39

 森を出てからやれやれと大木の根本に腰を下ろしたギンコ。
 ギンコについて歩いていた帝江もギンコの隣にうずくまった。
 ギンコの大きな手が帝江の頭に乗せられる。
 ギンコの手の下で帝江が頭を動かしたので、灰色の髪が縺れた。嫌がっているような動きではなかったが、普段とは違う帝江の雰囲気を感じとったギンコがちらりと視線と下げ、髪を直してやりながら伏せた帝江の目を見つめる。


(具合がすぐれんのか…?)


 心配した矢先に帝江が首だけをザンカとチハがまだいるであろう…今しがた二人が出て来た森の方へと振り返り、でもすぐに前を向くと俯き、立てた膝の上に顎を乗せた。
 華奢な帝江がそれで余計に小さく見える。


「ぎんこ…」


 まるで呟きにも似た呼び声…。


「ん?」


 抑揚の無い、ギンコのいつもと変わらない返事。
 そして伏せていた灰色の瞳がギンコをゆっくりと見上げ、碧の視線とやっと絡んだ。
 だが、ギンコは思わず息を飲む。
 帝江の灰色の瞳は、静寂を生む。
 静かに月を見上げる夜のように。静寂の中で美しさを見る。
 だが視界に広がる灰色の中で聞こえてきた帝江の声にギンコは瞳を見開く。


「【あいしてる】…って…なに?」



 ……一瞬、時が止まったかのような錯覚に捕われたが、異様に大きな音でザワリと風が森と帝江とギンコの髪と服を靡かせた。


「……あー…、…ったく、…あいつらか…」


 先程遭遇したザンカとチハとの場面が直ぐさま頭を過ぎり、ギンコががっくりと盛大に項垂れてため息をついて頭を抱える。


「ぎんこ?」


 眇を前髪で隠した横顔を見上げている帝江にはギンコの表情は見えないが、話し方から帝江はギンコを困らせてしまった事だけは何となく理解できた。


「いや、なこと…聞いた…?」


 悪いことを聞いたのかと、身を乗り出してギンコの顔を覗き込んでくる帝江の気配にギンコは顔を上げて不安げに自分を見上げる帝江の顔を見つめる。


「…ん、いや…」


 ギンコが一言呟いて蟲煙草を指に挟んだ手で頭を掻いた。
 そして蟲煙草を口にくわえて、その煙を燻らせながらギンコは帝江の顔をジッと見下ろす。


「?」


 黙ったままのギンコに帝江は首を傾げ、大きな目をよりいっそう丸くしてギンコの顔を見上げていた。


「……」


 そんな帝江の頭に手を乗せてクシャッと髪を撫でる。


「?」


 正直どう答えていいか悩んだ。
 自分は一つ処に身を置くことの出来ない体質。
 それ故に、無意識だろうが何となくそういう感情を遠ざけてきたから。


(…ま…知らんわけでもないが…)


「ぎんこ…しらない?」


 無邪気に聞いてくる帝江に自然と口をついで出た答え。


「【大切】とか【大事】とか…ま、概ねそんなところかね」
「たい…せつ?だ…い、じ?」
「…………まぁ…色んな言い方があるんだよ」


 ギンコが帝江の髪をまた撫でて、唇に小さく笑みを浮かべた。
 そんなギンコの顔をしばらく見ていた帝江がやがて理解出来たか出来ていないかは分からないが、頷いてから視線を戻す。
 しばらくの間、時折吹く風の音を聴きながらぼんやりと空と緑の葉に跳ね返る太陽の陽射しを二人で見上げていた。


「…………」


 小さくため息を漏らすとギンコの帝江の頭に乗せていた手に力が籠り、くしゃりと髪を乱した。


「なぁ…帝江」
「?」


 ギンコはジト目で帝江を見下ろしていた。


「……あ…」


 Q.化野に、何された?
 A.着物着せてもらった。痛いのとってもらった。
 聞こうとしたが、聞きたい答えが返ってこないだろうことは予想がついてしまった。


「……戻るか?」


 ギンコが立ち上がると帝江もゆっくりと立ち上がる。
 丁度その時、この森に広がる空間の向こう森から数人の近づいてくる声が聞こえてギンコは視線だけを長やイサザ、ガレキのいる大木がある方向に向ける。
 と…、深い茂みが大きく揺れたかと思ったらやはり大人数の人が森から姿を表した。


「なぁおい、ギンコ」


 呼ばれる声がしてギンコが顔を上げると、長達のところからイサザが駆け寄ってくる。


「ん…、どうした?」


 くん、と腕を引っ張られた。
 帝江を腕の中に収めたイサザがいきなりの事だというのに大人しく抱きしめられている帝江を笑って見降ろしている。


「帝江大丈夫かな。いっそワタリの仲間に入れて一緒に連れてっちゃおうか?」


 話の中に自分の名前が出て来たので、帝江はイサザの腕の中で、ギンコが話せばギンコに、イサザが話せばイサザにと交互に瞳を動かした。


「情報を交換するにはちょうどいいんじゃないかな?ギンコもガレキやガレキの仲間に会うのは初めてなんだろ?」


 今しがた森からやってきた人達はガレキの周りに集まっていて何やら話し込んでいた。
 イサザの話によれば、その人達はガレキが身を寄せている一団というので…今までこの山の様子見をしてくれていたらしい。
 ガレキがギンコや帝江の事を仲間達に話したのか、そいつらの視線が自分等の方に向いている。


