第二章

04

 天候は晴れ、のち曇り。薄暗い空の下、彼がそばを啜る音だけが船の上で響いていた。

「あの……さっきの……」
「ん」

 ずず、という音の合間に、鼻を鳴らすような彼の合いの手が入る。全ての海賊を今度こそ捕縛し終え、本部へと連行する道中、今だ、今だと、ずっと言えなかった五文字が喉のすぐそこまででかかっているにも関わらず、私は彼の方を見ることもせず言うべき言葉を別の話題にすり替えた。

「さっきの……スモーカーさんと、話してたこと……」

 一拍置いて、彼が「ああ……」と相槌を打つ。

「あれ、本気、なんですか? 本当に、王下七武海を……」
「ええ、撤廃したい、と考えていやす」

 事も無さげにそう言って、また彼は蕎麦に箸をつけた。豪胆なのか無謀なのか……私なんかはその話を聞いた時、あまりのことに返す言葉も見つからなかった。そんなこと考えた事もなかったし、思いついたとして、実行しようなんて事、私じゃあ絶対に考えられない。

「……すごいですね」

 素直にそう思った。それと同じだけ、自分のことが嫌にもなった。あんなにドフラミンゴのことが憎かったのに、いつの間にか「仕方がない」と諦めて、首輪をかけられた犬のように従順であり続けた。その鎖の先が、どこに繋がってるかも考えないまま。海軍という組織の一員である以上、ある程度の協調性が——なんて、それらしい理由も引っ提げて……私は、自分が正しいと思えないものから目を背け続けていた。それじゃあ、正義≠ネんてものを見失ってしまうのも、仕方がなかったのかも知れない。

「そうですかい……? ——あっしからすりゃァ、あんたも充分、すごいと思いやすが」

 またまた、ご冗談を。そう言った私の顔は引き攣っていただろう、彼には見えていないはずだが、それでも固い声色だけは伝わるのか、空になった器を横に避けながら彼はにこりと笑って見せた。

「先の件……市民の方々に危険があるとわかって、あれだけ迅速に動ける覚悟と瞬発力、なかなかあるもんじゃねェ」
「そ……それは……、海兵として、当然のことで……」
「当然のことを、当然のようにする……そいつァあんたが思うより、難しいことだ……」
「……!」

 励まして、くれているのだろう……。彼には私の事情など知り得ない、私が今何を思い、何を恥じ、何を後悔しているのかなど分かりはしないはずなのに。

「か、家族を……」

 ——震える声を絞り出す。

「家族を……母親を、子供の目の前で死なせるなんて、耐えられない。私も……両親を海賊に殺されたから……」

 古くからの海兵なら誰もがみんな知っていた。私の両親のこと、私のこと、それがなんという海賊のせいなのかも。……だから、自分からこの話をするのは、これが生まれて初めてだった。
 脳裏に蘇る小さな箱に収まってしまった母の姿に、思わず目頭が熱くなる。忘れていたはずの悲しみと諦めていたはずの怒りが、私の身体と喉を震わせる。

「家族は……一緒にいるべきです、お互いがそれを望んで、そうできる環境であるのなら……もし、世界がそれを許さないなら、世界の方が、変わらなくちゃ、おかしい、です……なのに……」

 言葉と共に頬を雫が流れ落ちる。嗚呼、情けない。きっと今私はひどい顔をしているのだろう。けれど目の前の男にはそれが見えてはいないのだと思えば、そんなことはもうどうでも良かった。ただ、ただ——悔しくて、言葉に詰まって、喉が焼ける様に熱かった。

「……あんた、どこまでも真面目な人なんだねェ」

 ——違う、私は、情けないばかりで……。反論の代わりにまたぼろぼろと溢れた涙に、彼の指がそっと触れた。拭おうとしてくれているのだろう、顔の形を確かめるみたいに、頬から、ゆっくりと目尻へ……間違えても傷つけないように優しく、丁寧に。その仕草があまりにも意外で私は息を呑んでしまう。だって、てっきり粗雑な人なのだと思い込んでいたから。

「この涙も、あんたの真っ直ぐさの証でしょう、あっしは笑いやせんよ」
「ほ、褒められるようなこと、なにも……私、守れないものの方が、多くて」
「守れたじゃあないですか」
「違う、違います……イッショウさんに、イッショウさんが、居たから」
「あっしが助けたのはあんた一人だ。あの親子を助けたのは……間違いなくあんた自身でござんす」

