25

「…あ、ちくしょ…バラした」


 魚に引かれてしなっていた竿に気付いて慌てて引いたが、引いた瞬間軽くなった手応えにギンコが脱力する。


「餌だけ取っていくない、食い逃げじゃなくて食われろ」


 釣れない魚につい愚痴を零してしまった。
 集中力が釣竿だけに向けていられないのは、調べ物を同時進行しているせいでもあるのだが。
 ギンコは蟲の調書…宿主を拒食に追いやる蟲について綴られているものを探している。が、やはり見つからず、諦めて餌の取られた釣り針にまた餌を付けると再度それを水の中に放る。
 先程は本当に焦った。今になって拒食の影響が出たのかとも思ったが、恐らく日射病だったのだろう。
 現在帝江は滝壺付近で一人水遊びに熱中している。すっかり元気だ。
 魚達はその付近から逃げ出し釣糸を垂らしている川の方へと来てはいるからあとは集中さえすれば釣れるだろう。


「ぎんこ…」


 呼ばれて帝江を見れば、川から上がってきた帝江が濡れた袖で目元を拭っていた。しかしその手を下ろせば、透ける躰がギンコの目に…


「ッッ…」


 以前よりも、それを直視できなくなった。


「ぎんこ、」


 しかし、そんなものお構いなしの帝江は無遠慮に近づいてくる。


「たくさん」
「あ?何か見つけたのか?」


 帝江が荷物入れ代わりにした裾の中身をギンコに見せた。


「石英か。すごいな、どこにあった?」
「たき…した…」


 帝江が拾ってきたのは中々良い色をした紫水晶、その薄紫の石英のいくつかのうち一つを摘んで、思わぬ収穫物にギンコは目を見張る。


「水に磨かれて丸くなってら。町で売りゃ飾り石でいい値になる。もらっていいのか?」


 鉱石を日に透かして藤色の光りに目を細めるギンコに帝江が頷いた。


「しかし随分とったな。石とは違って透き通ってるから水ん中じゃ見えにくいだろうに」
「?みえる」
「光るのか?」
「?きれい…よく、みえる?」


 帝江は意外と目がいいのかもしれない。そう思ったギンコだった。


「まってて…」


 帝江が裾にあった石を全部ギンコに渡してからまた滝壺の方へ向かおうとしたので、気付いて細い肩に手を置いて引き留めた。


「や、もういいから、な?」


 確かに水は冷たくて気持ちいいのか、すっかり元気な帝江なのだが、あんまり長い間入るのも躰に悪いだろう。


「ぎんこ?」


 帝江がよろけてギンコの胸に寄り掛かる。


「っ…それより、飯、な。魚釣るから大人しくしててくれ」


 そのまま座らせて帝江が動き回らないようにした。帝江の川で冷えた肌が触れて、冷たくて心地いい。


「……たべない」
「あー…、だよな」


 相変わらず断固として食べ物を口にしない帝江に頭を抱えたが、仕方ない。ギンコは竿に集中し始める。


「…ぎんこ」


 しばらくして、腕の中で動けない帝江がつまらなそうに呟いた。


「ぎんこ」


 そして水面に浮いてる木製の浮子がぴくぴく動いて水面に小さな波紋を作っているのに気付いた帝江がギンコを呼ぶ。


「…………」
「…ぎんこ?」


 一向に引かれる気配のない釣竿に帝江がギンコを見上げる。


「…………」


 見上げた途端、間近にギンコの横顔があって驚いた。
 頭を垂れているギンコから安らかな寝息をたてているのが聞こえて、被さった前髪でその目は見えないが帝江はギンコが寝てしまったことに気付く。


「ぎん…」


 呼びかけて帝江は止めた。
 そっと身を乗り出して、まだ魚がかかっている糸を握ると岸辺へと手繰り寄せる。
 小さな魚が白く光り元気よく跳ねていたが、それは一寸くらいの氷魚。
 本当は針に触るなとギンコから言われているが、帝江はそっと魚を手に乗せると引っ切りなしにぱくぱくしている口にかかる針を外した。


「……」


 苦しそうに息をしている魚がいる手の平を川に入れると、水を得た魚は身を翻し煌めきながら深みへと消える。
 帝江は眠るギンコをしばらく見つめていたが、やがてその側からそっと離れると森に向かって歩き出した。
 薄暗い森の中で蝉の鳴き声を聞きながら野草を摘む帝江。
 露草の茎に指を伸ばし、ぷつ…と手に取る。それをいくつかと、雪下を取った。
 これらは食べられるし、露草は鴨跖草、雪下は虎耳草という薬にもなる。
 扱いには注意をしなければならない植物ももちろんあるが、植物は宝の山だったりするのだ。
 帝江は一旦ギンコの元に戻って両手に抱えた野草を置くと、またあまり離れないようにしながら森に戻る。


