第五章

02

 冷えた蕎麦を二つ、と申し伝えると、気の良い明るい返事の後に軽い足音がぱたぱたと店の奥へ引っ込んでいった。昼時のためか店内は程よく混んでおり、近くの席の会話の内容も気にしなければ聞き取れないくらいには音の多い場所だった。その中で一際よく通る彼女の声が自分の名を呼び、自分はそれに顔を上げて応える。

「あの……そちらは変わりないですか」
「ええ、特に……、いや、そういえば、街の被害が増えたと、小言を言われるようにはなりやしたね」
「わ、わぁ……はは……、また目測で落としてるんですか、隕石……」
「はは、ご安心なすって……市民に被害は出しちゃいねェ」
「そういう問題でもないんですけど」

 苦笑する彼女の声からは若干の疲れが見える、やはり、慣れない任務続きで疲労しているのだろう。

「……本部でも中々会いやせんでしたね、忙しいんで?」
「えぇ、まぁ……、今日もこの後、まだやることが残っているので……」

 はぁ……と深いため息を吐き、彼女はらしくもなく沈んだ様子でそう続けた。……さて、どうしたものか。自分としては、元気づけられるのなら元気づけてやりたいものなのだが、何をどうしたらこの少女が喜ぶのか、情けないことにとんと思いつかない。正直、普段の様子からは、何をしても喜びそうなところではあったが……。

 ——今日の一度目のお願い=c…。

「ああ、そうだ——どうせ、今日もこの後は別行動……残り二回のお願い≠焉A使い切ったら、どうです?」
「え……」

 それで少しでもあんたが喜んでくれるってんなら……とは口にしなかった。しかし意図は伝わっているのだろう、彼女は少し声を上擦らせながら「ええと、それじゃあ、ううん……」となにかもじもじと考えを巡らせているようだった。

「じゃ、じゃあ——今日の夜とか、お部屋にお邪魔しても……?」
「ダメです」
「あっ……、や、やっぱりダメですか……」

 励ましたいとはいえそれはそれ、これはこれだ。再び黙り込んだ彼女が何を言い出すか、耳を澄ませてじっと待つ。できれば、叶えてやれる望みならいいが、と、自分勝手なことを祈りながら。

「じゃあ……」

 だから——頭を。そう聞こえた時、内心ほっとした。……それと同じくらい、ゾッとする。頭を撫でるくらいなら、その気が無くてもおかしくない。勘違いさせることも、する・・こともなく、ただ自分が何かをしてやれたという満足感だけを得ることができるだろう——と、そう考えている自分を、嫌というほど自覚したからだ。

(……随分と、浅ましい……——)

 嫌な大人になったものだ、と余計なことを考えて……そこでようやく、彼女が言葉の続きを口にしないことに気がついた。できるだけ平静を装い「なんですかい」と聴こえなかったような素振りで彼女に問い返すと、一呼吸分の沈黙の後、微かに笑うような……いや、何かを諦めるような、そんな息遣いが耳につく。

「いいえ——その……名前を、呼んでもらえますか?」
「……——」

 良い、と、直ぐに答えは口にできなかった。覇気に頼らずとも察しの良い彼女のことだ、もしかしたら、自分のその卑怯な考えに気づいて、口にする願いを変えたのかもしれない。自分がそうさせてしまったのか、と思うと、情けないことに、どんな言葉も声にはならなかった。

「……ええ、よござんす」

 ようやく返せたその返事の後、出来うる限りの気持ちを込めて、彼女の名を呼んだ。それを聞いた彼女が照れたように笑って礼を口にした時、一文字でも二文字でも……もう少し彼女の名前が長ければ、もっと良かったのにとまた手前勝手なことを考える。

(頭くらい、頼まれなくたって、撫でてやれれば——)

 彼女が楽しそうに話し出した近況を聞きながら、空のままの左手を握りしめた。彼女の声に憂いはない、悲しみもない、それなのに——何故か自分だけが、どこか寂しいような気持ちで、仕方がなかった。
 

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