26

 一方、ギンコのそんな言葉も知らず、帝江は冷たい水に躰を浸す。
 深みまでゆっくりと歩いて首まで入ったところで、更に深く、透き通る水の中に頭まで潜ると帝江は薄く目を開けた。
 滝壺の底へと向かい、小石の中に紛れていた石英を拾った。
 両手でそっと石を包んで帝江は水面を見上げる。太陽の光りがゆらゆら青く揺らめいた。滝壺からは水泡が白く光りながら舞い上がっていく。
 深みは透き通る、まさに水色。
 美しい景色に帝江は見惚れる。
 ただ、見上げる目の端に揺らめく自分の灰色の髪だけが帝江を不愉快な気分にさせた。
 帝江は自分の灰色が嫌いだった。
 帝江は、ギンコの白い髪を、星に例えるくらい好きだった。化野の髪も、夜空に例えるくらい好きだった。その反面、自分の中途半端な灰色が嫌いだった。
 時にあの綺麗な星や夜空を覆い隠す暗い雲の色だから。ギンコも化野も、あの曇天にうんざりしていたから。
 美しい景色を壊す、灰色なんて見たくない。水の底で目を閉じ、水に身を委ね、帝江の躰から力が抜けた。
 水の中でただ揺蕩う。
 拾った石英が帝江の手から再び水底へ落ちていく。


──……お姉さんなら、僕達の言葉がわかるはず──


 双子の声が響く。


──人間は数多の生きものたちの中で、特に耳の悪い生き物だからね──
──僕らの声は聞こえない──



 つまりは、声の聞こえる自分たちは…


──僕達と、人間の区別…つかないの?──
「「人には過ぎたる力だよ」」



 ギンコと、同じではない。
 ただそれだけの事実───


──クスクス──


 帝江は頭の中で、あの子供の笑い声を聞いた気がして目を開けた。
 水をかいて水面から顔を出す。


「…、……?」


 空は青。相変わらずの蝉の声。
 涼しげな音を立てて落ちる滝の水。


「だれ…」


 ぽつりと帝江がどこへともなく尋ねたが、もちろん返ってくる答えはなくて。


「…だれ──」


 答えてほしくて帝江がまた消え入りそうな声で呟いた。
 しばらくしてぺたぺたと、川辺を歩いてくる音にギンコが滝の方に向き直る。


「帝江、お前なぁ…戻るの遅すぎ」


 呆れたようなギンコの声に帝江が顔を上げた。
 煙りの匂いがするかと思ったら小さな焚火がギンコの後ろでぱちぱちと音を立てていて帝江が首を傾げる。


「つれた…?」


 呆れ果てていたギンコだが、そう聞かれて帝江から不貞腐れたように顔を反らした。


「…、先に火の準備をしときゃ釣れたらすぐに焼けるだろ…」


 頬を小さく掻いたギンコが釣れない言い訳か負け惜しみかボソッと答える。
 つまりはまだ釣れていない。


「いる?」


 と、帝江がギンコの側に来てまた手をさし出した。


「何だ、また石見つけてきたのか?…釣るよりこれ売って町で魚買った方が早いって、か…」


 魚籠には魚が一匹もいなくて、少々後ろ向きな言い方になってしまい、ギンコがさし出された帝江の手を見て咥えていた蟲煙草をぽとりと地面に落とす。


「ひ…あぶない…」
「帝江、お前…それ」


 真璢の両手には手づかみされてぱたぱたと小さく暴れる岩魚が二匹。


「つれた…」
「そりゃ釣った、じゃなくてな、取ったっていうんだ……」


 帝江が魚籠に魚を入れるとその中で岩魚がくるくると泳ぎ出した。


「…きれい」


(そのきれいな奴らをこれから食すのは俺なんだが)


 少し複雑な気持ちでギンコは思ったよりも大きめな魚に焚火の火を大きくするため火の中に朽木をくべる。


「帝江」
「?、…!」


 呼ばれて魚籠からギンコに振り向くと、突然目の前が白でいっぱいになった。
 そして、いきなり、頭を布で包まれて激しく髪を拭かれる。


「食ったら出かけるからもう水浴びは終わりな。乾かしとけ」


 頭を拭けば足元がよたよたとしていて、最後に毛先を布で包んで引っ張るように拭けば頭が後ろに持っていかれて、またよたよたと躰も持っていかれるが、それでもなすがままの帝江にギンコが思わず吹き出した。


「ん、終わり」


 最後に絡まった髪を化野から貰った櫛で梳いて仕上げ。
 艶やかな髪を一房拾い上げ、ギンコが満足気に頷く。
 最近、帝江の髪を結ぶのも慣れたのか、手際よく結び終えたギンコが帝江の頭に手を置いた。
 試しに自分の髪をその櫛で解かしたギンコが縺れて引っ掛かる髪に痛みで顔をしかめた。


「?…いつも、ちがう」


 多分、普段手櫛だけの手入れで終わらせているから言われたのだろう。少し考えたギンコが帝江に櫛を手渡した。


「じゃあ帝江が梳いてくれよ、俺の髪」
「…?」


 渡した櫛を指差し、今度は自分の頭を指差して伝える。
 櫛を見ていた帝江が立ち上がると、ギンコの背中に周り、見慣れた白い髪に櫛を差し入れた。


「いててて…っ、おぃ…!んな引っ張んなっ」


 いきなりぐいっと力任せに櫛ごと髪を引っ張られてギンコが珍しく大声を上げる。
 岩魚に串を刺そうとして自分が櫛で悲鳴を上げてしまった。
 自分が帝江の髪を結ぶようになってから始めはこんな痛みをいつも与えてしまっていたことが分かって今更ながら反省する。


