第四章

02

 その、数日後だ。

「さ、寒い……」

 任務を終え、船の上。ここからマリンフォードまでは三日ほどかかる。私は震える身体をさすりながら灰色の空を見上げ、はぁ、と白いため息を吐いた。

「ここは冬島の海域ですからね、外は冷えます……どうぞ中へ」

 同じように身体が冷えているだろうに、優しい中佐殿は私をお先にと船内へと促した。正直我慢の限界だった私は彼の厚意に甘んじて、足早に比較的暖かな食堂へと足を向ける。

「お疲れ様です、少将殿」
「あー、えっと……はい、お疲れ様です」

 すれ違うたび敬礼をされる側になってもう長いはずなのに、私はいまだにそういった挨拶へのうまい返しができないままでいた。最近はなんだか家族以外の前では堂々と振る舞うことすら気恥ずかしく、私はそそくさと海兵たちの間を通り抜ける。

「そういえば、イッショウさん……大将藤虎はどこにいらっしゃいますか?」

 唯一、この船の中で、私よりも階級が上である彼の所在を確認する。私の後ろをゆっくりとついてくる中佐殿は、「今のお時間でしたらおそらく食堂に」と苦笑いを浮かべていた。

「先ほど、温かいお蕎麦を召し上がりたいとおっしゃっておりましたので」
「ああ……いいな、私も食べたい」
「ご用意いたします」

 ありがとう、とお礼を言って私はまた自身の手を擦り合わせる。身体は少し温まって来たものの、やはり指の先はまだ冷えて少し感覚がないままだ。
 その様子に気づいたのか、彼は閃いたようにこう続ける。

「そうだ、今日はお風呂を用意するのはどうでしょう、温かい湯船に浸かれば疲れも取れますし……皆も喜びます」
「えっ! うーん、私もそうしたいけど……」

 今日出航したばかりで、良いのかな。と私は少し頭をひねる。それでもそれを言い出した彼もきっとそうしたいのだろうし、水にも燃料にも余裕はある。明日以降はこの海域を抜け、シャワーで事足りるようになることを考えれば、今日くらいはそれもありなのかもしれない。

「わかりました、でもこの船はイッショウさんの船ですから、イッショウさんにも確認してみますね」
「! はい、ぜひ」

 嬉しそうな声で笑う彼に手を振ってから、私は軽い足取りで大将の元へと向かった。正直、彼ではないが私もそうしたくてたまらないのだ。だって今日は特に冷えるし、滞在先でもゆっくりする時間なんてなかったので。

「イッショウさん、今よろしいでしょうか」

 食堂に着くと、一人ぽつりと座っている大きな背中がすぐに目に入る。周りには特に誰もおらず、私はわざと彼に聴こえるよう足音を鳴らしながら彼に近づいた。そうして、彼の真向かいに立ってから、敬礼のあとに声をかける。
 その頃にはもう彼も目の前にいるのが私であることは理解しているので、名前や目的を尋ねる間もなく「どうぞ、お掛けになってくだせえ」と顎を少し持ち上げ着席を促した。そこでようやく私も腕を下ろし、失礼します、とさらに一声掛けて椅子に腰掛ける……形式ばった堅苦しさを感じる人もいるだろうが、そうする方が私にとってはずっと落ち着いた、そのように教えられていたし、そのように生きてきたので、してもしなくても許されるのであれば、する方がよっぽど安心するのだ。

 まぁ、今はそんなことはさておいて。

「少しご相談がありまして」

 私が席についたのを見計らい、今日の食事担当が私の前にも湯気の立つかけそばを運んできた。それに箸をつけるより先に、私は先ほどの中佐との話を彼に持ちかける。「自分が」ではなく「みんなも」という事を念押しするように言い包めると、彼はすんなりと首を縦に振ってくれた。

「今夜は冷える、そうするのがよさそうだ」
「よかった……、ええと、じゃあイッショウさんの予定に合わせてご用意しますので、何か希望があれば言ってください」
「ああ、いや……あんたの都合に合わせてくれていい、先に入っておくんなせェ」
「は……」

 当然、一番偉い者から利用するものだと考えていた私は、間の抜けた声を漏らし一瞬思考を止める。すぐにハッと気を取り戻し、いやいや、と両手を左右に振ってみるが、彼はなんともなしに蕎麦を啜り続けていた。

「まさか、そんな、上官であるあなたを差し置いて」
「気にしねェでくだせぇ……あれだ、今日は特に男所帯でしょう、その合間を見計らうのも面倒だ……それに、あっしが良いと言えば他に文句を言う輩もいねェと存じやす」
「それは、そうですけど……」

 彼がそういうのにも理由はある。男所帯……と言われたが、実際、いまこの船に乗っている女性は私だけ。そもそも海軍に女性が少ないのもあり、風呂場を分けるなんて発想は私たちにも船大工にもなかった。つまりは、同じ風呂釜を使うわけなので、鉢合わせなどしないよう明確に時間を分ける必要がある。常時は私以外にも二、三人ほどは同性がいるため、まとまって時間を取っており……。もっとも、おつるさんの隊にいた時は、女性しかいなかったのでそれも必要なかったのだが。

(私、ひとり……)

 ……それに際して、実は少し、心配なことが。けれどそれを口にするのは——あくまで個人的な理由で——憚られ、代わりに私は彼に今日のお願い≠することにした。

「あの、イッショウさん——お風呂、一緒に入ってくれませんか」
「………………はァ、お断りいたしやす」

 でしょうね。

「そこをなんとか」
「嫌です」
「ど……どうしてもですか」
「どうしてもでさァ……、さて、今ので今日の三度は終わりやしたね」

 ちょうど食事も終えた彼は、ご馳走様です、と言いながら席を立つ。私は未練がましくその横顔を目で追いながら「これは質問なんですが」と恐る恐る声をかけた。

「どうしてお断りに? 私のことをお嫌いでしょうか」
「いいや、そういうわけでもねェんですが……気を持たせるのも、悪いでしょう——なんせ、あっしはあんたのこと、そういう目では見れねェんで……」

 そうして振り向くこともなく彼は立ち去っていく。わかりきっていた返答に返す言葉もなく、私は一人、ぬるくなった蕎麦に手をつけた。

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