カナカナ…と帝江の耳に聞こえてきたのは明け方頃に鳴き始めたたくさんの蜩の鳴き声。
起き上がろうと少し躰を動かすと、相変わらず自分を押さえ付けるように隣で眠るギンコの腕に力が篭る。
帝江は薄く開いた目を擦り、そのままギンコの方へと寝返りをうった。
もう少しすればギンコも目覚めるだろうと帝江はそのまままた眠ろうとしたのだが……
背中を這うギンコの手の平の感触に、帝江は今度こそ覚醒し目を開けた。
「……、…!」
たまにこんな風に目が覚める。覚めるというか、醒まさせられる。
ギンコの帝江を抱きしめる腕に力が篭るのはいつものこと。
しかし帝江は戸惑うようにギンコの躰から離れると、起き上がろうとギンコの腕の中で小さくもがく。
「……、…っ」
大きなギンコの手の平が帝江の背中から腰を伝い、腿を這い擽る様な何とも言えない触れ方。
身を捩り、ギンコの腕から逃れるため、抱きしめてくる腕を潜り抜けようとする帝江。
小さく抵抗する帝江にまだ夢心地のギンコの撫でる手がやっと止まった。
ちなみにこれは全部無意識の行動故に目が覚めたギンコには当然これに関する記憶も自覚もない。
帝江はギンコの腕をやっとの思いで解いて起き上がると、まだ寝ているギンコを見つめる。
「……」
閉じた瞼、ギンコはまだ夢の中だ。
帝江はギンコに触れられるのが決して嫌なわけではない。ただ、いつも頭を撫でてくれる手とは何かが違う。その違和感が妙に気持ち悪く感じて、こんな時のギンコからはとりあえず離れる。
複雑な気持ちに任せ、自分の躰にかけてあった布をバサリとかけてギンコの顔を覆い隠してしまった。
それから囲炉裏の向こう側でやはり夢の中のイサザを見て、帝江は音を立てぬよう立ち上がる。
昨日はちゃんと話しすら出来ていなくて、ちゃんと顔を見つめたのも今が初めて。
「…………」
帝江が仰向けに眠るイサザの顔をそっと覗き込んだ。
化野と同じ黒い髪は額から落ちて幼い寝顔が見てとれる。
(あだしの…ちがう…)
よくよく見れば違った…というような感想だ。最初に見た時は化野だと思ったのだ。人間の顔を見分けるのは帝江には難しかった。どうも皆同じ顔に見えてしまう。ギンコは真っ白だからわかりやすいのだが…
(くろい…)
化野より肌が黒いことに気づいた帝江。イサザは山に居るため、よく日に焼けているのだ。
もっと違うところを探そうとそのままその場に座り込もうとした時、帝江の長い髪がイサザの顔の上に流れ落ちそうになり…
──ガシ、
帝江は自分の髪がイサザに触れる前にその髪を掴んでそれを阻止した。
しかし…
──ギッ!
想いの他慌てていたのか、帝江の動きで軋んだ床が大きな音を立ててしまう。
「…ん、あぁ、帝江」
パチリと開いた黒い瞳。音に目を覚ましたイサザが帝江の姿を捉え微笑んだ。
と、次の瞬間…
寝起きにも関わらず、イサザがあっという間に帝江の腕を掴んでその躰を引き寄せる。
躰は引かれるままに容易くイサザの胸に倒れ込んでしまった。
「寝込みを狙ってくるなんて随分大胆だなぁ、帝江は」
帝江を抱き寄せたまま起き上がる。
「…だい…たん…?」
「ん?そう。帝江は大胆だ」
自分の腕の中で大人しくしている帝江に余計な言葉を覚えさせる。
「帝江…だいたん…」
「あははは」
起きたギンコが聞いたら何て言うだろう。憤慨する様を想像して今から笑う。
一方イサザの胸に埋もれたままの帝江がふと気付いて顔を上げた。
「ん?」
帝江の灰色の瞳が自分を見つめているのに気付いてその視線に首を傾げるイサザ。ギンコとは違う、自分を包む匂いは土と森の匂い。大きな目にジッと見つめられて、しかし黙ったままの帝江にイサザは小さく頬を掻いて、背中に回した腕をゆっくり解いてみる。
逃げない帝江にヨシヨシとその頭を優しく撫でてみた。
「慣れてくれたのかな?」
一言呟くと今度は帝江が小首を傾げる。
何事にもあまり反応を示さない様子の帝江に、イサザはまた、頬っぺたでも引っ張ってやろうか、なんて悪戯の虫が疼きだしたりしたが我慢我慢と深呼吸。やったところでこの娘はされるがまま、面白く反応してくれるのはギンコの方だ。そのギンコが眠っていては、ここで娘に手を出すと、自分はただの変態になりそうだ。止めてくれる相手がいなくては面白くない。
「まあでも?せっかく側にきてくれたんだしね」
(半ば無理矢理だけど)
帝江の頭を撫でながら笑うと、イサザを黙って見上げていた帝江は特に反応も示さずに、徐に立ち上がろうとする。
笑った顔のまま、ガシッと腕を掴んで止める。
「まったく無反応なのは腹立つ」
