第五章

03

「そういや、今まで聞きそびれてたんですが……あんた、なんだってあっしの事が好きなんだ」
「え」

 二人きりの船室に、カコン、と彼女の持っていたであろうカップが床に落ちる音が響く。慌てて、大丈夫か、と声をかければ、彼女は「大丈夫です、大丈夫です」と、早口でそう応えて、空だったらしいそれを拾い上げた。

「突然、どうして」

 上擦った声が遠い。距離を取られた……ということでもなさそうなので、俯いたままで話しているのだろう。何故今になって……と問われれば「なんとなく」と返すのも都合が悪く、頬を掻きながら何故知りたいのか≠ニいう疑問への答えを返すため、言葉を続けた。

「いやァ……歳も離れていやすし、なにより、こんな、めくら相手に……本気になる理由が気になりやす。——もっといい相手は、他にいるでしょう」

 そこまで口にすると、彼女が、は、と微かに息を吐く音がした。癖なのだろう、言葉を探す時、答えに迷う時、そのような音を漏らす事は珍しく無かった。
 だから、彼女が応えるまでじっと待つ。催促もせず、もう良いと遮ることもせず、ただ黙って……そうして、ようやく彼女が「私は……」と話し始めた声を、聞き漏らすまいと耳をすました。
 
「私……助けてもらった、から……——貴方に」

 はて、と思わず首を傾げる。なにせ、とんと覚えが無かった。

(それこそ、逆、ならまだしも……)

 日常生活において目が見えないということにはとっくに慣れたつもりであったが、やはり、どうしたって支障≠ヘでる。そんな時の、彼女のさり気ない気遣いに助けられている自覚はあった。彼女が隣にいると、人にぶつかることも、うっかりで飲み物を床に落とすこともない。杖を手に取ろうと手を伸ばせば、「こっちです」とそっと腕を引かれることもあった。文字も見えない自分に代わり、書類仕事を請け負って貰うことはほとんどだ。

 ——助けられてばかりだ。

 そんな彼女に自分が何をできたというのか。本当に心当たりのようなものはなく、数秒考え込むように黙った時だった。——小さく、鼻を啜るような音を耳にしたのは。

「……んん、もしかして……泣いてんですかい……?」

 こいつァ、困ったな……——
 思わず腰を浮かし、両の手が宙を彷徨う。彼女に手を伸ばしたいのに、そうして良いのか、でなければどうしたら良いのかもわからず、オロオロするばかりの自分は、彼女からどう見えているだろう。
 一歩踏み出すこともできず右往左往していると、彼女は少しばかり微笑んで、本当に小さく笑い声を漏らした。それで何か落ち着いたのか、いつものような凛とした声で、彼女が「あの日も」と静かに話し始める。

「……あの日も、私、泣くことしかできなくて……言葉もうまく出なくて、だけど、イッショウさんが『そのままでいい』って涙を拭ってくれたから……」

 ——嗚呼。

(あの時の……——)

 初めて彼女の涙を聴いた日。不思議なことに、まだなんとも思っていなかったはずのその日のことを自分もよく覚えていた。歳の割にしっかりした人だと、ずっと考えていて……その日、年相応の——それにしたって大人びてはいるが——不安や感情の吐露を聞いて、ほんの少し安心した。彼女はまだ成長途中の若者であり、何かを諦めた末の「大人それ」らしい素振りではなかったのだと……そのことを、忘れられずにいる。

 ——なにか、大切なものが確かにあった気がしたんですけど。
 ——いつのまにか、無くしてしまったみたいで……

 何があったかまでは、知らない。それでも、そう悩みながらも、それを取り戻したいと願う姿は、目には見えずとも美しかった。背筋の伸びた、芯のある正義≠持てる人だと思うのだ。そんな人が掲げるものなら、なんだって素晴らしいと思ったのだ。

 だから、「そのままでいい」と——

(違うな……あっしが、あんたにはそうであって欲しいと望んでんだ)

