13

「…あー…吃驚した…」


 まだ言っている化野は、余程驚いたようだった。今まで会った人物たちは、ギンコに手を引かれて歩いている姿を目にしていたからこそ、それが生きているとわかったのだ。ぼーっとした様子で、動くことなく虚空を見つめる人間離れした美しい顔の娘。人形だと思ってもおかしくは無い。


「…だからさっきっから謝ってるじゃねーか……一応。いい加減機嫌直せよ、大人げねぇな」


 ふんっと鼻息荒く踏ん反り返る化野にギンコは正直気が滅入った。そして一つ思いつく。


「…帝江、…【ごめんなさい】って言えるか?」


 ぽんっと帝江の頭に手を乗せていつものように新しい言葉を帝江に言い聞かせる。


「ごめんなさい」
「ご、…なさ…い…?」


 帝江が不思議そうにギンコを見上げ、ギンコの教える言葉をとぎれとぎれに繰り返した。


「ごめんなさい、な」
「ごめん、なさ…い…」
「ん、よし。それをあのおじさんに…【ごめんなさい、おじさん】な」
「おい」


 正しく言えれば、ギンコは化野を指差して帝江にそれを化野に言うように促す。


「ごめん、なさい、おじ…さん…?」
「俺はこんな心のこもってない詫びを聞いたのは初めてだ。しかもおじさんは余計だろっ」
「あぁー、うるせぇな。もういいだろ。帝江だってこう言ってるんだし」


 ギンコはもう面倒くさいと投げ遣りに答え、蟲煙草の煙りを吹かした。


「…、しかしギンコ。お前が旅に連れなんて…何か事情が…」


 だが突然、化野は核心を突き、喉が渇いたのか湯呑みに手を伸ばす。


「………、ん?あぁ。まあ、置いてくわけにもいかんだろ」
「どういうこった」


 声のトーンを落としたギンコに、化野の顔も真剣なものになる。


「こいつの腹に、ガキがいるんだよ」
「…っ!?」


 ギンコが発した驚愕の一言に、啜ろうとした茶に思いきり吐息を吹き出し、目を丸くする化野。


「…旅の途中久しぶりに会いにいったら…悪阻でガキができた事に気づいたこいつが一人悩んでたって村の奴らに聞いた。それなのに俺は傍に居なくて、寂しさから俺を思いだせる蟲に近付きすぎて触れちまった…。まさか身籠ってたなんてな。手紙の一つでも寄こしてくれりゃ…いや、言い訳だな。とにかく、そんなわけで俺はこいつを傍に」


 帝江の腹を撫でたギンコが寂しげに微笑むが、しかし初めて聞いた衝撃的な話しに化野は余程驚愕したのか先程の魚のようにただ口をぱくぱくさせるだけだった。


「ギンコおま…っ、た、たた…っ、旅先でこっ…こど…っ!」
「今はこいつを元に戻してやるのが先決だ」
「あ、ああ、いや、悪い。おまえの嫁さんに無闇に触っちまった」


 今度は化野が謝った。
 まだ整理がつかない…。混乱する頭で化野は必死に返事を考えた。


「いいんだ」
「だ、だが…そうだ。子供はどうする?気持ちは察するが、身重で旅は危険だ」
「…やっぱり信じたか…」
「え?」
「んなわけねーだろ。俺の嫁さんじゃねぇよ。ガキもいねぇ」


