暮らしている彼がパソコンを使っているさまは、たいそうミスマッチだ。

「ちょっと巽、取ってこい」
「……なんでわざわざ。明日じゃだめなんです?」

 さっきから二ページくらいしか進んでいない『たけくらべ』から巽が視線を上げた。
 わざわざと言うように、時刻はすでに十時を過ぎている。とっぷり日が暮れて夜の帳が降りているし、取っておいでというからには頭へ「大学へ」とつくのだろうが、そもそも開いていない可能性があった。

「今晩中に仕上げたいレポートのデータが入ったUSBなんだよね。怖いなら秋津くんと一緒に行っておいで」
「…………」

 そこで自分で取りに行くという言葉が出てこないのが、師匠が師匠たるゆえんなのだろう。そして巽は巽で多分にものいいたげな表情をしているものの、結局本を閉じて立ち上がるのだからお人好しにもほどがある。
 俺は巽のこういうお人好しが嫌いではない。
 ついて来いとは言われなかったがゲームの電源を落として体を起こすと、師匠は「いやぁ優しい弟子たちを持って幸せだなぁ」と全くこれっぽっちも心の籠もっていない台詞を吐いて、巽に財布を握らせた。

「十一号館の六階にある第三講義室だと思うから」
「大学開いてるんすか」
「院生やゼミ生が泊まり込みで実験している棟もあるからね、この時間なら西門はちょっとだけ開いてるよ。二十三時になったら閉まるけど」
「おい」

 巽が思わず敬語を忘れて突っ込んだ。あと五十分。大学までの道のりを考えれば不可能ではないが、大学の南にあるこの家から西門まで回り込んで、さらに広大な敷地のど真ん中にある十一号館まで行って帰るとなると心許ない。

「ついでに帰りにコンビニでアイス買って来い、三人分」
「やったー! ダッツ買っていいですか!」
「ははは、次の心霊スポット巡りが楽しみだなぁ」

 なんとも太っ腹な師匠にテンションが上がったが一瞬で恐怖のどん底まで落っことされた。師匠の「楽しみだなぁ」ほど恐ろしい言葉はない。
 アイスはピノにしておこうと思う。

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