第五章

01

 この頃はもう、自分はどうにかしてしまったのだと思えて仕方がなかった。なにせ——砲撃の爆音の中、戦闘の喧騒、飛び交う怒号の中、ひいては雑踏の中——いつの間にか、たった一人が自分を呼ぶその声が聞こえてくる瞬間を、今か今かと待ち侘びることが、以前に比べてずっと増えているからだ。その自覚は充分にあったし、理由だって、なんとなくは思い当たっていた。ただ、それを認めるには少し、歳を重ねすぎているというだけで……。

 コツコツ、コツ、コツコツ……。

 久方ぶりの休暇で、昼食の店を探してマリンフォードの街をふらりと歩く。一人で出歩くのもまた久しくなかったことなので、こういう時にこそ気になっていた店にでも、と慣れない道へ足を向けていた。

「ちょいとそこの方……すいやせん、店を探してるんですがね……」
「え……っ、あっ、そ、そのお店でしたら、そこの角を——」

 戸惑うような声の後ろから、また別の声がヒソヒソと何かを話しているのが聞こえる。「あれって」「ああ、海軍大将の」「珍しい」——それらの声に悪意がないのは明白だったが、やはり注目を浴びるのは居心地が悪い。いまだに慣れるものでもなかったが……まぁ、しかし、こういう時ばかりは少しだけ都合が良かった。

「ありがとうございやす」

 道を教わり、ぺこりと頭を下げる。コツコツとまた杖を鳴らしながら、ゆっくり自分が歩き出すと、道を開けるように群衆が割れるのがよくわかった。こればかりは、顔が割れているのも悪くないと思えるところだ。

(……いつもなら、彼女がいて……そんなことを気にする必要もねェんですが)

 ——こっちです。

 無邪気にそう笑いながら、彼女はよく肩に手を乗せるよう促した。エスコートしますから、と得意げに言う彼女に「必要ない」と断ったのは、初めの二、三回だけだったと思う。正確に言えば、それで諦めたのだ——自分が。

「私がそうしたいのです」

 貴方にそんなものが必要ないのはわかっているのですが、どうしても、何かしたいのです。……そう言われればそれ以上に断るのも申し訳なく、終いにはお願い≠フ一環であれば手助けさせていただけますか? とまで聞かれてしまい、それ以降は甘んじて彼女の手を借りることにしていた。
 無論、今日のように一人で出歩くことに支障はない。……支障はない、が、手助けのある快適さに慣れてしまえば、ほんの少しの不便さを感じるのも仕方のないことだろう。

「……このままじゃあ、ダメにされちまいそうですねェ……」

 ははは、と誰に言うでもなく笑い、またコツコツと杖を鳴らす。目的地は決して遠くはなかったが、普段よりずっとゆったりとしたこの足取りでは、まだ少しだけかかりそうだった。

(階段……)

 ——段差がありますから、気をつけてくださいね。

(大通り……)

 ——人が多いので、離れないようにしましょう。

(……ああ、飛び出した立て看板……か?)

 ——障害物がありますので、こちらに……。

 それらを避けることは難しいことではなかった。見えない生活にはすっかり慣れているし、いざとなれば覇気でもなんでも使えば良い。
 そんなことより——何かあるたびに、彼女の声が聴こえるような気がしてしまう方が問題だ。それがあまりに重症で、自分が自分で嫌になる。彼女の存在が自分の生活の一部になってしまっていることを、離れてみてようやく自覚したのだ。……もし初めからこれが彼女の狙いであるなら、純粋そうな声色をしている割に、かなりの策士である。

(確か……一週間後には戻ってくるんでしたかね。うっかり・・・・の代償とはいえ、よくもまぁ、おとなしく一ヶ月の別任務を快諾したもんだ……)

 あの入浴騒ぎの後「そんなくだらんことで騒ぎを起こす余裕があるんなら、仕事をくれてやるわい」というサカズキ元帥の一声で、彼女は自分の隊を離れ自ら兵を率いて別任務へと駆り出されていた。てっきり、自分と別の任務に行くのは嫌だと駄々をこねるのではと心配していたのだが、そんなこともなく……ただ、やはり不服ではあるのか、沈んだ声で「しょうちしました」と弱々しく返事をしていたのを覚えている。

 ——それから、三週間。彼女がどうしているかはわからないが、こちらはこの通り、彼女のことばかり想う日々を過ごしていた。

(こんなことァ恥ずかしくてとても……口が裂けても……誰にも、言えやしねェなぁ……)

 この歳になって、こんなことを考えているなんて。
 一人頬が赤くなっていやしないかと不安になりながら、ほんの少し歩く速度を上げる。そこの角を曲がれば目的地だ——と言うところで、気もそぞろだったのだろう、誰かと正面からぶつかってしまった。

「きゃ、……あっ」
「ああ、すいやせん……! お怪我は——」

 ——聞き覚えのある悲鳴に言葉が詰まる。もしかして……? と、相手の様子を伺うように首を傾げると、やはり聞き慣れた高音が、「イッショウさん」と自分の名前を呼ぶ。

「——少将さん? あんた、なんでここに」
「え……ええと——お昼を食べに?」

 二十日ほどぶりに聴くその声は不自然にひっくり返り、慣れない嘘で上擦っていることは明白だった。本当ですかい? と言葉にはせずじっとただ黙って彼女の言葉の続きを待っていると、「ここのそば、美味しいってきいたから」と勝手に何か言い訳のようなものを口にする。

「だから、イッショウさんもいるかなって……、じゃない、ええと、今度誘おうかなって、下見に……?」
「……——」
「……あの……すいません、今日の一度目のお願い——偶然ということにしてもらえませんか」

 久しぶりに会った彼女の、言葉尻にかけてだんだんと声が小さくなるその様子に、堪えきれずついに自分は吹き出してしまった。
 

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