──ガクッ


 次の瞬間思いっきり脱力する化野に、ギンコは化野が自分の冗談を真に受けたことを知り、横で首を傾げている帝江の頭を撫でながら深いため息をつく。


「…ここに来る前に宿とか茶店とかで…まぁ道中散々夫婦と間違われてな…」
「…肝が冷える様な冗談は頼むからやめてくれ…」


 胸を撫で下ろしている化野だったが、ふと帝江に目を向ける。帝江は化野にもギンコにも目もくれず、家の外を眺めていた。


「あぁ…、そうだ。こいつ名前は何て言ったっけ?」
「帝江」


 帝江の名前を尋ねる化野にギンコが答える。呼ばれたのかと思った帝江が振り返った。


「…それじゃ…、帝江。…お兄さんは化野だ。よろしくな」
「…?」
「単語で言わねェとまだわからねぇんだ」
「そうなのか?じゃあ、化野、だ。化野言ってみ?化野」


 ずず、と興味津々に近付いてきた化野。


「……………」
「言わねェな」
「気分次第だからな。帝江、化野。化野」


 ギンコは化野を指差して繰り返す。
 帝江はギンコを見上げ、更に化野へと視線を遣る。


「あ…だ…」
「化野」
「あだ…しの…」


 ギンコはくしゃりと帝江の頭を撫でる。


「こんな感じで覚えさせてるわけよ」
「ほう…」
「…に、しても…久しぶりに屋根があるところで寝られるな…」


 昼下がりの心地よい陽気にギンコが大きく伸びをして縁側の柱に寄りかかり目を閉じる。


「…おいおい、まさか女の子連れて野宿してきたんじゃないだろな」


 ギンコのその言葉にギョッと目を見開いた。


「あ…、散々したけど?帝江も野宿嫌いじゃないみたいだからな」
「のじゅく…」


 そう呟いた帝江に、柱から背を離して態々頭を撫でに行くギンコ。


「とりあえず言葉を発したら褒める方針か」
「おう、ほんと喋らねェし。昨日初めて声聞いた始末だ」


 今度は化野が帝江の背に周り、裏声で「帝江は女の子なんだからもっとおしとやかなことを教えて下さいーって言え、なー、帝江?」と後ろから手を掴み、動かしながら言った。


「身なり整えりゃもっと可愛くなるぞ?よし、風呂沸かしてやるから、風呂入れ」


 帝江の顔を覗き込みながら意気込む化野の一言に、今度はギンコが珍しくギョッとして目を見張る。


「っ…いや、駄目だっ」
「なんでだよ。野宿してたんなら尚更入りたいもんだ…ろ……?今まではどうしてたんだよ」


 化野ははたと思い直す。こんな状態の帝江が、はたして一人で風呂に入れるだろうか。
 聞かれたギンコは案の定と言うか、少しだけだが頬を赤くしながら化野から視線を反らした。


「おい、まさか…」
「仕方無ェだろ…!!宿に泊まった時は女中に頼んでなんとか入れてもらったけどよ…!」


 帝江の見た目は立派に女。風呂の入り方を知らないなんておかしな話。女中には怪訝な顔をされ、教えようにも帝江が自ら動くことなんてほとんどないため教えられない。
 必然的に野宿の時はギンコが湯浴みの世話をすることになる。


「……何、顔赤くしてんだよ」


 口元を押さえ一人顔を赤に染めて照れているギンコに化野の鋭い一言が飛んでくる。しかし、そんな化野の顔も赤い。


「してねぇよ」


 ごまかそうとしてかギンコは次の蟲煙草を咥えて火をつけた。


「破廉恥。助平」
「!っ…やかましいっ、ちゃんと目隠しはした!見てはいねェ!」


 赤い顔で声を張り上げれば、口から落ちた蟲煙草を拾い上げ、その先で燻る小さな火をギンコは焦り気味に指で揉み消し、その様子を見た化野が立ち上がる。


「?、どこいくんだよ、化野」
「言ったろ。風呂沸かしてくる」
「……は?」


 襖を開け、振り向き様に言った化野に、ギンコが碧の瞳を丸くした。










 ──そして


「…騙しやがって…」


 そう言うギンコの表情は苦虫を噛み潰したような顔だ。


「風呂沸かしてくるって言っただけだろ?」


 変わって化野の表情はしてやったりと確信犯の笑みを浮かべている。


「化野先生、ギンコさん」
「おお、出たか。悪いな【いお】」


 部屋に戻ってきた帝江。その躰は少しばかり火照っていた。その手を引いていたのは、少しばかり懐かしい顔である【いお】だった。


「いえ」


 いおは件の沼の蟲と共に旅をして、旅の途中にギンコに出会い、沼の死んだこの海の側で暮らしている娘だ。
 流石にギンコに任せるわけにはいかないと思った化野は、以前蟲と関わりがあり、説明が楽だろういおを呼んで帝江を風呂に入れるよう頼んだのだ。
 ギンコに、いおはぺこりと丁寧に頭を下げた。先程は流れるまま帝江を押し付けられたために碌に挨拶をする暇が無かったのだ。


