35

 朽木に腰掛けぼうっと空を見ていた帝江を見ていたら自然と口元が緩んでしまっていたのだろう。
 しばらくして森の中からやっと帰ってきたイサザが二人に呼びかけようとした矢先、そんなギンコを見つけて口を噤む。
 そのままギンコが慈しむような眼差しで見つめている帝江を何となく見つめた。


「…。」


 灰色と白に染まる娘。空ばかり見ているその娘の視線がふいに地表に向けられる。伏し目がちの瞳も灰色で、その目は世界を濁った色で見つめるのかと思えば、冴え冴えと世界を映しているようで。
 二人を見つめて立ち尽くしていたら、イサザに気付いた帝江が目を丸くしてから首を小さく傾げ、その様子に思わず吹き出す。
 帝江の視線と仕種でイサザが戻ってきたのに気付いたのだろう。ギンコが今まで見られていたことを知る由もなく振り向き道具箱を背負い、帝江を立ち上がらせて早々に歩き出す支度を整え始めた。


「…お、すまんな…じゃ、そろそろ行くとするか…」
「…俺にも少しは休憩させてくれよ。せっかちは嫌われるよ。ギンコ」


 もちろんからかってみただけだが、ギンコはその言葉を真に受けて、後頭を掻く。
 困った時とかに見せるギンコの癖だ。
 しかしギンコはふと何かを思いついたのか、ズボンの衣嚢に手を入れてイサザに紫色の石を放る。


「っと…!いきなり何投げるんだよっ…ってこれ…紫水晶?」


 何とか受け取った物を見れば、色も大きさも中々申し分ない宝石にイサザが目を見張った。


「あぁ、帝江が見つけたんだがね、質は保証するよ。中々いい色してんだろ?これで案内頼まれてはくれんかね」


 すると、イサザ。
 しばらく薄紫の石を見詰めていたかと思ったら…にっこりと笑い石のない方の手をギンコに差し出す。


「…あ?なんだよ」
「あと二つで交渉成立ということでどうかな?」
「……ちゃっかりしてら…」


 ギンコが顔を手で覆い隠し盛大にため息を吐いてからまた衣嚢に手を突っ込むと、イサザの条件通り、今度は放る事なくイサザの前まで来てから二つの紫水晶をその手に乗せた。


「へぇ、意外…渋るかと思ったら……俺だって集会の時に情報の他にも売るもの欲しいしさ、オビの紹介料も込めてだよ。それにまだ持ってんだろ?帝江のお陰でさ」


 三つの石を嬉しそうに握りしめてイサザが歩き出す。


「あぁ?それに関しちゃ逢わせるつもりでいたんだろうが…」
「それはそれ、これはこれ、だよ。あとは案内料と薬草の調達料で…、正当報酬だろ?」


(そういう事ね…)


 元気に歩き出したイサザを追ってギンコも帝江もその後を追った。




















 やがて山の奥に進むにつれて、聞こえてくる人々の話し声。
 こんな山奥に大勢の声がするということは、ワタリ達が集っているという証。
 繁る木々を割り開いて、目の前に忽然と現れた森の広場ではやはりワタリ達が森の奥から現れたギンコとイサザ、そしてワタリ達とは初対面の帝江を見つめていた。
 山間を漂泊し光脈筋と共に流れる、ここに集う人達がワタリである。


「じぃちゃん、ただいま」


 大木の根本に腰掛ける穏やかに笑みを浮かべていた老人にイサザが人懐こい笑顔を浮かべた。


「お帰りな、ご苦労イサザ。そしてギンコも久しいな…これは珍しい、ギンコがなんとまぁ可愛いらしい娘を連れている」


 この老人がこのワタリの集団の長でありイサザとギンコの小さい頃を知る【じぃちゃん】。
 真っ直ぐイサザが長に向かって歩いていく中、ギンコも続き、そしてそれを追う帝江を、長もワタリ達も珍しいと口々に、笑みを浮かべ見つめている。


「お久しぶりです」


 長の前までやってきたギンコが恭しく挨拶をすれば、長は顎に蓄えた髯を撫でて頷いた。
 そして、じいっと自分を見つめてくる帝江に皺の刻まれた顔を更に皺くちゃにさせて笑う。


「?」
「綺麗だろ?じぃちゃん。ギンコの奥さんで名前は帝江」
「そうかそうか。ギンコにもようやっと良縁がきたか」
「あー…いや、違いますよ。俺はまだ独り身でして…あのなぁ、イサザ…」


