少女のこと

「したっけ、絢子ちゃんの事から話そっか。日が落ちる前に降りないと電車無くなっちゃうからね」
「ほんどいだましい……」

 老婆がもごもごと呟き石碑に手を合わせてまた涙ぐむのを、穏やかな目で見つめながら、娘はゆったりと辺りを見回した。
 思い出しているのかも知れない。学校や里野の風景を。彼女もまた、ここに建っていた学校で学んだはずだ。

「あやちゃんはねえ、転校生だったんだ。高度成長期で、空気の悪い頃だったでしょう。体が弱ぐてね、都会では命を縮めるだけだぁって、親御さんが思い切って越して来たんだよ。ちっちゃくて髪の長い、めんごい子でねえ、ピアノなんか弾いちゃって。田舎暮らしの子供らはみぃんなソワソワしてたよ」

 里山で駆け回っていた元気いっぱいの子供達の中に、突然現れた深窓のお嬢さん。運動は苦手だけどその分器用で、頭も良かったし、何より温和で優しい子だった。
 自分が弱かったからだろう。いつも小さい子達を気遣って、手を引いてあげていた。
 曲がったことが嫌いで、人の良いところを見つけるのが上手かった。がさつな子供達の良いところを見ては全部言葉に出して褒めて、否定より肯定で話をする、そんな子だった。

「やっと落ち着いて、こっからって時にあんなことになって……お母さんはそらもう泣いて泣いて、体壊してあっさり後を追ってしまったんだよ。もともとお母さんのほうも体が強くなかったんだね。お父さんはすっかり消沈して、独りでここを離れてった。今はどうしてんだろうねぇ……」

 過疎地の小学校は、たった5人の子供しかいない小さな小さな学校だった。
 後に続く幼児もおらず、最後の哲夫が卒業するまでに他所から子供が越してこなければ、数年後には閉鎖されることがわかっていた。
 そんな中に黒崎絢子が転校してきたのは、事故より一年半ほど前のこと。
 気管支が弱く、空気の良い場所で育てたい、少しでも元気にさせたいという両親の希望で都会から引っ越してきた子供だった。
 田舎の野山で駆け回って育ってきた子供達にとっては、都会暮らしに慣れて服を汚すことを嫌う絢子はまさに異人で、しばらくは遠巻きにするばかりだったようだ。

 しかしそこは、順応性の高い子供のこと。
 絢子は体が弱いこともあり、本を読んだり絵を描いたりして過ごすのが好きだった。大人しく上品で優しい絢子は、いくらもしないうちに上級生の男子達のマドンナになった。
 乱暴者の男の子達が借りてきた猫のように少女を気遣うのを、周囲の大人達は微笑ましく見守っていた。
 一方、ずっと女子一人だった紫は姉のように絢子を慕って、べったりになった。男の子達と走り回ることが減り、絢子に作ってもらったお手玉やお人形遊びに夢中になった。元々そういうものに憧れ始める年頃だったのだ。
 気の強さも手伝って、少年達相手にずいぶん高飛車な口をきくようになっていた。
 そして、最年少でおとなしい性質だった哲夫。

「これが、私の弟。10も年が離れてたから、甘やかしちゃってね、甘ったれで、すぐ拗ねて泣くし、聞き分けないし、もう……でも、私にはほんとに、可愛かったんだぁ。両親が哲夫にかかりっきりになるのも全然嫌じゃなかった。テレビ見るのもお風呂入るのも一人じゃ嫌がって、すぐ膝の上に乗ってきて」

 山道の一番奥にあった小さな石碑の前にしゃがみ込んで、その人は遠い場所を見ていた。
 老婆の手が優しく、何度も石碑を撫でる。まるで幼い我が子の頭を撫でるように。
 両親も姉も幼い末っ子を猫っ可愛がりしていたが、そうは言っても忙しく、離れた土地の高校に通う姉は帰りも遅かった。
 年が近く他の子供のように乱暴でない絢子の事が、哲夫も大好きで、よく本を読んでくれとせがんでまとわりつきながら歩いていた。

 田舎にたった6人の子供。夕暮れに響く幼い笑い声。
 平和で、幸せだった。
 先にいようが後から来ようが関係なく、大人達は我が子のように彼らを見守っていたのだ。
 だからこそ、その事故は小さな集落に暗い、暗い影を落とし、わずか数軒の民家を残して村人は散り散りになってしまった。

「今も命日には供養に来る人がいるけど、それも一人減り二人減り……可哀想に、寂しいでしょうにねえ……」
「記録的な雨が降ったんですよね。どうして子供達はみんな学校に? 避難所は別にあったって聞いたんですが……」
「あやちゃんを迎えに行ったの」

 一年以上の時を一緒に過ごして、絢子はすっかり土地の子供になっていた。
 みんな本当に仲が良く、いつも何をするにも6人一緒で、言い争いすることがあっても次の日には元通り、そんなふうになっていた。
 しかし、崩落の起こったあの日、子供達は初めて本気の、大きな溝を生むような大喧嘩をした。
 何事もなければ大人になっていくためのステップに過ぎなかったのだろう、それは互いの価値観の衝突だった。

 田舎暮らしにも慣れて日に日に元気になっていった絢子だったが、天気の悪い時期にはやはり体調を崩すことが多く、自然とこもりがちになった。
 そんな絢子を心配して子供達は彼女に合わせた遊びを選んだけれど、絢子はそれが嫌だった。
 自分のせいでみんなが我慢をしていると、そう思ったのだろう。
 プライドや卑下ではなく、それを嫌だと感じるくらい、絢子はもう他の子供たちのことを好きになっていたのだ。

