くろこ

目を覚ましたのは額を当てていた足を動かされ蹴られたような格好になったからではなく、奇声に近い悲鳴が響き渡ったせいだった。
 飛び起きた青峰は、目の前に置かれた余りにも非現実な光景に、一瞬動くことを忘れた。

「青峰! 黒子を引っ張るのだよ!!」

 裏返った緑間の声に我に返り、勢いを付けて立ち上がる。目の前に散らばっていた四角く千切られた紙を無意識に握り込み、砂で目潰しをするようなつもりで『ソレ』の目の前にぶち撒けた。
 キヒィ、という音とも声ともつかない鳴き声が上がり『ソレ』は一瞬体を引いたが、両者の間に舞った紙きれは余りにも呆気なく、見る見る間に黒く変色し床に落ちていく。

「振り向かずに走れ!!!」
「わあってるよ!!!」

 手が離れた隙に掬い上げた黒子の体を出来るだけ高く、肩の位置で担ぎ上げて、青峰は全力で教室の入口へと走った。
 内蔵に衝撃が行ってしまう体勢だが、這いずる『アレ』が手を伸ばそうとしているのは間違いなく黒子だ。仕方がない。
 必死の力で肩口にしがみついてくる体の、病的な震え方に顔を顰める。

「何なんだよアレ! ゾンビ!?」
「人間じゃないのは確かなのだよ! 青峰、お前体調は!」
「あー、何か全然ヘーキだわ!お守りサンキューな!!」

 照明の点滅する薄暗い廊下を疾走するが、違和感はすぐに訪れる。
 全員で教室の数を確認しながら校内を回った。小さい、小さい学校だった。こんなに廊下が長いはずがないのに、どこまで走っても突き当りへ行き着かない。

「やべー…嫌な予感しかしねえ」
「奇遇だな。オレもなのだよ」

 息を切らしながら足を止め、周囲を見回す。少し位置を下ろし子供を抱くような姿勢にした黒子は、無言のまま青峰の首にしがみついて震えている。
 泣いているのなら慰めようもあろうに、嗚咽の一つも聞こえず、ただ上手く噛み合わない歯だけがガチガチと耳元に不快な音を響かせた。
 青峰自身、衝撃が去ると背中に震えが走る。

 『ソレ』は確かに、黒子が口にしたように、子供の形をしているように見えた。ただ、どうしたってあれを子供とは呼びたくない。
 赤黒く爛れた頭部は頭皮の半分程がなくなり、瞼の欠けた真っ赤な目が瞬くこともなく黒子を捉え、笑うような三日月になってた。引っ張られた足にしがみついていた体は服がボロボロに千切れ、腕はもげかけ、汚泥と血液に濡れて、てらてらと鈍い艶を見せていた。
 目の前に襲われている友人がいなければ、自分とて腰を抜かしていたに違いない。
 哀れな幽霊と呼ぶには余りにも、その姿は生々しく凄惨で、禍々しかった。

 化物が追ってくる様子はない。
 しかし、前、後ろ、廊下の両端は墨を塗り込めたように暗く澱んで、先が見えない。傍らの教室も、窓の外も真っ暗で、怪異が去っていないことは明らかだ。
 不安を抱えたまま、恐る恐る黒子に足を付かせる。少しぐらつくが、先刻のように腰が抜けているということはなさそうだ。

「大丈夫か?」

 らしくもなく気遣いながら声をかけると、虚ろな目をした黒子は小さく頷き、嗚咽ともつかない息を吐いた。

「すみません、でした……」
「いいけどよ。足見せてみろ。すげえ力で掴まれてただろ。痛くねーか?」

 言いながらしゃがみ込みジャージの裾を捲り上げて、ゾッとする。
 足首からふくらはぎにかけて、白い肌の上には大小幾つもの子供の手形が重なり合って散っていた。
 赤黒く痣のようになったそれを、口元を押さえた緑間も怖々と見下ろす。

「一人だったはずなのだよ……」
「だよな……?」
「びっくりして見えていなかったんですね……。僕にしがみついていた子供のすぐ後ろにもう一人、僕らが出てきたのと逆の入口に二人いました。掴まれている手の感触は一人分じゃなかったので、そういう物理的な法則は無視なんだと思います……」
「…………」

 言葉を失いながら、上げた裾をそっと下ろす。顔を俯けそのまま立ち上がれなくなる青峰に、黒子も緑間も言葉をかけようとはしなかった。
 かけられる言葉も、かけるべき言葉も見つからなかった。
 やがて見つめていた床の一点に、ぽたりと水滴が落ちてくる。
 しゃがんだまま見上げると、唇を噛み締めた黒子が、きつく目を閉じて泣いている。
 元相棒がこんな風に感情を乱す様を、青峰は初めて見た。
 自分が無力だとこんなに強く思ったのも、生まれて初めてだった。

 緑間の手が気遣わしげに黒子の肩に触れる。無言の間が延々と続く。
 沈黙を破ったら、最後の希望までも失われる気がして。
 だけど泣いていても仕方がない。座っていても仕方がない。
 泣き止んで。
 立ち上がって。
 顔を見合わせようとしたその瞬間の違和感に、三人はもう慣れ始めていた。

 声をかけ合うこともなく同時に駆け出す。ほんの一瞬前に青峰がしゃがみこんでいたすぐ脇の壁に、染みのように黒い影が張り付いていた。
 影の裾に、足だけが見える。ズックを履いた小さな足。ありえない方向につま先が向いた、小さな足。