 明らかにギンコを構うイサザの言葉を真に受けた長が帝江の前に立った。


「よぉ来た。よぉ来たな。隣人よ」


 目が無くなるくらいに笑う長。
 イサザの帝江の紹介をたやすく信じ込んでしまった長にギンコがすぐさまに弁解したが、そんなギンコを見て長の隣で実に楽しそうに笑うイサザにギンコはげんなりと肩を落とした。


「諦めなって、みんなもきっとギンコの奥さんって思ってるよ」


 現に大半のワタリ達が思った事はイサザの言った通りである。


「ギンコォ、おまえいつの間に所帯を持ったんだぃ。水臭いねぇ、こんな可愛い娘なら大層自慢したかっだろうよ。ウロさんで報せてくれたら……そうかっ、いきなり会わせてびっくりさせたかったんだな!いやぁ、ほんとに可愛い娘だぃ」


 男がいきなりやってきて帝江の両手を握る。


「これ、ザンカッ。いきなり無体をするんじゃないっ」


 人の嫁だ。長がザンカというワタリ仲間を制したがもう遅い。
 ギンコや帝江、イサザと長の周りはあっという間に他のワタリ達で人だかりになっていた。
 知らない人に囲まれ、目をぱちぱちと瞬かせているあたり、内心驚いているのだろう。


「ギンコ、久しぶりーっ。お帰り、イサザッ!ねぇ、ザンカ!あたしにも帝江ちゃんに挨拶させてよ」
「…あぁ、チハか。久しぶり…って…おい、相変わらずせせこましいな…お前さんは…」


 見るからに周りの男子より快活、というより活発そうな女がギンコの腕にしがみついてからすぐに離れ、ザンカの傍に居た帝江に駆け寄ったが、どうやらこのチハという女は勢いがありすぎるらしい。
 ザンカが帝江とチハの間に入って「慣れてねェ奴にいつもの調子で突進すんな!」と声を張っている。


「突進なんてしてないわよ!」
「してるだろ。しっかしギンコに嫁かぁ…おい、なぁチハ、お前もそろそろその跳ねっ返りな性格治して俺と…」
「!いやぁよっ!すぐそうやってっ!第一他の女の手握りながら言うってどうなの!?あんたみたいな女ったらしはまっぴらゴメンだねっ!私はずっと勇ましく逞しく生きてくのっ!!」


 バチンと森に渇いた音が響いて、ギンコ、イサザ、長までがその音にきつく目を閉じ肩を竦め恐る恐る目を開ければ、あっという間にザンカの頬にひと足早い赤い紅葉が。


「〜〜〜……っ!、…あ〜〜〜そうですかぃっ!俺だってお前さんみたいな跳ねっ返りだけは御免被るねっ!!」
「だから私からまっぴらゴメンって言ったでしょうがっ!」


 年上のザンカにも臆せずに突っ掛かる中々胆の据わった女である。


「あー…、帝江が怖がってるよ〜、チハ」


 ザンカに手を繋がれた状態ということは、チハの平手打ちを目の前で見ていたということで。
 チハの迫力に圧され無言のまま目を瞬かせている。驚いているのか、怖がっているのかその表情からは窺い知れないが、イサザに指摘されたチハは大層慌てて帝江に笑顔で取り繕う。


「だっ…、大丈夫よぉ?帝江ちゃん、ほら♪よろしく……………って、あれ?」


 帝江はそこから動かない。それはもともとだが、それを知らないチハは…


「固まってる!?ザンカッ!そうやってあんたがすぐ私の本性を暴くからっ!」
「俺のせいかよっ!っつーかそれが嫌なら少しゃ本性隠す努力をしろっつーのにっ!」
「…チハ、帝江はわけあって、まだ感情の起伏が乏しくてな…」


 また騒ぎに収拾つかなくなる前にギンコがザンカとチハの間に入りその場を治めた。


「え、そうなの…?……でもギンコはどこかの誰かさんと違ってすぐ庇ってくれるのね、ギンコのそうゆうとこ大好きよ♪」


 流石はワタリ。詳しいことは話さずとも、そういうことかとすぐに察してくれる。
 チハはくるんと軽やかにギンコに振り向きまたその腕にしがみついてザンカに向かってベッと赤い舌を見せる。