「…あ、あぁ久しぶりだな。あれからどうだ?」


 湯浴みの後の帝江に目を奪われていたギンコの反応が少しばかり遅れる。


「あの時はありがとう、ギンコさん。おかげでこの通り…」


 黒に戻った自分の髪を撫でたいおがにこりと笑う。
 色々な事から吹っ切れた様な柔らかなその笑顔。


「…そいつはよかった」


 そんなギンコにまた笑顔を向けたいお。


「帝江、いおに【ありがとう】だろ?いお、ありがとう、だ」


 ギンコはいおを差して言葉を繰り返す。ギンコに促されて、帝江はいおに振り返る。


「……いお…」
「はい」


 帝江に見降ろされ、僅かに緊張した様子で返すいお。
 湯浴みの時に見たその裸体もそうだが、歪みの無い曲線を描く肢体と、透き通るような肌、そして天女や女神を彷彿とさせる、この世の物とは思えない美しい顔立ち。
 あまりにも洗練された帝江の美しさに、いおは僅かな恐怖を感じていた。
 見惚れるだけではない、言い知れぬ恐怖を。


「…いお……」
「は、い…」
「いお……」
「え…?」


 三回目、いおの名を呼んだ帝江はゆっくりと手を伸ばし、いおを指差した。
 意味はわからずとも、化野に謝ったのと同じように、今回もお礼を言うものだと思っていた化野とギンコはもちろん、何故か名前を連呼されているいおも首を傾げた。
 そんな三人の困惑を他所に、帝江は上げた手を今度は化野に向けた。


「ごめん、なさい、あだ…しの…」
「?」


 続いて今度はギンコに。


「のじゅく…」
「あ?」


 もう何が何だか。しかし帝江がこんなに話しているのは初めてだ。


「…もしかして…」


 顎に手をやった化野が思案顔で呟いた。
 その間に帝江はギンコに向けていた指先を、自分に向けた。


「帝江…」
「「名前か!」」


 ギンコと化野の声が被った。
 今まではギンコの言葉を繰り返し、そうすれば褒めてもらえるとわかっていた帝江。だが、相手の名前を呼んでいるという自覚は無かった。
 帝江が名前を呼ばれて反応するように、いおが【いお】という言葉に対して反応したことで、それが名前なのかと繰り返し呼んで確認していたのだ。
 そして、それらしき言葉を化野とギンコに向けて行った。最後に、名前という言葉を知らない帝江がこの意図を知らせるために自分のことも指差したのだ。


「そうだ!名前はいろいろ違ェけど」
「ブフッ!ギンコ野宿かよ!」
「うるせぇ」
「ギンコさん。化野先生…よく、わからないんだけど…」


 いおに言われて放置していた帝江に意識を戻す。せっかく帝江が自分達の名前を理解できそうなところで、自分達だけ舞い上がって機会を逃してはたまらない。
 まずはギンコが進み出て、帝江がしたように自分を指差して「ギンコ」と言った。続いて化野も、遠慮がちにいおもだ。


「……ぎんこ…」
「ああ」
「あだ…しの…」
「おう」
「…いお…」
「はい」


 帝江はそれぞれに返事をもらえ、それが名前だと確信できたようだった。その表情は少し柔らかい。


「えらいぞ帝江!」


 化野がぐりぐりとその頭を撫でる。
 帝江はするりと化野の手から離れ、いおの前に向かった。


「いお…あり……?」
「ありがとう、な。ありがとう」


 一度にたくさんの言葉を聞いて、忘れてしまった帝江の横からギンコが言う。ギンコを見上げた帝江は口を動かしている。言葉を覚えようとしているのだろう。
 もう一度いおに視線を戻す。


