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 話しは昨日の昼に遡る。
 朝方、胸に過ぎった不安は、道中の期待と希望に頭の隅に押しやられてしまっていた。
 ワタリがいる場所に一刻も早く辿り着きたくて、疲れも湧いてこない。


「なぁ、ギンコ」


 今日は些か歩く速度の速いギンコに堪らずイサザが呼び止める。


「…ん?」


 帝江の拒食の原因を知る糸口が掴めるかもしれない。帝江の正体を。何より、どうにも取り払えぬしこりを取り除くことが……共に居られるという確証を得られるかもしれない。
 ギンコの足は無意識に歩きを速めていて、イサザに呼ばれたギンコは足を止めて振り向いた。


「何して……っと…、悪い。追いつけんかったか」


 随分距離が開いてしまったものだ。
 坂道とはいえイサザもワタリ。
 険しい山道、上り坂。
 歩くのは慣れている。
 しかしそれでも歩調が速いと訴えてくる視線に、ギンコは申し訳なさそうに白い髪に指を差し入れ頭を掻いた。
 ギンコの足の速さにもちろん帝江も追いつけなかったのだろう。
 途中でイサザに背負われたらしく、その光景に一瞬驚いたものの、
自分に非があったとすぐに謝る。


「すまん、急いた、な」


 山道を戻り、イサザの背にいる帝江の傍に寄る。
 いつもの表情で見てくるが、放っておかれたことに対しての抗議の眼差しが含まれているような気がしてならない。


「…あー…、悪かった悪かった。そんなに見んでくれ」


 しかし視線を逸らした先で帝江の木履の鼻緒に血が滲んだ痕が見えた。足の方は帝江の治癒力の高さで塞がっているだろうが、それでも血が出た時点でだめだろう。こんな険しい山道を、二人に追い付こうとそれほどに必死に歩いていたのだろう。


「……いっしょ…」


 一緒に居ると言ったのに置いて行くとはどういうことだと暗に言われているような気がした。
 ギンコは一旦ゆっくり目を閉じた。


(…とりあえず、落ち着け)


 蟲煙草の火が帝江に触れないように口許に手をやり二本指で煙草を挟む。


「すまん、な。痛かっただろ」


 イサザは帝江を下ろした。


「急いでるのもわかるけどさ。集合する為に来たんだ。ワタリの皆は逃げないよ」


 暑い熱気に額に滲み出た汗を拭うと、イサザは空を仰ぎ見て深呼吸。息を吸い込み吸った以上に深く息を吐き出す。


「ん、あー…、そりゃ分かってはいるんだが…すまん、気をつける」


 木履を脱がせ、帝江の足を見てやりながら、ギンコがイサザに詫びた。
 以前と同じように、足の傷はもう塞がって消えている。


「…ちょっと待って…」


 イサザが懐から小さな容器を取り出してそれをギンコに放ってから山道から逸れて山の中に分け入っていく。


「薬か?」
地楡ちゆだよ、塗ってあげな」


 吾木香われもこうという植物から作ることの出来る止血の薬。


「じゃ、ありがたく…、ってお前さんはどこに行くんだよ」


 イサザには帝江の治癒力について話していない。隠し通すならば、ここから離れてくれた方がありがたいが、薬はある…のに山に入って行ってしまうイサザを疑問に思い、ギンコは慌ててその背中に問い掛けた。


「それ最後の傷薬だったから、ごめん。向こうに生えてる木さ、あれ…キハダだろ?ちょっと失礼して恵んでもらうから待ってて。帰ってくるまで休憩しててよ、ギンコ」


 よくよく見ればなるほど。
 イサザが指差す緑の中に見える木は傷どころか様々な効能を持つ落葉高木の黄膚。日陰の山中にも関わらずその木はどっしりと地面に根を下ろしていた。


「…あー…、じゃあすまんが頼まれてくれんか?俺の分も採ってきてくれ」


 木の幹の黄色い内皮を日干しにして乾燥させると黄柏おうばくと呼ばれる薬になる木。効能により使い方は異なるが、靴擦れには黄柏を粉末状にして直接患部に塗布すればよい。


「…ちゃっかりしてるなぁ」
「はは、まぁそんな事言わんと頼まれてやってくれんかね」


 ギンコは山道の脇に倒れていた朽木に帝江を座らせながらイサザに振り向くとさも必要なんだと言わんばかりに帝江の木履の鼻緒についた赤をイサザに見せた。


「…わかったよ、行ってくる」


 何か反論しようとしたが、それを見せられてしまえば喋りかけた唇が固まる。
 しばし考え抗議を諦めたのか、小さくため息をついたイサザは二人に背中を向け、行ってくると手を振りながら木膚に向かって歩きだし、生い茂る草木の中見えなくなってしまった。