──ガサッ…


「?」


 茂みが動いた。獣か何かかと思い覗いてみると、そこには兎がいた。ほとんど黒に見える紺色の毛並と、円らな赤い瞳の兎。
 鼻をひくひくと動かしている兎を帝江が見つめていると、兎は唐突に帝江の胸に飛び込んできた。
 咄嗟に受け止めようと手を伸ばした帝江だったが、兎は次の瞬間には帝江の胸を蹴って地面に着地した。
 意外と衝撃があったのか、帝江は尻餅をついて兎を見た。そして、その兎が口に咥えているものを見て胸に手をやる。
 ───ない。化野に貰った首飾りが。
 それを認識したのを見計らったかのように、兎が走り出し、帝江も立ち上がってそれを追う。


──ガササッ…ガサッ


 ギンコから離れているということなど、今はお構いなし。ただひたすらに兎を追った。


「お姉さん」


 更に茂みを抜けた先で、高い声。


「?」


 帝江が追いかけていた兎を腕に抱えている子供が一人。兎の毛の色と、子供の髪の色はよく似ていた。


──ひゅぅる…


 兎の形が煙のように歪み、そして、瞬きを終える頃には、目の前の子どもが二人になっていた。鏡のように同じ。違うのは、一人は青い目をしていて、一人は赤い目をしているということだけ。赤い目の子供は片手に帝江の首飾りを持っていた。


「久し振りだね、お姉さん。もう僕らがわかるかな?」
「ここはもう【人の言葉】でなくていいんじゃないかな?」
「そうだね」


 顔を見合わせて笑った二人を帝江はきょとんと見ていた。
 子供は大きく叫ぶように口を開けた。


──キィイイ…ン


「…!」


 帝江は目を見開いた。
 蝉たちの鳴き声が一斉に止んだ。
 風すら吹かず、辺りはシン…と静まり返り、まるでここだけ俗世と切り離されたかのようだった。


──……お姉さんなら、僕達の言葉がわかるはず──


 発せられた言葉は、もう人には聞こえぬ言葉だった。しかし、帝江はその言葉を聞いて瞳を揺らがす。


──これは空に語りかける言葉──
──これは大地に語りかける言葉──
──海に、森に、獣たちに語りかける言葉……だから、人間にどれだけ語りかけても聞こえない。人間は空の声も、大地の声も聞きとれないから──
──人間は数多の生きものたちの中で、特に耳の悪い生き物だからね──
──僕らの声は聞こえない──


 子供はクスクスと笑いながら交互に話していく。


──お姉さん。混乱してる?なんで僕達がお姉さんと同じ言葉が喋れるのか、わかる?──
「わ……」


 人間の言葉が出た。暫くそうしていたから。


「わか…」


 帝江の舌から滑り出る、人間の言葉に子供の目が細められ


「…ら…ない…」


 続いた言葉に、赤い目と青い目をそれぞれ見開いた。


──え…?──


 首を傾げる帝江に、子供は訝しげな顔をした。


──お姉さんまさか…──
──僕達の言葉…話せなくなっちゃったの?──


 きょとんと目を丸めている帝江の態度で、本当なのだと知り言葉を無くす。


──やっぱり……人なんかと関わるから…──
──人なんかと一緒にいたから…──


──ザザッ


「帝江!!」


 静寂の場に響いた人の声に、夏の喧騒が一気に戻った。


「ぎん…こ…」
「帝江!なんでこんなとこまで…っ」


 帝江の肩を掴み、そこまで言って、帝江の向こうに立っている子供に気づき目を見開いた。


──ミーーンミンミンミンミンミン…


「おまえら…たしか呉服屋の…なんでこんなとこにいる?」


 ギンコが訝しむのもおかしくはない。その地に根を張る呉服屋の跡取りが、こんな子供が、ここに居るはずがない。
 しかし、確かにあの呉服屋に居た双子だ。


「……お姉さんと話がしたかったんだよ」
「こいつと?親はどうした?」


──ジーージージージーー…ジジジ


「「あー、五月蠅いな」」
「?」
「すぅっ…」


──ぐわっ


 双子が大きな口を開けて叫んだように見えた。ギンコにはそう見えた。しかし、帝江はびくりと跳ねる。


──黙ってろって言ってるだろ!!──


 帝江にはそう聞こえていたからだ。
 辺りは再び静寂に包まれた。そして怯えているように見える帝江。ギンコもこれはおかしいと帝江の肩を抱き、双子を見据える。が、双子は俯いていてその表情は窺い知れない。


