迷い子、ふたり

瞬きは、ほんの一瞬。

 目を開けた黒子は束の間息を止め、驚愕した。
 整然とした室内。柔らかな陽の差す廊下から、室内へと落ちる影。
 薄曇りの空は太陽を完全に隠し切らず、山の緑に光と影のコントラストを刻んでいる。
 慌てて周りを見回したが、そこにいたはずの友人達の姿はなく、床を染め上げた赤い色もきれいに消え失せていた。

「黄、瀬君……?」

 目の前に倒れ臥した向日葵の色を探し、何もないとわかっている床をぺたぺたと触れて回る。手の届く範囲全てを這い回るようにして探り、視界に映る全てがありのままの姿だと確かめて、力が抜けた。
 ポケットに入れていた携帯を引っ張り出し、震える手でリロードを押す。電波を捉えられずにエラー画面に切り替わったそれを両手で握り締め、肘と膝を付いた姿勢で、頭を抱える。
 堪えようのない嗚咽が一つ零れ落ちるともう我慢が効かず、一人幼い子供のように泣きじゃくった。
 状況が一変していたこともあり、消えたのがキセキ達でなく自分の方なのだということは簡単に理解できた。
 別れの言葉一つ交わすことが出来なかった、明るい友人の声を聞くことが二度と叶わないだろうことも。
 理解の良すぎる自分を恨む。大丈夫だと言い張るための根拠を見出せない自分を呪う。
 ああ、赤司なら何か、彼が生きていると思えるだけの理論を組み立てられただろうか。残された彼らが黄瀬と同じように踏みにじられないと信じられるだけの論拠を見つけられただろうか。

(みんな、みんな同じように━━━)

 折られ、歪められ、捻り切られ。命も、約束されたはずの輝かしい未来も、黒子には見えない、触れない、代わることの出来ない遠い場所で壊されて、打ち捨てられて、誰にも知られないままで。
 想像だけで悲鳴を上げる。
 許せない。許されるはずがない。彼らは自分とは違うのだ。
 天賦の才に恵まれながら、更なる高みを求め続けるライバル達。対等に戦えるのなど今だけだろう。それでもいいと思わせてくれた、誇らしい友人達。
 踏みにじられたと感じた時もあった。それでも、切り捨てられて尚、諦められなかった。胸を染め上げた眩い光、深い影。楽しさも苦しさも糧だった。次に戦う日を思えばどこまでだって頑張れた。まさに奇跡のような出会いだった。
 こんな風に、奪われていい縁ではなかったのに。

「……っぅぐ、いや、です……どうして、ぇ、こん、こんな……こんなこと……うぅぅぅ……」

 そもそも何故黒子だったのか。
 狙われたのが最も非力な黒子でなければ、彼らがあんな風に危険に身を晒してまで庇おうとすることはなかったはずだ。
 しかもこんな場所で一人、何か出てくる気配すらない。何がしたくて連れて来た?
 このまま放置するつもりなのか?
 何故。
 何故。
 何故。
 仲間達と引き離され、得体の知れぬ死霊に囲われ、独り朽ち果てるまでこの小さな学校を彷徨う。
 想像して、身を震わせる。耐えられるわけがない。耐え切れるわけがない。

 立ち上がり、よろめいて机をなぎ倒し、壁にぶち当たりながら廊下に出る。顔をぐちゃぐちゃにして泣きながら、仲間達の名前を呼び歩き出す。
 足首の傷がじくじくと痛み、普通に歩いているだけなのに唐突に突き上げる痛みで何度もバランスを崩した。
 数え切れないほど叩きつけられた膝が腫れ上がって感覚を無くしても、顔面を強打して鼻や唇から血を流しても、止まらずに歩き続けた。
 小さな教室、小ホール、階段の影、トイレの個室、昇降口、棚という棚全てを開けて、それでも何もない。誰もいない。
 独りだ。

「……青峰君……赤司君……緑間君……紫原君……」

 大声で呼ぶことに疲れて、最後には唱えるような小さな声になりながら。
 引きずる足が重くて、痛くて、熱くて、最後には腰を引きずって這うようになりながら。
 何周も、何周も、何周も、誰もいない校舎を巡る。

「たすけて……」

 しんと静まり返る廊下に蹲って、引きちぎれるほど強く髪を鷲掴んだ。
 痛みよりも、恐怖よりもよほど強く、強烈な重さで、孤独が伸し掛かる。
 のろのろと這うような速度で、何度も通った廊下だ。夕暮れは終わらない。時間の感覚はとうに失せている。幾度か気を失った気もする。何時間か、もしかしたら何日か。
 ただでさえ乏しい表情はごっそりと剥げ落ち、顔色は黒ずんで感じるほど悪くなっていた。
 姿見に映った自分を子供達と見間違えた時には、友人よりも自分の生存を疑った。

(疑うも何も)

 自分がまだ生きているなどと、誰が言い切れるのか。もはやそれを確かめてくれる相手もいない。
 もう誰でもいい、幽霊でもいいから、誰か。誰か。誰か。
 強く掴み過ぎて抜けた髪が絡まる両手を朦朧と見下ろしながら、縋るように頭の中で唱える。
 誰か。

