夜が明けきらない、空がまだ霞がかっているころ、眠りから覚めたギンコがゆっくりと頭を擡げて辺りを見回す。
開眼一番に驚いたのは、確かにそこに居たはずの娘が消えてしまっていたからだ。ギンコは弾かれたように勢いよく飛び起きた。
しかし、よくよく辺りを見渡せば、部屋の外へ続く縁側に、靡く糸。
てっきり動かないと思っていた娘が移動していたことに驚いた。
「っ!!」
ギョッとしたギンコは慌てて起き上がり、背後から娘の腕を掴み引き寄せた。バランスを崩した娘はそのままギンコの胸に倒れる。
「驚かすない」
思わず、短いながらも安堵のため息をついた。
娘が出て行ってしまうのではないかと思ったのだ。こんな状態の娘を行かせるのは気が引ける。
外の景色を見た。相変わらず蟲が多い。
(だが…入って来はしない…か)
ギンコは娘の肩に手を置いて、少し自分から離し、向かい合うようにしたあと、話しかけてみる。
しかし、娘はギンコに気が付いた様子は無く、目の前で手を振ってみても、ぼうっと虚ろな目をしたまま。
会話もできないようではどうしようもない。とりあえずは、【蟲下し】を溶かす水を汲みに行く為に水筒を持って外に向かう際、ギンコは娘の前に回り込んだ。
「俺はちょっと外を見てくるが、大人しくここにいてくれよ?」
話し掛けたが、やはり反応はない。
「……頼むぜ。まだ調べてェ」
寺から出たが、何度か振り返る。しかし、何度振り返っても、娘はそこから動く気配はなかった。
ギンコはとりあえず水のある場所を捜して歩いた。暫くすると、泉を見つけ、底の白い砂を舞い上げながら、泉が湧き出る場所の水を汲み、水筒を腰に携えうずくまると、冷たい水を手の平に掬い上げ顔に運んだ。
「冷て…」
泉の水は、キンと冷たい。その冷たさをやり過ごすと、ギンコは布で顔を拭きながら立ち上がる。
来た道を戻ろうと振り返れば、眼下に見える地平線から太陽が顔を出し始め、眩しい曙光にギンコは目を細めた。
「…日の出か…」
光を帯びるあの娘を思い返す。
昨日、娘を寝かせようと一度抱き上げた時、ふと気がついた。力が流れ込んでこないことに。木に繋がれている時は、あんなにも力が溢れていたのに。
と、その時…
──ぶわぁっ…
「!!」
一気に山に駆け巡った精気。ギンコは目を見開いた。
「……まさかっ…」
寺の方を振り返る。
その視界に映る蟲たちが、一斉に動き始めた。ゆっくりとだが、確実に。
蟲が向かっているのは、あの娘のところだ。その蟲たちが動き始めたということは、つまり……
気づいたギンコは、寺の方へと走り出した。
途中蟲の行く方向を見ながら走る。寺より少し、西側。
草木を掻き分け進むと、開けた場所に出た。
(落雷…か)
辺りの木々は焼け、黒く染まっていた。
「!」
娘が、居た。しかしまた、その光景に驚かされた。
黒い景色の中に佇む、一本の緑豊かな大木。そして、そこに縛り付けられた娘。寺で見た光景に酷似していた。
ギンコは眉根を寄せた。明らかに、この木は元々ここにあったものじゃない。今、娘を捕らえるために生まれたものだろう。
周りには、蟲が付かず離れず傍にいた。よく見れば、この山の獣か、狐や鹿が草木の向こうから娘の様子を窺っているのがわかった。
──ポタ…ッ
「!?」
娘の足元に、赤い液体が落ちるのが見えた。
ギンコは咄嗟に走り、娘の前に飛び出した。
「!!…それはまさか…ヌシか…!?」
木に縛られた娘の腕は赤く汚れていた。腕の中に、酷い火傷を負った梟が居たからだ。背中に、焼けてしまってはいるが、苔や小さな植物のようなものが見られる梟だった。ヌシの特徴と一致していた。しかし、その梟は血を吐き、弱々しく呼吸を繰り返しているようだった。
「そうか…そういうことか…!」
数日前、この山を嵐が襲った。落雷が続き、山火事が起こった。
そして山を護るヌシにも運悪く雷が落ちたのだろう。
山の危機に、山が泣き、獣が鳴き、蟲が哭いた。
(山の有様に、娘が山に力をやった?…それがこの山にいた蟲と同調させる結果になった…)
それにより、娘は蟲の側に近づきすぎてしまった。
「…ヌシ殿よ!山を回復させるのに力が必要なのはわかる!しかし山を覆うような力を奪われたら、その娘に命は無い!」
───そもそも、これほどの力をこの娘はどうやって生み出している?
───この大木も、蟲が原因でないのなら、この娘が原因なのか?
───なんでこの娘が選ばれた?
「蟲との境界線もあやふやになっている!これ以上はやめてくれ!」
疑問は多々ある。何もわからない。しかし、このままでは娘が危ない。
ヌシに呼び掛けると、梟は目を開けてギンコを見下ろした。
「ググ…」
梟が荒い息を零しながら目を閉じた。すると娘が動き出し、梟を片手に抱いたまま拘束から逃れようとした。
──しゅる…
しかし、枝葉が更に伸び、梟と娘を包もうとする。
枝の一部が梟に触れたのだろう。梟が苦し気な悲鳴を上げた。
その瞬間、この木は娘の意思とも梟の意思とも別の何かだとギンコは理解する。
ギンコも枝葉を引っ張り、その隙に娘が木から離れる。娘が離れれば、例の如く木はあっという間に枯れた。
ボロボロと木屑がギンコの腕に落ちる。
娘の躰が木から離れると同時に、溢れていた精気も落ち着く。
ギンコが木屑を払いながら振り返ると、娘は自力でそこに立っていた。娘が顔をギンコに向けた。その目が初めてギンコを捉えた。金色に輝く瞳が。