「あ、赤司君達を……」

 息を乱し走りながら、黒子はべたつく喉を必死に開き、声を絞り出した。

「赤司君達を、どう、どうし、どうしたんですか……!!」

 足を止めないまま無理な姿勢で振り向こうとする黒子に、青峰と緑間は視線を合わせ、両側からその腕を引く。

「さっきのと同じ奴なのか!?」
「一緒です。一緒なんです。どうしよう、赤司君、黄瀬君、紫原君、どうしよう、どうしたら」
「バカ! 泣くな、目ぇ開け、今は走ることに集中しろ……!!」
「走って、どこに行くんですか、どこに逃げるんですか、赤司君達どこにいるんですか……!」
「落ち着くのだよ! あいつらがそんな簡単にどうこうされるわけないだろう……!」
「人じゃないんだ!!」

 吠えるような強さで言い切る黒子に、これまで見たこともないその激しさに、二人揃って度肝を抜かれる。
 答える前に黒子の体がつんのめって、青峰は反射的に足を止めた。
 咄嗟に取った停止の動きに数泊遅れて、視線を落とす。床に這いつくばった少年らしき影の、その手は黒子の足にきつく絡みつき、引くような仕草を見せている。
 もがく黒子の足を緑間が掴み、バランスを崩す体を青峰が押さえ、そして二人同時に子供の腕をあらん限りの力で踏みつけた。
 奇声とともに手が離れる瞬間、爪と手のひらから飛び出した白い骨の欠片が肌を抉る。その感触までが伝わってきて思わず顔を顰める。

 痛みに悶えるように何度か体を捻って荒い息を吐き、黒子はまた手を伸ばそうとする影を睨みつけた。

「見えてるでしょう、人じゃないんだ! 赤司君の目も、黄瀬君のすばしっこさも、紫原君の力も、こんなの前にしたら何の役にも立たない……!!」
「もういいって!!」
「わかったから、走るのだよ、走ってくれ……!!」

 その手を引いて、脇に腕を通し、ぐらつく体を無理矢理引きずる。痛む足を上手くつけず片足で跳ねるような状況になりながら、黒子は顔を覆う。
 考えたくない。考えたくない。考えたくないのに。
 ああ、彼らがもし、もしも、どうにかなっていたならばそれは、それは。

「僕のせいだ……っ」


  か    え  ろ


 気力なんかとっくに尽きていた。思考も止まった。
 つんのめって転び、しかし立ち上がることすらも許されない。
 ハッ、ハッ、ハッ、と詰まってまともに吐き出せない息を無理やり止めて、黒子は恐る恐る、ピクリとも動かない右足を見下ろす。
 小さく、小さく丸くなった赤黒い子供が、黒子の足を掴んでいた。真っ赤な目がじっと黒子だけを見上げ、口元が聞こえない声で  かえろう  と唱え続けている。
 ガチガチと歯が鳴る。視界が滲んで、呼気が煙のように白く立ち上る。
 咄嗟に足を振り上げた緑間が子供の頭を蹴り飛ばしたが、ずるり、と滑る感触があっただけで、子供はピクリとも体を動かさなかった。

「はな……はなし………はなして、いや、いやだ、こわ、こわい、たすけ」

 ブツブツと小さく漏らし続ける黒子の顔が、吹き出る汗と涙と鼻水であっという間に汚れていく。混じり合って何かわからなくなった液体が、顎の辺りで凍るような気配がする。
 更に恐ろしいことには、目の前の暗がりから、そして先の見えない背後から、重なるように、ずる…ずる…ずる…と濡れた音が聞こえ始めていて。

「やべえぞ緑間、囲まれた……っ」
「黒子を離すのだよ!!」

 狼狽えて声を張り上げる。叫んだ瞬間、まずいと悟る。
 すぐ正面の暗がりに、幼い少女の体が見えていた。泥に汚れた赤いスカート。肉がこそぎ落とされ白い骨の覗く足。肩より上は長いバサバサの髪に覆われて判別出来ない。
 顔の見えない少女はぐらぐらと、バランスを取っていられるはずのない勢いで前後左右に揺れ、最後に後ろに仰け反ると跳ね上がるかのような勢いで緑間に顔面を近づけた。
 動くことも出来ず凍りつく視線の先で、髪の隙間に覗く口元がゆっくりと、ゆっくりと笑みの形に変わっていく。
 しゅー…、と音を立て口から漏れ出る呼気は酷い腐臭で、胃の奥から内蔵ごと逆流しそうになった。

  く    ろ        こ       ?

 ニタリと笑った少女の口が、大きく、鮮明に、その言葉を紡ぐ。
 一拍を置いて、空間を震わすような凄まじい音が辺りを埋め尽くした。
 膝をついて這いずって来た青峰が、緑間に足を引っぱられながらもがく黒子の体を、力の限りに抱きしめた。


 くろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこくろこ


 名前とけたたましい幾つもの笑い声が混じり、壁やドアや天井からバンバンと叩くような何かをぶつけているような音が鳴り響く。耳が割れるほどの音響で。
 耳元で交じる弱々しい泣き声は、もう言葉を上げることも出来ない友人のものだ。いつも最後まで諦めないと顔を上げていた友人の、絶望を孕んだ……

「黙れ、黙れ黙れ黙れ、呼ぶな……!!!!!!」

 青峰が涙混じりの引き攣れた声で叫ぶ。
 黒子を抱えたまま力の限り床を殴りつけると、ビタッと全ての音が止まる。
 しかしそれは終わりを意味する沈黙ではなくて。そうでないのは明らかで。

 止まったと思った、次の瞬間。
 幾重にも重なり引き伸ばされ太くなった声が。




  く   ろ  こ     か  ぁ   え      ろ    ぉ




 地響きのように頭上から降り注いた。

 そして黒子の意識は、闇の中へと引きずり込まれる。