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 帝江が山小屋から外に出掛けている間にギンコは荷物をまとめて出発の支度を終わらせる。


「イサザ、んじゃワタリの連中んとこまで案内よろしくな」
「うん、待ち合わせ場所もそう遠くない。合流したらすぐそいつを紹介するよ。」


 ギンコの支度を横で手伝っていたイサザだが、支度が終わると今度は草鞋を履いてその紐をしっかり足に結わえながら自分も出立の準備に取り掛かり始めた。


「…ぎんこ」


 その時、がらりと開いた戸。
 顔を洗い終えた帝江がギンコの側までくると、先程放られた手拭いをきちんと畳んでギンコに差し出す。


「あぁ、あんがとな…って、帝江。お前さん着物と髪…ずぶ濡れじゃねぇか…」


 多分、泉の前にうずくまり、流れた髪が水に浸かり、水を掬う時に袖を濡らして、顔を洗う際にその水を手の平から零したのか着物の布地は水を含んでいた。


「こぼした…」


 帝江が手拭いで拭かれながら平然と答える。
 ギンコは山小屋の外で蜩の声から昼間鳴く蝉達に移り変わった鳴き声に耳を傾けると、暑くなりそうだからこのままでいいか、なんて目を細めると再び帝江を見つめた。


「……」
「?」


 しかし、珍しく目を逸らされた。その視線の先はイサザ。


「……イサザに謝りたいか?帝江」


 無表情だが、僅かに口元が動く。
 ギンコの横をゆっくり通る。足取りが重いのだ。
 自分の準備のためにしゃがんでいたイサザを帝江が見下ろす。下から見上げてくるイサザはにこっと笑っている。


「いさ…ざ……ごめん、なさい」
「あ、ギンコ。すごい、帝江が俺の名前呼んだよ」
「…ちったぁ悪怯れろよ…」


 別段気にしていないイサザは寧ろ帝江が自分の名前を呼んだ事に暢気にギンコに笑顔を向ける。
 そんなイサザにギンコはいかにもうんざりとした様子でがっくりと肩を落とした。
 帝江は気にしていないのか、ギンコの前に背中を向けて座る。
 ギンコもそれに対して、承知しているのか荷物入れの肩紐に無くさないようにと結び付けてあった組み紐を解くと、今度は帝江が普段腰に携えている荷物入れにしてある巾着の中から櫛を取り出す。
 帝江の髪を結ぶ様子があまりにも手慣れていたギンコを見ていたイサザ。


「…自分で結ばせるのは教えないんだ」
「…おい、イサザ…。思ってることが口に出てるぞ」


 髪を解かす手を止めたギンコにジロリと睨まれたが、イサザは気にもしてないのかむしろ二人に笑顔を向けた。


「…教えたけど紐結ぶのがうまく出来ないみたいですぐ髪が落ちてきちまうんだよ」
「いいんじゃないかな?」


 突然意味の分からない言葉に、ギンコは珍しくきょとんとした顔になる。


「は?何がだよ」


 しかしイサザはそんなギンコに何でもない、とただ一言告げて立ち上がった。そんなイサザにギンコがその表情のまま首を傾げる。


「いや…、うん…だから何でもないって。俺外で待ってるよ」


 笑顔のまま振り向いて、意味ありげな一言を残し、そして戸を開けるとイサザは一人外へと出て行ってしまった。


「…なんだぁ…?イサザの奴」


 見上げる帝江と顔を見合わせて二人で首を傾げ合うギンコと帝江。
 閉めた戸に寄り掛かり、イサザは枝の間から見える空を見上げる。


「いいと思うけどな、今のギンコも。…見守っていてあげたいなぁ…」


 まるで乳母日傘おんばひがさな子供。
 まるで父親、まるで家族。
 そして、まるで…


(…ギンコは気付いてないみたいだけど)


「あんなギンコ、見たの初めてだよ」


 帝江に執着する昨日からのギンコの行動が逐一印象的で、気持ちを噛み締めずにはいられない。


「…いいなぁ、ギンコ」


 しかし仲睦まじい二人に羨まずにもいられない。
 空を仰いで伸びをして、イサザは山小屋から離れ泉に向かって歩き出した。


「ぎんこ」


 髪を結び終えたものの、帝江は立ち上がる事もせずギンコを振り返ってその顔を見上げる。


「ん…?どうした?」


 普段と変わらぬ朴念仁だが、帝江にギンコの心の内にはやる期待の気持ちが伝わったようだ。
 心なしか蟲煙草を咥える唇の端も僅かだが上がっているように見える。


「ぎんこ、うれしい?」


 見上げながら無表情に尋ねてくる様子にギンコは返事をする変わりに帝江の髪をクシャッと一撫でして口角をちゃんと上げて見せることでその解いに嬉しいを肯定した。


「おまえのことが解るかもしれんからな」


 そして本当に嬉しそうに笑った。
 そんなギンコの笑顔を見たのは初めてだ。
 でもふと、帝江の心に浮かんだ侘しさ…。


「ぎんこ」


 ギンコに向かって両腕を伸ばし、抱き着く。


「?、どうした?帝江」


 そう言いながらも小さな背に手を回し、頭を撫でるギンコ。


「…なんでも、ない」


 それは嘘だ。ギンコはそう思った。なんでもないわけではないのだろう。ただ、どう伝えればいいのかわからないのか。それとも、言い淀んでいるのか。計りかね、ギンコは手に力を込める。
 しかし、ギンコとは反対に帝江は腕の力を抜いて躰を離す。
 立ち上がる帝江の表情にギンコは魅入る。
 見ていぬようで見ているもので。
 感じぬようで感じているもので。
 周りの気持ちを敏感に察する。
 たとえ顔に出ていなくたって…


「イサザ…まってる…」


 自分に背を向けた、その後ろ姿に…


「帝江…っ」


 ギンコは咄嗟に帝江の腕を掴んで引き寄せる。


「?」


 そんなギンコの行動に帝江が驚いてギンコを見た。
 イサザから齎された朗報。
 喜ばしい筈なのに、けれどふと過ぎった胸騒ぎに、ギンコは再び帝江を抱きしめる腕に力を込めた。


「「人には過ぎたる力だよ」」


 どうしても、あの双子の声が頭から離れない。