「あー、はいはい」
「あっ、私真面目に言ってんのよっ!?ギンコッ」


 可愛くしても全くとりあってくれないギンコ。
 チハがギンコの腕をぐいぐいと引っ張り躍起になるがギンコは明後日の方を向き、薄く笑った口元から盛大に蟲煙草の煙りを吐いてみせた。
 そんなギンコにチハはぶすくれて頬っぺたを膨らませる。


「これじゃおしとやかにしたくてもなるわけないじゃない」
「つか、嫁さんの前で旦那に引っ付くのはどうなんだ」
「あんたにだけは言われたくないわよ!」


 再びザンカとチハの喧嘩が始まった。


「いっしょ…」
「「?」」


 ぽつりと聞こえてきた声にはたと動きを止める。
 振り向けば、帝江が。


「おなじ…」
「「!なんでこんな奴と!」」


 二人には帝江の言いたい事が伝わったようだ。


(適応早いな…)


 旅の道中、蟲のことなど知らない者たちから不可解なものを見るような目で見られることもあったことを思いだせば、蟲に理解ある化野の下やここが帝江にとって過ごしやすい場所であることは事実。ギンコの口元に寂しげな笑みが浮かぶ。


「帝江ちゃん、女の子同士仲良くしましょ?髪の毛いじってあげる」


 チハはにっこりと…本人が自覚してない人懐こい笑みを浮かべた。


「駄目だよ!チハ姉、チハ姉がこんなか弱そうな人世話したらこのお姉ちゃんの方が壊れちゃうよっ」


 しかしギンコ達の後ろから聞こえてきた少年の声に、折角のチハの笑顔が消えてまたきつい形相へと変わってしまう。


「何だってぇっ!オビ!あんたそれもう一回言ってごらんっ!新参者のくせに生意気なのよっ!」


──ゴチンッ!


「ほらぁっ!すぐそうやってゲンコ飛ばすぅ!チハ姉絶対人の世話なんて無理だよぉっ!」


 新参ワタリのオビ。
 中々思ったことをすぐに口にしてしまう男の子のようで案の定すぐに手が出るチハには日々苦労なさっているようではある。
 歳は10ばかりのまだまだあどけない子供。
 オビとは初対面だが、ギンコは目の前のチハとオビの様子が可笑しくて堪らなかったのか思わず小さく吹き出してしまった。
 そんなギンコの前にやってきたカジが真っ黒い瞳で初めて会ったギンコを見上げる。


「はじめまして!ギンコさん!おれ、なりたてワタリのオビ。イサ兄から話し聞いてるっ」
「【聞いてます】だろっ」
「【聞いてます】でしょっ!」


──ゴチンッ!


 ギンコに明るく笑い挨拶したオビだったが、言葉遣いを注意するザンカとチハから同時にまたげんこつをもらってしまった。


「いってぇえっ!」


 頭を押さえザンカとチハを涙目で睨むカジにまたギンコは吹き出してオビの前に手を出す。


「ん…はじめまして、俺は蟲師のギンコ。中々こいつらと楽しそうにやってるみたいでなによりだよ。オビ」
「楽しかねーです。ザン兄は女がいるとすぐにおれとの勉強ほっぽりだすし、チハ姉はすぐにゲンコはるし……」


 と、ギンコの握手に応じたオビが突然顔を青くして自分の口をバッと押さえ付けた。


「また後でっ!ギンコさん!」


 早口にまくし立て、突然オビが全速力でギンコの前から消えるように走り去る。


「あ、あぁ……うわ…っ」
「「オビ!覚悟は出来てるかぁあっ!」」


 唖然とオビを見送るギンコの前を、ザンカとチハがもの凄い勢いで駆けて行った。そんな二人をギンコと帝江は見送った。


「二人とも息ぴったりじゃねぇか、あいつら毎日あんな感じなのかね…」
「そうだね、ほぼ毎日だよ。元気いいよねぇ。昨日のギンコと帝江さ、あの二人に似てたから思わず笑っちゃったんだよ」
「…いや、どう見ても似ても似つかんだろうが…」


 昨夜の山小屋での帝江と自分の様子をギンコが回想するが似てると言われたところが全く分からなくて首を捻る。
 森中に三人の声が響き渡るのを聞きながら、ギンコはぼうっと声のする方を見ている帝江を見た。