「すまんなイサザ」


 ギンコはイサザから貰った薬をしまった。本当は傷薬などいらないから。帝江の足にはもう傷は無いのだから。しかし、少しの時間稼ぎを望んでそう言った。


「帝江も…すまなかったな」


 謝るギンコに、帝江は首を横に振った。


「いい…だい…じょうぶ…」


 不機嫌な様子は見られない。本心からそう言っているのだろう。


「きず…きえた…」


 自分の足を見てそう言った帝江。


「いいわけねぇだろ」
「!」


 ひょいと足を掬い上げると、いきなりの事で帝江の躰が何の支えもない後ろに倒れそうになるが、そうなるだろうと予想していたギンコの手が直ぐさま帝江の腕を掴む。
 倒れそうになったのを引かれ止められて、かくんと帝江の体が揺れた。


「…痛い思いさせて…悪かった」


 傷のない足を見て、ギンコが申し訳なさそうに目を伏せる。


「…いい…ぎんこ…が…うれしい……わたし…も…うれしい」
「!…すげぇ…殺し文句だな……」


 ギンコが照れくさそうに笑う。


「ありがとよ。でも、帝江が痛いと、俺は悲しい」
「……そう」
「そうだ。だから…無理すんな」


 ギンコは身を屈めて帝江足の甲に唇を寄せた。柔らかい感触が、鼻緒が当たっていた場所に触れる。
 そんなギンコの行動に驚いて固まっていた帝江を眇めでチラリと見上げれば、帝江は首を縦に振った。
 満足したのか、ギンコは口を離す。
 木履を履かせ、手を引いて立ち上がらせてみる。


「大丈夫か?」


 足の具合を聞いたギンコに頷いた帝江が森を見上げる。


「どうした?」


 ふと、帝江の目についたのは、頭上で実るヤマゴボウの実。


「あぁ、そいつは食えんぞ」


 熟れた実に手を伸ばす帝江。帝江は木の実だって食べないが、ギンコにあげようといろいろ集めてくる。しかし、食べられないヤマゴボウを見てギンコが木の実に伸ばした帝江の手を咄嗟に握る。


「ち、がう…」


 帝江が否定を示したので、とりあえず手を離してみれば、ヤマゴボウの実に触れようとまた手を伸ばす帝江だが、あと少し届かない。ギンコは一緒にその熟れすぎた実を見詰めた。
 木の実から滲み出るような山の生気。


「…ここは光脈筋だが…おかしいな、前来た時はこんなに…」


 ギンコも森を見上げれば、辺りは確かに真夏日独特の草いきれ。強い日差しを浴びた木々から出る、纏わり付くような熱気。
 確かに此処にも主がいる…が、山の均衡がとれていないのだろうか。熱気の中に感じるむせ返る果実の熟れた甘苦い香り。


「あぁ…、だからワタリ達がこの山に来たんだな…」


 一人納得したギンコがまだ実を見詰めている帝江を見つめた。


「原因が蟲であるにしろ無いにしろ…帝江のことがわかったら……」


 ふと思うのはこれからの旅路。


「旅を続けられるとわかったら…」


 薬草の知識に関しては中々の帝江。そして山の様子まで敏感に感じとる様子に感心しながら見出だした素質。


「蟲師…に…」


 そしたら先ず要るのは道具箱だな…なんて、つい本格的に考えだしたギンコだが、しばし考えてから渋い顔をした。
 もし帝江の体質が蟲患いによるものだったとしたら、それが治ればもしかしたら帝江は蟲や光酒、光脈筋の微妙な変化すら感じとれなくなってしまうかもしれないのに。


「本当に…急いてるな……」


 ギンコの独り言が耳に届いたのだろう。
 帝江がギンコの顔を仰ぐ。


「ぎんこ?」


 目の前の灰色の瞳がどうしたの?と尋ねてくるようで、ギンコは暢気なもんだと苦笑する。


「あー…、ん、いや…なんでもねぇよ」


 しかし可能性を考えて、ギンコは背負う自分の道具箱をちらりと見て一言だけ聞いてみた。


「あのな、帝江…薬、作ってみたいか…?」


 すると、帝江は首を傾けた。作りたいかどうか、考えた事が無いのだろう。


「ま…、そりゃそうだろうな」
「…あげる…する」


 いきなり言われても困るよな、と思ったところでギンコに帝江が一枚の葉を摘んでギンコに差し出した。
 ギンコはそれを受け取りじっと見つめた。


「ギンコ…うれしい」
「…ああ」
「くすり…つく…る…ぎんこ、うれしい?」


 帝江の言葉を聞いて、顔を綻ばせる。


「…ああ、嬉しいね」


 ギンコが喜ぶから薬を作る。そんな理由で、誰かに与える薬を作って良いものなのか。でもそれは、いずれ覚えて行こう。


「そんじゃこれからもよろしく頼むよ、帝江」


 何気なく、これから先の約束も取り次ぎ、しかも帝江からまた言葉を貰い、ギンコは胸に支えていたものがとれ、込み上げる嬉しさ。
 蟲煙草を口に銜え火種を取り出し煙草に火を点けると朽木に座り、
帝江に隣に座るように手で示す。素直に隣に来る帝江に、深く吸った煙草の煙を満足げに吐き出した。