 自分のようこんなふうにはなって欲しくないと、自分が……。

「——イッショウさんが、私の心を、『綺麗だ』と言ってくれたから……」

 ああ、そうだ。綺麗だとも。例え一点の汚れがあっても、それから目を逸らさない、全て抱えたままで進もうとするその心は綺麗だった。だから、失って欲しくないと……。

「ええ……言いやしたね、覚えていまさァ……」
「私……嬉しくて、認めてもらえたみたいで、誇らしくて……でも……だって、イッショウさんの方が、ずっと、ずっと、綺麗なをしているのに……」
 
 ——何を言う。あんたの方が、あっしより、よっぽど……——
 
 泣くようなことじゃないのに、思い出すと、どうしてか涙が出るんです……と、恥じらい混じりにしゃくりあげる声すら鈴のようだった。触れる手も頬も、いつも陽だまりの花のように暖かく、髪はすく程に、もう一度、とこちらが懇願したくなるほどに柔らかい。「イッショウさん貴方が好きだ」と名前を呼ばれるたび、その純粋さが眩しくて、見えもしない瞳を細めそうにもなる。

 ——もうあっしには見ることも敵わないが、きっと、あんたの眼も、姿も、その心に似合うものなんでしょうなァ……。

 布の擦れる音がする。きっとまた乱暴に涙を拭っているのだろうと思うと堪えられず、右の手をそっと彼女の頬へ伸ばした。指先がぬるい雫に触れて、ゆっくり、その跡を辿るように腕を持ち上げ、小さな顔をできるだけ優しく、優しく手で包み込む。

「あ、の……」

 鼓膜を震わせる声と、手のひらに伝わる振動が、彼女の困惑を伝えている。今日のお願いは、まだしていないのに……と呟かれた言葉に、自分は返せる理由を一つしか持っていなかった。
 
 ——なんだ、あっしだって、とっくに……。
 
「……イッショウさん?」
「ああ——いや、なんだ……人を慰めるために、そうすることくらいありましょうや……」

 言葉には、しない。まだ、伝えられない。こんなにも自分を想ってくれているのに、「自分もそうだ」なんて言葉だけで、何を返せるというのだろう。

「…………それって……私が子供だから?」
「あ、いやァ……」

 そういうことではなかったけれど。と言葉を濁す自分に、彼女は「どうして曖昧に返すのですか」とむくれた声を上げていた。……どうやら、涙はもう止まっているらしい。

「……そういう面も、なくはないが……あんた、そう言われるのは嫌いでしょう」
「!! ……ふふ! そうですね、嫌い——でした」

 過去形に首を傾げる。そんな自分の手に頬を擦り付けながら、先ほどまで泣いていたとは思えないほど明るい声で彼女は続けた。

「嫌いでしたけど……最近はそうでもないです」
「そいつァ……また、何故ですかい」
「だって、撫でてもらうの、好きだから……ふふ、子供扱いでも別にいいんです。だって、きっとこれって、私のこと嫌いだったらしないだろうから……」

 だからいいんです、嬉しいから。そう言って彼女は満足気に喉を鳴らす。……今度はネコみたいだといえば、また、機嫌を悪くさせてしまうだろうか。

「……なんだ、最近は、お願い≠ナも頼んでこないから……てっきり、嫌になったのかと」
「え? ……あははっ、そんなわけないじゃないですか……」

 手のひらに伝わる熱が上がる。

「でも……そうじゃなくてもいいなって思って」

 何故? 再度そう尋ねると、彼女は心底嬉ししそうにこう言った。

「だって——好きってひとつじゃないから」

 きゅう、と彼女の小さな手が、自分の手の甲に添えられる。

「そういう意味で、好きですけど……でも、そうじゃなくても、好きだから……だから、もっと、して欲しいことがあるって……離れてる間に、そう思ったんです」

 ああ、また一歩先を行かれちまったかなァ——そんなことを考えながら、「して欲しいこと?」と彼女の言葉を繰り返した。少女は小さく頷いて、恥じらうように頬を蒸気させ、歌うように言葉を紡ぎ出す。

「……名前を、呼んでください、私もたくさん呼びますから。——呼ばせてもらえますか?」

 今日のお願いは、それひとつで。——そう言って微笑む声を聞いて、断れるだけの理由言い訳は、もう今の自分にはなかった。
 
 

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