第四章

03

 波のない夜だった。風は冷たく、音はない。それでも、吐く息が白いかどうか、頬に当たる滴が雨かかつて雪であったものなのか、目の見えない自分にはわからないことだった。

 流石にこの寒さで外に出ているのは身体も辛い。船内に戻ろうと扉をくぐって少ししたところ、扉が開いているらしい一室から、何やら話声が聴こえ、足を止めた。

「ああ、イッショウさん、お疲れ様です」
「ええ……お邪魔でしたかい?」

 いいえ、と数人の海兵たちは快く返事をし、ほどなくして自分が来るまでしていたであろう話へと戻る。その中によく聞くあの子の名前が上がっていたもので、自分は少しだけ彼らの話へと耳をそばだてた。

「それで、なんだ、あの子……少将殿がなんだって?」
「なんだもなにも、気づいただろ? 最近あの子、変わったなぁって」
「ああ! 確かに……」

 変わった、というのは……まぁ、たしかに。人のいない時間を選んでいるとはいえ、毎日繰り返されているあの愛情表現≠ニやらは、流石に隠し切れるものでもないのだろう。いやはや、迷惑や不快なものでもないがしかし、このように噂話として囁かれるというのは、若いお嬢さんには酷なこと——

「そうそう、ほら——あの化粧、やめたんだもんなぁ」
「……!」

 と、思いきや、どうやら自分には預かり知らぬところの話らしい。早合点に少々熱くなる頬を手で隠しながら、そのまま彼らの話にまた注意を払う。

「似合ってなくはないんだけどなぁ……ほら、折角可愛い顔してるのに、無理に大人っぽい感じにしようとして……」
「まぁ、悪くはなかったけど」
「そうそう、でも、肌に悪いって聞いてやめたらしい……見た目より、肌触りがどうとかなんとか言って」
「海風で髪が痛むー、とかも言ってたなぁ、ははは、なんだ、ついに好きなやつでもできたのかなぁ」

 最後の言葉にドキリとするも、概ね悪意も邪な気持ちもない彼らの会話にどこかほっと胸を撫で下ろした。不和でないのなら結構、と席を外そうとした時、「寂しいなぁ」というつぶやきが聞こえ、思わず振り返る。

「寂しい……ですかい?」
「えっ? あ……ええ、まぁ……俺たちにとっては、歳の離れた妹みたいなもんですから」
「おいおい、お前の妹じゃ離れすぎだ! 良くて親戚の子供みたいなもんだろう」
「う、うるせえなぁ……」

 ははは、と笑う声には好意に似た優しさがあった、言葉に嘘はないのだろう。真実、心の底からあの子の幸福を祈る男たちの声には、言うほどの寂しさは感じられず、慈しむような響きがあった。

「でもどうします、イッショウさん。……あの子が、好きな人と同じ隊になりたいなんて言い出したら」

 再び、ドキリ、とする。実際にはそんなことは起こるわけもなく、あるとすれば、自分と同じが良い……とわがままを言いたいのを必死に堪え、別任務であることを渋々受け入れる彼女の姿だけである。
 しかしそのようなことを告げるわけにもいかず、自分は「そうですねェ……」と考えるように口元を手で覆い隠した。そうして想像してみる。彼女が自分以外の男を好きになって、その男のためにこの隊を離れることがあったなら——

「……それは——」
「ご歓談中失礼します!」

 そんな与太話を吹き飛ばすように、一人の海兵が声を張り上げた。どうやら今しがたバタバタと走ってやってきた男の声らしく、少し焦った様子で「少将殿を知りませんか」と上がった息を整えるまもなく尋ねてくる。

「さぁ……? どうかしたんですかい」
「いえ、本部から少将へ連絡があったので探しているのですが……どこにも見当たらず、大将殿であればご存知かと」

 流石に部下の行動を逐一記憶してはいないわけだが。だが今日に限っては心当たりがあり、自分はまたこう返答する。

「あァ、なら風呂にでも入ってるんでしょう、そういや、そんな時間だ……」

 しかし、それにも男は「いいえ」と困惑した声で返す。何故そう言い切れるのか、と首を傾げると、彼は言いづらそうに続けた。

「その……少将殿が風呂場に向かったのは随分と前のことですから……てっきり、大将殿も、すでに終えられた後かと——違うのですか?」
「……? いや——」
 
 ——どうしてもですか。
 
 まさか、と血の気が引く。いまだに事態を飲み込めていないままの部下たちを文字通り押しのけて、暗闇の中通りなれた船内を早足で駆けていく。——何故気づいてやれなかったのか、と悔やみながら、そして、何故言わなかったのか、と憤りながら。

(ただでさえ小柄・・なんだ、能力者が・・・・一人で湯に浸かっていて、もしも≠ェないなんて言い切れねぇ——!)

 きっと普段なら「誰か」と一緒にいたのだ。しかし今は誰にも頼るがなく、それが、あのらしくもない三度のお願い≠フ理由だったのだろう。

「失礼しやす、どなたかいらっしゃいやすか……!」

 思い過ごしであれば良い、と、浴室の扉を叩きながら声をかけた。返事はない。しかし中からは確かに人の気配が、する。

「入っているのが誰かは存じやせんが、開けやすよ……!」

 礼を欠く行為であることは承知の上で、自分の悪い想像が当たっているのだと思うといてもたってもいられなかった。もし勘違いであれば後で謝れば良い、そう思って中へ立ち入り、すぐに浴槽へと駆け寄る。

「——失礼しやす」

 膝をフチにぶつけながら、杖を放り出し両手を湯の中に突き入れた。ざぶ、ざぶ、と探るように水をかき回せば、指先が柔らかく温かなものに触れ、確信と共にそれを抱き上げる。

 ——あの子だ。

「すぐに救護班を……!」

 身体はまだ温かい。心臓はまだ動いている。他の海兵が差し出したタオルを受け取り、その身体を包みながら部屋の外へそう叫んだ。幸い人はすぐに来て、彼女はそのまま医務室へと連れて行かれた。少し溺れただけ……きっとすぐに意識は取り戻すだろうと話す海兵たちの声を耳にして、ようやくほっと息を吐く。

(ああ……それにしたって、あれは……)

 先ほどまで抱いていたその身体を思い出すと——ほんの少しだけ、ぞっとした。腕の中にすっぽりと収まってしまうその身体は、自分が思っていたよりもずっと小さく——軽い。あの肩に、海軍将校≠ニいう責任が乗っているのだと思うと、なんとも堪らない気分だった。

(……これがどれだけ失礼なことか、わかっちゃあいるが……)

 それでも、考えずにはいられない。生活一つ、ままならないような小さな子供・・・・・が、どうして、戦いの中に身を投じなければならないのか。
 
 そして——そんな幼子相手に、何を想うことがあるというのか、とも。
 
 夜風が濡れた服に吹き付けて、この夜は特に冷えるようだった。冷えた身体を温める気分にもならず、その日はただ、その寒さの中で、あの娘が自分を呼ぶ声ばかりを思い返していた。
 

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