 とめどなく溢れる涙が彼の指を濡らしていく。それがまた申し訳なくて、押し返そうと触れたその手の温かさに、私はさらに嗚咽を漏らした。

「ど、どうしても、助けたかった、から……どうしても……どうして、か、わからない、けど……」
 


「……じゃあ、あんたにとって特別なんだろうね、家族てのァ……」
 


 ——家族が、特別。

「…………そう、かも……」

 海兵を目指したきっかけは、母の死だった。けれど、ここまで続けていたのは、きっと——センゴクさんが、そこにいたから。
 彼の掲げる正義の在り方が好きだった。彼の温かな手のひらが好きで、大切だった。今度こそそんな存在と場所を守りたいと、自分も、誰も彼も、この温もりを奪われるべきではないと——
 ——ああ、それを守ることこそ、私が目指していたものだったのかも知れない。

「こんなのでも、いいんでしょうか」

 決して大きいとは言えない、目標だ。世界なんて見えないし、私は自分の手の届く範囲のものしか救えない。その小さく狭い、限られた人たち——家族を、守りたいと、自分と、みんなの、大切な人たちを守りたいと……そんなことで、良いのだろうか。

「正義ってのァ……決まった形もござんせん。……そのままでいい。あんたが守りたいモンがそれなら、それでいいと思いやす」

 涙を拭っていたはずの彼の手が、いつのまにか私の頭を静かに撫でていた。——そうだ、私はこうやって、センゴクさんに頭を撫でられるのが大好きで……けれど目の前の男の手つきは辿々しくぎこちない、どこか、父親の様な彼とは違っていて——

(でも……同じくらい、温かい……)

 不思議と、私はその違いが嫌ではなかった。
 ——何故なのかは、私自身が一番よく理解していた。

「……あの、イッショウさん。……すいません、ずっと言いそびれてしまっていたんですけど……その、助けていただいて、ありがとうございました…………それと、元気づけて、くれて」
「はは……やっぱあんた、真面目だねェ」

 言えずにいたその言葉をここにきてようやく声に出し、私は決まりの悪さに身をよじる。それを嫌がるそぶりに取ったのか、彼は「ごめんなさいよ」と眉尻を下げながら、私を撫でていたその手を下ろした。

「……まあ、なんだ……実のところ、あんたの為じゃなく、あっしがそうしたかっただけでしてね——あんたみたいな綺麗な心を持った人が、折れちまうのは勿体無い……」
「……!」

 綺麗だなんて、そんなの。

(あなたの、ほうが……)

 そう返したくて口を開き、声にはならず、はく、とただただ口を開閉させる。昨日までなら言えていたのに、言えたはずなのに、今はどんな些細な言葉ですら口に出すのが恐ろしかった。どんな言葉であれば私のこの煩雑な感情が伝わるのかもわからなかった。こんなことは、生まれてからこれまで、初めてのことだった。

「……それに——」

 そんな私のこころ・・・になどには気が付かず、彼は気恥ずかしそうに自身の頭をかく。およそ海軍大将バケモノなんかとは思えないような、うだつの上がらない気の弱そうな男のような表情をして、彼は頬を染めながらこう続けた。
 
「それに……あんたは声も、綺麗だから……もう少し、聴いていたい」
 
 ——多分、他意なんてなかったのだろう。言葉のまま、本当にただそのままの意味しかそこにはない。それなのに——
 多分、それが最後の一打だったのかも。

「——わ、わた……私も……、その……い、イッショウさん、のこと、イッショウさんの、あの……一緒がいいです……に、任務……目を、離したくない、から」

 ようやく絞り出した声はまともな言葉にもなっていなかった。変に上擦ってるし、せっかく綺麗だと言われた声も首を絞められた九官鳥みたいな滑稽な音となり私の喉から漏れ出ている。それがあまりにも恥ずかしくて、だんだん早口になっていくのも情けない。

「あちゃあ——あっしはそんなに頼りねェか」

 そんな私の様子をどう取ったのか、彼は苦笑と共にそう言った。

「いえ、そ、そうじゃなくて……いや、あの……すいません……ちゃんと、改めて、つ、伝えます、ので……」

 へェ、と間の抜けた返事を聴きながら、私は熱い頬を隠すように俯いた。彼には見えていないとわかってはいたけれど……それでも私自身が、その顔を海にも空にも、見られたくはなかったのだ。

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