「帝江、ほれ。挨拶、な」


 帝江の向きを長の方に向け、座らせる。そして後ろから帝江の顔を覗き込んだ。
 ギンコに促されて帝江は小さく長に向かって頭を下げる。先程ギンコがそうしたように。


「…ぎんこ、…【はじめ…まして】…?」
「お、覚えてたな。そ、はじめまして、でいいんだよ」


 ギンコを見上げて帝江が尋ねてきた内容に、自分から気付いた事を思わず感心したギンコは帝江の頭を撫でた。


「…は…じめ…まして…」


 挨拶された長は様々な事を刻んできた大木のようなその手で帝江の頭を優しく撫でた。


「ところでイサザ…」


 ギンコが辺りを見渡して、どうやらこの場にワタリだけしかいない事を不思議に感じていたのかイサザに呼び掛ければイサザもギンコの言わんとすることが分かったらしい。


「じぃちゃん、そういやガレキは?ギンコ、ガレキに用事があるんだよ」
「あぁ、それならこの山を見てくるとかで…感じるだろ?ここの光脈筋は…いきなり精気が増しててな、ちとおかしい…原因が分かればと見回りに行ってくれとる者らについていった」


 イサザと長の会話にギンコは焦りも感じたが、でもいないなら仕方がない。
 自分が山に入って捜しに行こうかとも思ったが、すれ違いになるのも…と思い直しここでオビを待つことにした。


「して、ギンコ。帝江は何かの蟲患いなのか?」


 しかし焦りは顔に出ていたのか徐々に硬い表情になっていくギンコの耳にふと長の声。


「その髪と目からしてそう見るが…」


 帝江の顔をよくよく覗き込む長に、ギンコは帝江のことを説明した。


「イサザから聞いた光脈が枯れた山で…山が枯れる前に帝江を見つけたんですが…」


 長は目を細め、やがて顎髯を一度だけ撫でた。


「……この年になるまで、そんな症状を表す蟲は見た事が無い…お前はいったいなんの蟲に魅せられてしまったのかの……ギンコ、よければ帝江を見つけた時の事を詳しく知りたい…」


 長がそう言いかけた時である。大木の後ろの繁みが揺れてギンコは思わず息を飲み、帝江を抱き寄せながら立ち上がる。
 そして纏わり付く枝葉を欝陶しいと言いたげな顔で繁みから姿を表したのは生成きなり色した髪の、大人しそうな少年。
 やっと出られたとばかりに一度はぁとため息をついて着物を払っていたが、やがてギンコの視線に気付いたのかその少年はギンコと帝江を見るなり瞳を丸くした。


「あんたがガレキか?」


 ギンコの声に我に帰った少年。
 きょとりとギンコを見上げたまま小さく数回頷き、背中に背負っていた荷物を地面に下ろすと、丁寧に皆に向かって頭を下げる。


「はい、僕がガレキです。えと…」


 今置いた荷物をまたよいしょと背負ってオビはギンコの前に小走りでやってきた。
 近くまで来れば成る程、イサザから聞いていた通りの少年。年齢はオビより少し上。あの双子と同じくらいのようだが、ガレキはとても大人しそうな雰囲気の少年だった。


「…驚きだな、ここまで子供とは思ってはいなかったんだが…、あぁすまん、いや、俺は蟲師なんだが…ギンコという」
「はじめまして、ギンコさん」


 見下ろすギンコを見上げるガレキが屈託のない笑顔を浮かべる。


「なぁ、いきなりで申し訳ないんだが、あんたが【卵】というものについて詳しいと聞いた。診てもらいたいのはこいつなんだ」


 ギンコが帝江をガレキの前に出す。


「……僕達が探している【卵】と、その方が何か関係があると?」


 少年の顔つきが少し変わる。やはり【卵】の話は別なのか。


「イサザから聞いた。卵があるかもしれないと思って行ったっていう山でこいつを見つけたんだ。その【卵】の持つ特性と、山での帝江の様子があまりに似ていた」
「!?」


 ギンコがそう言った時、ガレキはバッと驚愕に目を見開いた。


「何故その名を…?!」
「?」


 いきなり食いつくガレキに思わず身を引いてしまうギンコ。


「あ…、すみません」
「いや…帝江の名前が、どうかしたのか?」


 ガレキは怪訝そうに、ギンコの言葉の裏を探ろうとするかのように見つめる。
 しかし、少しの間を置いてそれを口にした。重々しい真実を、語るように。


「……帝江というのは…【卵】の本当の名前です」