第三章

02

 かん、かん、と甲板を叩く杖の音が鳴る。夜の海の静けさはただでさえその音を大きく広く響かせるくせに、今日ばかりは波の音さえ立てないで、わざとじっと静かにしているような小賢しささえあった。

「おや……今日も一人ですかい? 夜は冷える……部屋に戻った方がいい」
「うん……」

 今日は特に温かな飲み物も持ち合わせておらず、彼を引き止める理由は何もなかった。それでも、曖昧な返事だけを口にして船内に戻るつもりもそれ以上何かいうつもりもなさそうな私の様子を訝しんだのか、彼もその場から動かない。ただ、何かを促すように優しく私の名前を呼ぶ声がして、私はこくりと喉を鳴らした。

「あ……あの、お話があって……」

 その一言はもはや衝動だ。こんなに早く言うつもりもなかったし、今日この場でなんて考えていなかったはずなのに!
 それでも発した言葉は戻らず。私は無意識に見張り台に立つ誰かには聞こえないよう、いつもよりも少しばかり声を絞っていた。それを気まずさや、不安と取ったのか、彼は眉根を寄せながら一歩分私の方へと近づいてきた。

「話、ってのは……?」
「あっ……! ああ、いや、個人的なことで、仕事には関係ないし、深刻な話でもないのですが……」

 そうですか、と彼の眉間の皺が薄くなる。その様子に「心配をかけたのか」とほのかな申し訳なさを感じながら、私は意を決して大きく息を吸い込んだ。大声を出すわけでも、ないのに。

「——あの、私、イッショウさんのこと……」

 バクバクと心臓がうるさい。こんなことならおつるさんのいう通り、ちゃんと練習相手を探すべきだったのかもしれない、と一瞬の後悔が頭をよぎる。——しかしここまで来てしまったのならもう止めることはできないし、止まるつもりもなかった。私なら言える、大丈夫、伝えられる。そう心の中で鼓舞しながら、当然、誰にでもそうするように、私は彼の眼≠正面からまっすぐに見つめて、言葉を声に変えた。

「す……好きです……——大好きです、あなたが……」
「……あァ…………」

 声は震えていたと思う。それでも、言いたかった言葉が口から出てきたことに、私は密かに興奮していた。やった、言えた、できたんだ。その思いばかりが頭をめぐり、その時の私は彼の表情[#「表情」に傍点]なんかはよく見ていなかったのだと思う。
 返事はすぐにはなかった。「ええと……」と言い淀んだ後に、数秒あけてから藤虎は人の良い笑みを浮かべ、こう言った。

「そいつァどうも、ありがてェ言葉だ……あっしもあんたのことは好きですよ」

 ——今度は私が言葉を失い、立ち尽くす。内容だけ聞けばこれは相思相愛の返礼のようだったが……違う。声にある熱量が、私とはとんと違うのだ。
 そう、言うなれば……お鶴さんと、ガープさんと、センゴクさんと、同じ。親愛∞友愛≠出ない、欲の含まれない「好き」。そうじゃないのだ、私のは、そうじゃない……。

「ち……違くて、勘違いしないで欲しいんです、今のは、上官としてとか、人としてって意味じゃなくて……」
「——じゃあ、なんだ……あんたは、そういう意味で、あっしのことが好きだっておっしゃるんで?」
「そ……そう、で、す……——」

 サァ、と身体の芯が冷えるような感覚がする。——それも仕方がないと思えるくらい、今の彼の声には色がなかった。
 照れ、喜び、驚き……それどころか、怒りや悲しみすら読み取れない声だった。何もない、無色の声のまま彼は続ける。
 


「……そいつァ……——困ったなァ……」
 


 ——いつのまにか大きくなった波の音が、ノイズのように私の鼓膜を掻き回していた。

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