「お兄さんの所為だよ」
「あ?」
「お兄さんの所為だ」
「何の話だってんだ」
「お兄さんが、お姉さんに人間らしさを与えたりなんてするから!」


 双子の声が段々大きく荒れて行った。


「お姉さんが本当の人間みたいになっちゃったんじゃないか!」
「人間、みたい…?」
「そうだよ!帝江とはただ【力の塊】であって、意思なんて持つはずがないし、ましてや人間の姿に変化するなんて、ありえないことだったはずなのに!」
「お兄さんの所為でしょ?変化したのも、人間みたいに喋るようにしたのも!おかげでこんなことになっちゃった!」
「待て!俺が初めて逢った時、帝江は人間だった!」
「嘘だ!そんなわけないじゃん!僕たちが最後に見た時は力の塊でしかなかった帝江が、ここに来ていきなり人の形になったんだから!」
「そんなもんは知らねぇ!おまえらこそ何言ってやがる!」


 呉服屋の子供が、いったい何の話をしているのか。


「「ああ…お兄さんに言っても無駄だったね…」」


 怒号のような言い争いを繰り広げていたが、双子は今や虚ろに小さく呟いた。


「もういいや」
「お姉さんを渡して、どこへでも行くといいよ」
「は?」


 にこ、と笑った双子に、ギンコは唖然とする。
 ころころと豹変する様に、今まで感じなかった違和感を感じた。気味の悪い違和感を。


「ぎんこ…」


 ギンコの緊張を知り、腕の中で小さくギンコを呼ぶ。


「帝江を渡せっていうのは…どういうこったい」
「言ったでしょ?帝江とは力の塊のこと」
「見たでしょ?簡単に山を覆える程の力を」
「「人には過ぎたる力だよ」」


 帝江はギンコを見上げた。が、大きな手が頭に乗せられた。


「…生憎だが、俺はこいつの力とやらをどうこうするつもりはねぇぞ」
「帝江ではなく、不可解に生まれた自我お姉さんが必要?」
「そうだ」
「……わかったよ」
「いいの?兄弟」
「いいのさ、兄弟」


 その時ぶわりと風が吹き、咄嗟に目を瞑った。もう一度目を開けた時には双子の姿はもうどこにもなかった。


「消えた…」
「…あだしの…」


 帝江が双子が居た場所に向かって手を伸ばした。


「どうした」


 ギンコの腕から抜け出した帝江が拾い上げたのは、化野から貰った首飾り。


「それでこんな奥深くまで来ちまったのか…」


 なんとなく経緯を悟る。


「「人には過ぎたる力だよ」」


 力の塊。人でも獣でも蟲でもない。ギンコはこの時、夢に見た獣の姿を思い出した。夢の中で帝江と呼ばれていたのはあの獣だった。翼以外目も、口も、鼻も持たない獣。まるで…翼を失う代わりに、今の姿を手に入れたような……


「帝江」


 首飾りを拾ったままそこを動かない帝江を呼ぶ。


「…………」
「帝江?」


 じっとギンコを見る帝江。


「……おまえさんが特殊な力を持ってるってのは、初めて逢った時から知ってる。今更どうも変わらねぇから、安心しろい」


 あの双子の事は恐ろしいと思ったが、帝江の事は別段そうは思わない。何故か。
 ちょいちょいと手招きすれば、小走りにやってくる帝江。首飾りをその手から拾い、付け直してやる。


「ぎんこ…」
「ん?」


 手を繋いで川辺へ戻る最中、帝江がギンコを呼んだ。
 ギンコに伝えたい想いがあった。けれど、その言葉にあてはまる、人間の言葉を、帝江はまだ知らない。




















「帝江」


 呼ばれて帝江が顔を上げる。いつのまにか元の場所に戻ってきていた。


「野草はいいからここにいろ。とにかく魚…な」


 旅となればこれから嫌でも野草を食べる機会も増えるので、魚を食べたいギンコを帝江が珍しくからかった。からかうつもりはなかっただろうが。


「ぎんこ…つれて、ない」
「うるせぇや」


 ただただ感想を述べられるのもつらい。
 蟲煙草に火をつけて、乾いた上着を着るとギンコは少し拗ねたように釣り針に餌をつけて再び川にそれを投じる。


「…こうなったら意地でも大物釣り上げてやんからな」


 水面を睨むギンコの側に戻った帝江がその横顔を見上げた。


「ぎんこ…」
「あ?」


 当たりを待つギンコが魚を招き寄せようと真剣に竿をしゃくっているので集中し過ぎてしまう前に帝江が上着を引いて呼びかける。


「みず、はいる…」
「ははっ、水浴び気に入ったか。…ん、ちょっとならな」


 帝江が頷いてまた滝壺に向かっていく後ろ姿を見送るギンコ。また水面に視線を戻し…




















「……連れて行かせやしねぇさ…」


 ギリ、と竿を握り締めた。