「…ごめん…なさい…やめる?」


 櫛の動きが止まり、後ろから尋ねられてとりあえず一旦強張る躰の力を抜く。


「…ん…いや…、まかせるよ」


 帝江が今度はゆっくりとギンコの髪を梳かし始めた。
 ギンコが痛みを我慢して岩魚を調理している間、と言っても焼くだけだが、初めての逆の立場、髪を梳かすことに熱中している帝江のおかげか最初は毛先で縺れていたギンコの髪もやがて素直に櫛を受け入れる様になる。


「きれい」


 日の光りを受けて白く透けるような光沢を見た帝江が後ろで呟く。


「ん、あんがとな」


 自分の後ろ髪をスルリと撫でて、普段と違う触り心地に髪を梳いてくれた帝江に礼を言う。


「……おなじ」


 髪から伝わる、ぎこちなく撫でてくれる手の感覚に、ギンコの口元に浮かぶ微笑み。


「そういう時は【一緒】って言うって前教えただろ?」


 ふと、帝江の手の動きが止まった。


「……帝江?」


 焼けた魚を口に運びかけたギンコだが、背後から今までの和やかな空気とは違う雰囲気を感じ取る。
 魚をくわえる前に躰ごと、立ち尽くしたままの帝江にギンコは振り向いた。


「どうした?」
「…おなじ…ちがう…」


 ギンコの眇めの瞳が大きくなる。


「いっしょ…ちがう」


 地面を見つめてそう呟く帝江に、あの双子を思いだすギンコ。


「…違っても…いいんだよ」


 ギンコの言葉に顔を上げる。


「あれだ、違うからいいって…言うだろ」


 帝江は思いだした。白い髪のギンコと、黒い髪の化野は正反対。けれど、その二人が並んでいる様が妙にしっくりときていたことを。それは二人が醸し出す雰囲気もあっただろう。お互い気の置けない仲だから、ぎこちなさを感じなかったのもあるだろう。それでも、まったく違うように見える二人が、おなじに見えた。
 旅人と、一つ所に根を下ろす者。
 蟲が見える者と、そうでない者。
 人と…人ならざる者。


「みんな一緒じゃつまらねぇ。同じである必要はないさ」


 何か考え込んでしまっていた帝江にギンコは言う。


「違うからって、一緒にいちゃいけねぇわけでもねぇ」


 自分にも言い聞かせるように告げるギンコの首に、腕が回った。
 一瞬驚いたものの、後ろから自分を抱き締める帝江に答えるように、その腕を握った。
 言葉を上手く伝えられない時…化野と離れたくないと思った時、帝江はこうした形で想いを伝えようとした。そういえば、いおが家に帰ると言った時も、こうしていたと思いだす。あの時はギンコも化野も一緒に居たからそうしなかったのだろう。
 【一緒に居たい】【離れたくない】


「…おまえもそう思ってるなら…俺達はこれでいいんだよ」


 その時、暑い中そよりと吹き抜けた暑い夏にはありがたい涼しい風に。


「お、…極楽の余り風か。ありがたいね。ん、じゃ食うもん食ったら先を急ぐとするかね」


 帝江の頭が髪に擦れることで、帝江が頷くのがわかった。




















 焚火を消しているギンコの元から離れ、岩影で肌襦袢を脱いだ帝江が渇いた着物に袖を通す。
 なぜ着物を重ね着させていた事を忘れていたのか。ギンコは着物じゃなくて服だからだろうか。しかしそれじゃ倒れるのは当たり前と


「中の一枚脱いでこい。ば…っ!!ここで脱ぐんじゃなくてあっちの岩影で…ッ、」


 向こうの岩を指さして着物一枚にさせたのだ。
 川に入った生乾きの肌襦袢から乾いた着物に着替えただけで気持ちいい。
 岩に引っ掛けていた帯を手にして帝江がジッとそれを見つめて動きを止める。


「ぎんこ…」


 焚火も消して顔を洗い、清流を手に掬って口にしたところで後ろから帝江の声。


「…ッ!?」


──ぶーっ!


 準備が出来たかと振り向くギンコがその水を思いきり吹く。
 なんと帝江が肩にかけた着物の前も合わせずに、そしてそれをだらりとだらし無く下げたまま自分の後ろで立ち尽くしていたからだ。


「おま…っ!一体っ、なんて恰好っ…して…っ!」


 激しく咳込みながらギンコが帝江の着物の襟を掴んで前を合わせる。
 しかし慌てるギンコとは逆に冷静な帝江がギンコに帯を差し出した。


「?帯がどうした?」
「……」
「あー…、結び方忘れたのか。最近ずっと化野にやってもらってたからな…」
「わすれた…」


 溜息を吐くギンコの言葉に帝江が下を向いてしまう。
 蝶よ花よと帝江の面倒を見てくれた化野に任せっきりだった。


「しょうがねぇなあ…」


 帯を手にしてギンコが着物を着せてくれる様子を真剣に見ている帝江にギンコの口元が緩む。


(そんなに面白いもんかね)


「よし、終わったぞ」
「ありがとう」


 着物を着せ終えて満足気に立ち上がるギンコだったが、実は合わせが逆になっていたのに気付いていなくて、どうやらそれ程動揺していたらしい。
 歩き出して二人とすれ違った杣人そまびとのおじさんに慌てて呼び止められるまで帝江は結局そのまんま。
 しばらくして道の端で謝りながら帝江の着物を直すギンコの姿があった。