帝江が顔を向けていたのはいまだ眠るギンコの方。自分にはあまり興味が無い。頭を撫でてくれるにしても、ギンコの方がいいと暗に言われたような気がして、むしろ意地でもこっちを向かせたくなった。
イサザの中に妙な闘志がわき起こる。
そして…帝江の両頬を摘んで柔らかい感触を楽しみながらむにーっと引っ張ったり挟んだり…
どうすれば反応するか試行錯誤を繰り返す。
そして擽って見た所、ビクンッと帝江の躰が反応した。
「お?」
しめたと想い擽ると、イサザの膝の上でじたばたして、普段ぼんやりした雰囲気とは違う抵抗についやり過ぎてしまう。
小さな山小屋だ。そんなことをしていれば床が軋み音を立てる。
やがてその騒ぎにギンコが目を開けのそりと起き上がった。
「…うるせぇなぁ…、何だよ朝っぱらから……」
ガシガシと頭を掻きながら起き上がりイサザに振り向くと、ギンコの目が一気に覚める。
「おい…っ、何してやがる」
「あ、ギンコ。おはようさん」
イサザの腕の中、普段おとなしい帝江が珍しく逃げようともがきながらも抱きすくめられていたために、ギンコの開口一番はやや不機嫌に、これ。
しかしイサザは別に動じもせず、帝江の頭に頬を顎を乗せながら気楽なもんで。
「とりあえず最初に寝込みを狙ってきたのは帝江だよ」
「んでなんでそうなってる…」
「それで俺が逆襲したからだよねぇ、なぁ?帝江」
小さな子供がまるで人形を抱き寄せるみたいにその躰を抱きしめ、イサザが帝江の顔を肩越しから覗き込むと、少し目を見張った帝江はふいと顔を背けた。イサザはふられた、なんて思ったが、
──がぶっ
「「!?」」
帝江は顔を背けたのではなく、目の前にある自分を拘束する腕に顔を向けたのだ。そして───噛み付いた。
「帝江っ?どうしたっ!?」
突然の攻撃に腕を離したイサザと、すぐさま帝江を抱き寄せてイサザから引き離したギンコ。
「大丈夫か?イサザ」
「ぉ、おお…大丈夫だ」
普段ぼんやりしている帝江のその行動に心底吃驚して互いに目を丸めている。
「…すまん。今まで人に噛み付いたことなんて無いんだが…」
自分の腕の中に居る帝江を見下ろして言うギンコ。目の前で起こったことだが、信じられない思いだった。
「いや、こっちこそ悪い。ちとやりすぎたみたいだ」
噛まれた腕を撫でて謝るイサザ。
「帝江。外に泉があったろ?そこで顔洗ってこい」
そう伝えて帝江に手拭いを放ると、頭にふわりとかかった手拭いの下で帝江が小さく頷いた。
「終わったらすぐに戻ってこいよ。今日はなるたけすぐに出立したいからな」
もう一度頷いて、部屋を出て行った。
帝江について今自分が知る見解より詳しい事について解るかもしれない。ギンコはイサザのいるワタリと旅を共にしている【オビ】という人に早く会いたいと心が急いていた。
焦る気持ちを抑えて燻り尽きて灰となった蟲除けの香の変わりに蟲煙草を咥えて火をつける
ふぅと白い煙を燻らせれば香の煙りが流され効果がなくなると共に入れ違いに山小屋に入り込んでしまっていた蟲達がギンコの周りから退散していった。
この世に生まれ出でし、見えぬ者には見えない、けれど確かに存在する、隔てても隣に同居する、命があるように、ギンコたちが知らぬ、【別の存在】も、無いことは誰にも証明できず、誰かがそれはあるのだと言う言葉を、否定することもできない。
ギンコは浮遊しながら離れる蟲を見て碧の眇めを細めた。
「…………で?」
「うん?」
胡坐をかき、膝にパンッと手の平を置いたギンコの、先程までのイサザへの申し訳なさや追憶はどこへやら。疑惑と怒りを込めた眇めでイサザを見ていた。そんな眼差しで見られては、イサザも目を逸らす。どおりで帝江を小屋から追い出したわけだと納得。
「ギンコ…目、据わってる」
「ああ?」
「いや、なんでもないです。…で、というと?」
「帝江に何した」
即答。
「悪かったよ。何しても反応しないから…いろいろ…そしたら、擽りだけは効いてな?だからつい…」
イサザの話に、そういえば前にくすぐったい時はわかりやすく反応してたことがあったなと思いだす。
「だからって噛み付かれるほどやるか?」
「ごめんって」
ハァ〜〜と長い溜息を吐いたギンコは、据わっていた目を戻し、自分も詫びる。
「だが、噛み付いた帝江も悪いからな。戻ってきたらちゃんと謝らせる」
「ああ、いいよ。噛み付いたって言っても、ほれ。赤くもなってねぇ。加減はちゃんとしてるみたいだ。猫みてぇだな。帝江は」
「もっとやってやりゃいいのに」
「なんか言ったかギンコ」
「いや?おまえが嫌われて可哀想にって言っただけだ」