「いお…ありがとう…」
「どういたしまして、良かったね、帝江さん、ギンコさん、化野先生!」


 事情はよくわからないいおだが、皆の嬉しそうな雰囲気に、そう言った。


「ぎんこ…ぎんこ……あ、あだしの……いお…いお…」


 帝江は忘れないようにと言葉を繰り返している。そんな帝江に化野が付き添っている。


「助かったよ。すまんね」
「いえ。あの、帝江さんも蟲…に?」
「…あぁ、今治療中でな…でも、もう大丈夫だろう」


 と、いおとギンコが世間話を始めたので、化野は帝江のまだ濡れている髪を拭こうと手拭いを手に取った。
 しばらくして、いおは他にやることがあるので一人帰った。
 話し相手がいなくなったところでギンコが化野と帝江の元へ戻ると、化野が帝江の髪の水分を丁寧に拭いてやっている所で、帝江も大人しくそれを任せていた。二人の距離が近い。
 なんとなくモヤッとしたギンコだったが、それは表には出さず、二人に近付く。


「おう、ギンコ。ほれ、綺麗になったぞ」


 ぽん、と帝江の頭に手を乗せた化野。


「ああ…」


 帝江の前にしゃがみ込み、髪を掬う。


「…髪、結ぶか」


 そう言って帝江の腕を掴み、自分の方へと引き寄せたギンコ。引かれるまま胸に倒れてきた帝江をくるりと反転させて、長い帝江の髪を束ねて結び始める。


「、」


 しかし、帝江を奪われたまま正面に座っていた化野は違和感に気づく。


「おいギンコ…」
「なんだよ」
「そんなに引っ張ったら痛いんじゃないか?」
「?」


 帝江の髪がふわふわととギンコの手から零れてしまうものだから、ギンコは半ば強引に髪を引っ張りながら結ぼうとしていた。
 靴擦れの時もそうだが、帝江は痛みを訴えることをしない。
 今も黙ってはいるが、痛いのではないかと心配した化野。


「ちょっと待ってろ、ギンコ」


 化野が思い出して立ち上がり、箪笥の引き出しを開けると何かを探し始めた。やがて、見つけて取り出したのは透かし彫りにした蝶が掘ってある櫛。


「ほれ、使ってみろ」


 その櫛をギンコに放った。


「……いわくつきのもんじゃねぇだろうな」
「んなもん出すかよ!わかってて聞くな」
「…ん、じゃあ遠慮なく…」


 櫛を受け取ったギンコが見事な造りのそれを繁々と見つめていたが、早速帝江の髪に櫛を滑らせてみる。
 帝江の長い髪が目の細かい櫛をするりと受け入れた。
 帝江が長い髪をどんなに痛く結ばれても抵抗しないのは、蟲の所為だけではない。
 靴擦れの痛みから逃れようとしなかったのは、せっかく人がくれたものだから、下駄を脱ぎたくなかっただけ。歩き続けたのは、握ってくれているギンコの手を払いたくなかっただけ。
 痛みに耐えても髪を弄るギンコから逃げなかったのもまた…
 ギンコはあまりわかっていないが、帝江は確かにギンコに懐いていたのだ。
 化野も、ギンコがしてくれることに対して、思う処があるから帝江は我慢しているのではと思ったのだ。だから、その時間をもっと好きになれるように。


「な?やりやすくなったろ」
「…あぁ、そういや今まで手櫛だったからな…」


 心地よいのか目を細める帝江にどうやらご満悦の化野。今の帝江の表情を見られるのは、正面に座る者の特権だ。


「その櫛、帝江にやるよ」
「…あ…すまん、な」


 月の住人たるかぐやの如く、美しい娘に。
 蝶の舞う、櫛を捧げよう。


「ん、よし。できた」
「ん?どれどれ。帝江、こっち向いてお兄さんに見せてみ?」


 いつもより早く終わってしまったが、痛くなかった事が嬉しかったのか、なんとなく表情が柔らかい。そんな帝江をギンコと化野が見つめる。


「「ん、可愛い可愛い」」
「…?」


 帝江がその言葉の意味を知るのは、もう少し先───。