「みんなとなんか遊びたくないって、そう言ったんだって。一人で静かに本を読みたいんだって。そしたら上の子達がムキになって怒り出して、あやちゃんの味方をするユカリがあやちゃんの代わりに言い返しちゃって、宥めたり怒ったり、最終的に子供達みんなで大喧嘩。私は休校になってたし、両親も畑仕事ができる天気じゃなかったから家にいたんだけどね、昼過ぎに哲夫が大泣きしながら帰ってくっから、何事かと思ったわ」

 昨日のことのように姉は語る。幼い弟と最後に触れ合ったそのときを、何度も思い出しながら生きてきたのだろうとわかる、鮮明な言葉で。

 大人しく優しい性質だった絢子は、みんながバラバラになってしまった、その状況に大きなショックを受けたことだろう。
 自分の言葉をどれほど悔やんだだろう。
 きっと学校に一人残り、泣いていたのだと思う。

 その日は何日も続く記録的な大雨に見舞われていて、午前中には雨が上がってたものの、まだ降る可能性があると小学校は早い時間に子供を帰宅させていた。事実、絢子以外の子供達は皆、一度自宅に戻っている。
 しかし、初めての喧嘩のショックは全員に尾を引いていた。最年長の健太郎は事の次第を父親に話して、仲直りして来いと送り出されている。

「健太は大人ぶって収めようと頑張ってるのに、哲夫は健太は乱暴だし本を読むのが下手だ、おらもくろちゃんと遊ぶのがいい、なんて憎まれ口叩くもんだから、健太怒ってね、『うっつぁしそだらごどあやごにかだれこんおんつぁ!』って頭ぶん殴ってたわ。仲直りに来たはずなのに」
「う、え?」
「あはは、うるさい、そんなこと絢子に言え、この阿呆って意味よ」
「異国語っすね……」
「そうよねぇ、異国語みたいなものだったと思うのよ、あやちゃんにも。言葉は殆どわからない、片手分しかいない同級生は暴れ馬ばっかりで、都会者って線を引かれて。どんなに心細かったかって思う。それでも、ここのことも、子供達のことも好きになってくれたんだぁ。あやちゃん迎えに行ったのが原因なんて言っても、誰も恨み言は言えなかったよ」

 その日、健太郎は仲間達の家を1軒1軒訪ねて歩いた。
 自分が子供たちをまとめなければならないという義務感もあったのだろう。最年少の哲夫にまで腰を折って頭を下げて、ひとりひとりに謝って、何が悔しかったのかを真摯に話して、仲直りをして歩いて。
 そうして最後が、絢子のところだった。
 小雨が降り出す中、みんな一緒に行きたいと言い合って、揃って向かった。

 絢子はもう自分達の仲間なのだと伝えたくて。
 絢子のことが大好きで、ただ一緒に遊びたかったんだと伝えたくて。
 また優しい声で話をして欲しくて。
 明日も明後日もその先も、今だって、一人でなんて絶対に泣いて欲しくなくて。

 子供達がみんなで手をつなぎ絢子の家へ向かうのを、畑から見た人がいた。
 また大雨が降るから早く帰れ、と声をかけ、わかったと答える声を聞いたのが最期だった。
 絢子の両親は集落から一時間以上かかる街中で勤めていて、彼女は鍵を開けて家に入る子だったから、家に戻っていないことを子供達はすぐに悟っただろう。
 そうして、誰にも知らせずに、子供達は絢子を迎えに行った。
 危険な山の麓に建つ小学校まで。

 そうして、事故は起きた。

「あやちゃんはね、建物ごと流された学舎の、二階の教室で見つかったの。他の子は1階か、まだ外にいたのかも知れない。周辺を掘って掘って、ようやく全員見つかったのは二ヶ月も経ってから。会えなかったんだろうねえって、それだけが本当に、不憫で」

 不憫で、とくり返して、そこまでは滲ませるだけだった涙を、彼女は頬に零した。両手に顔を伏せ泣き出した娘の肩を老いた母が抱きしめる。
 声はかけられなかった。自分達の親よりもまだ年嵩の大人がこんな風に泣くところなど見たことがなかった。
 彼女が落ち着くまでの間、黙したまま子供達を偲ぶ。幽霊だと、打ち倒すべき敵だという位置付けが、いけないと思いつつもあやふやになっていく。
 暴き出したそこにあるのは、哀れな子供達の瞬きのような一生と、残された家族の癒えることのない悲しみだけだった。
 自分達は何をしに来たんだろうと、嘘をつき、騙して凄惨な過去を語らせた罪悪感で胸が引き攣れていく。

 時間にすれば僅かの間だっただろう。恥ずかしそうに涙を拭った娘は、立ち上がるとバッグの中から手帳を取り出し、挟まった紙を4人の前に差し出した。
 一番近い場所にいた火神がおそるおそるそれを受け取り、他の3人がその手元を覗き込む。
 色あせて角のなくなった白い枠の中、モノクロに焼き付けられた思い出。

「子供達の写真、ですか……」
「せっかくだからね、顔も見てあげて? 本当に普通の、ただの悪ガキだったんだけど」

 あの跡地に建っていたのだろう、木造校舎の前で子供達がもみくちゃになって笑っていた。男子はみんな判を押したような丸坊主で、一人はおかっぱ、一人はきれいなストレートロングの……ああ、これが絢子だろう。確かに一人だけ浮いたように空気が違う。

「あ? これ……名前」

 何気なく写真を裏返した火神は薄くなった文字に目を見開いた。指し示されたそれに、他の3人も表情を凍らせる。
 日付と、名前。健太、康彦、ユウヤ、ユカリ、哲夫、くろ子。

「くろこ……」
「ああ、あやちゃんのことよ、それ」

 尋ねるでもなく呟いた声に、娘が応える。


「子供達が付けたあだ名だったの。黒崎絢子で、くろ子ちゃん」