「ギンコさん」


 人の輪の中から出てきたガレキもギンコの元へと走ってきた。色素の薄い真っ直ぐな髪が駆ける度に跳ねて、自分に屈託のない笑顔を向けるガレキが何故か妙に印象深く思う。


「…ん?どうかしたか?」


 ギンコの元まできたガレキが今は同じ【卵】を調べるものとしてではなく、ギンコに懐いた子供となって無邪気にギンコの腕にしがみつく。


「僕の仲間が是非お話をって。会ってもらってもいいですか?」
「あぁ、俺からも頼む」


 ギンコとガレキが話をする間、帝江はずっとイサザに身を寄せていた。




















 あれからすっかり日が傾き……イサザは長の元でギンコやガレキ、蟲師達が話し込む様子を遠目に見ながらすっかり自分の腕の中でくつろいでしまっている帝江を甲斐甲斐しく世話をしている。
 胡座の中に座らせている帝江が苦しくないように自分は木の幹に寄り掛かり躰を傾けてあげて、そんなイサザの気遣いに甘え躰を預けきって怠惰を貪っている帝江を見てイサザが笑んだ。
 辺り一面を橙色から茜色に染めていく暮れなずむ夕日。
 木々の間から差し込むその夕日が帝江の髪を薄く暮色に染めている。
 その髪をイサザがニ、三度撫でてみればイサザの方を首だけで振り返る帝江。しかし、イサザが何も言わないので、また前を向いてその身を任せる。


「それにしてもギンコ達話し長いなぁ…」


 まぁ…無理もない。
 イサザは帝江のくせのある髪を撫でる。この華奢な娘の躰の中に、想像もつかないような力が眠っている。
 この山が急に精気に満たされ始めたのも、命の娘を歓迎しているように思えた。
 そういえば、先程集まった奴らが同じような事を言っていた。
 良く言えば、【卵】は枯れた地に豊饒を齎すモノとなりうる。
 しかし逆を言うのなら…豊饒の土地に【卵】が根付いたとしたらそこは熟れ腐れ、蟲達の巣窟の土地となりうる。
 帝江も、一つ所では生きていけない生き物か。
 命と恵み。けれど、それが寄せ付けるのは決して良いものばかりとは限らないということだ。
 皆の話に熱が入るのも当たり前だ。
 だがやっと話しに折り合いが着いたのか、数人が立ち上がり…もちろんギンコも辺りを見回してイサザと帝江の姿を見つけるなりこちらに向かって歩いてくる。
 イサザはギンコに向かって手を上げて、長い話し合いから戻ってきたギンコを労った。


「すまんな、すっかり任せっきりにしちまって…」
「別にいいよ、ギンコもご苦労さん。…で、どうなった?」


 帝江は傍にやってきたギンコをイサザの腕の中で見上げている。


「ワタリはこれから帝江がいた山に向かうことになった、…俺と帝江はとりあえずガレキ達と今夜ここで野宿だ。…よっと…、…いかんせん帝江がまだガレキに診てもらっていないからな…」


 話し合いで決まったこれからの予定を説明しながらギンコは帝江の手を引いて立ち上がらせる。


「そうか、…で…ギンコはその後どうするんだぃ?」


 膝の上に居た帝江が居なくなったのでイサザも立ち上がるが、今までずっと同じ姿勢でいたため体を解そうと大きく伸びをするとその躰のどこかから骨が軋みパキリと鳴る音が聞こえる。
 「いたた…」なんて呟き苦笑するイサザが旅仕度を始めていたワタリの仲間達を見て、それからまだぼうっとしている帝江の頭を撫でた。
 そろそろ日も暮れる、がそれでもワタリ達が出立するのは一刻でも早く山の問題を解決する為だ。
 「そうすれば【卵】のことも今より少しは何かが解るかもしれない」と長もそう言ってくれた。


「ん…、ガレキに帝江を診てもらい次第ここを発つが…ま、なんか分かったら文を送るよ」


 三人で話していれば長の元に集まっていたザンカとチハがイサザを呼ぶ声が聞こえる。


「……俺もあの山で何か分かったら文を送るからさ。俺呼ばれてるし行ってくる。じゃあね、ギンコ、帝江」


 長達の元に向かうイサザが帝江の手を握るが、繋がった手はスルリと離れた。


「…あぁ、…よろしく頼む」


 イサザの背中に声をかけたギンコが不思議そうにイサザを見送る帝江に目を落とす。


「…もうじき日が暮れるな」


 そして空を見上げ夕暮れの底に沈んでいた星を見つけると帝江の手を引いて大木の下へ連れてくると道具箱から掛布を取り出し、それを帝江の躰に覆いかぶせた。