「おにいちゃん、どうしたの?」
「!?」

 唐突に。
 頭上から降ってきた声に、黒子は視線を上げることも出来ず凝固した。
 幼い、澄んだ声。子供の声。
 ごくりと乾いた喉を鳴らしながらゆっくりと、床を辿っていく。小さなつま先。白いズックは上履きか。
 違和感が頭をよぎる。正体のわからないそれに戸惑いながら少しずつ、視線を上げていく。目線が足下まで来たところで、その違和感の正体に気が付いた。
 土の色も、血の色もないまっさらな白。震える足首。
 がばりと顔を上げた先で、泣きすぎた目を真っ赤に腫らした少女が黒子を見ていた。
 乱れたツインテールが揺れる。

「……ケガしちゃったの?」

 顔を汚す涙の跡とジャージに残る血痕を不安げに見ながら、幼い少女は嗚咽を堪えて喉と胸を震わせる。
 その姿を唖然と見ていた黒子は、更にその後ろに揺らいだ大きな影に体をすくませた。
 一切の顔色を失った青年は見たこともない人だったが、じっと、表情もなく少女と黒子を見下ろして━━━何事も口にしないまま、足元の影に融けた。
 人が土くれのように崩れ落ち、最初から何もなかったかのように消える失せる。
 突然のその光景に、黒子は言葉を失い、少女は引き攣れた泣き声を上げながら目の前の黒子にすがりついた。

「な、なに、が」
「もうやだよおお……!!」

 腕の中にすっぽりと収まり大声で泣きじゃくる少女の、その体温に、生きた熱に、黒子は束の間息を止めて、恐る恐る手を回す。
 大丈夫だと言い聞かせるように頭を撫で、1人じゃないと知らしめるように頬に頬を押し当てる。
 柔らかな感触と涙の匂いに、宥めようとしたはずが一緒に泣いた。
 ああ、ああ、命だ。生きたものがここにある。
 しばしの間そのまま少女と自分を落ち着かせることに努めた黒子は、嗚咽の収まった少女をそっと離し、肩に手を置いたまま視線を合わせた。

「君は……? どうしてこんなところにいるんですか? さっきの人は?」

 焦るまいと思いつつ息せき切って尋ねると、少女は怯えたように身を竦ませる。
 怖がらなくて大丈夫ですよ、僕は黒子テツヤと言います。
 穏やかに言って微笑みかけると、少女はようやく肩の力を抜いてその場にへたり込んだ。所謂あひる座りの姿勢で赤くなった目元を擦る。

「わたしは、くろこ、です。さっきのおにいちゃんはここであって一緒にいたけど、だんだんしゃべらなくなっていなくなっちゃ……ほかにも、いっぱいいたのに、みんな、みんないなくなっちゃった、うっ、うぇ、っぇ」
「泣かないでください。くろこちゃん、と言うんですね。僕の名前とお揃いです」
「……おそろい……?」

 ただの偶然と呼ぶにはあまりにも出来すぎた符合に、黒子は語りかけながら背筋が冷えるのを感じた。
 くろこ。子供達はくろこという少女と、黒子という自分をここに呼んだ。いや、もしかしたら或いは、先ほどの青年も。
 執拗に子供達がくり返した呼びかけ。くろこ。関係者か?
いや、名前とは限らない。何か特別な響きだったのか。くろこ。それなら頷ける。選ばれたのが自分だったことも、独りここに放り込まれたことも。
 くろこ。意味を探さなければ。
 ここにいる意味を、それがわかれば戻れるかもしれない。
 突然目の前に示された可能性に、目の前の風景が色を変えた。ゆっくりと校舎の中を見渡す。何度もみんなで回った。何度も一人で回った。でもまだだ。まだ見落としているのだ。
 意味を。

「おにいちゃん……?」
「いえ、すみません。さっきの人とはここで会ったと言いましたが、最初は? 他には誰も一緒ではなかったんですか?」
「友達……みんなくろこをおいていなくなっちゃった……」
「いつからここに?」
「わかんない……ずっと、ずっといるの。どこも開かないの。おうちのかえり道ももうわかんなくなっちゃった……。おかあさん、おとうさん、いっぱいよんだけど、もう顔わからない。あってもわからないよ」

 言葉を一つ発する度にしゃくり上げて大粒の涙を零す少女はあまりにも頼りなくて、哀れみに胸が引き攣れた。
 黒子はほんの僅かの間の孤独ですら壊れ始めていた。
 色んな人と会ったとは言うが、独りの時間も多かっただろう。
 消えていく人間は他にもいたのだろうか。耐えたのか、この子は一人で。独りを。

 静かに頭を撫でて、もう一度丁寧に、出来うる限り優しく少女を抱き寄せた。
 冷え切った心が僅かでも温まるまで、そうしていてあげたかった。
 何度かしゃくり上げた少女は、やがて胸元に目元を擦り付けてぐいぐいと体を押し付けてくる。少しでも近づきたいように。そうすれば寂しさが瘉えるとでも言うように。
 仔犬が甘えて足の間に潜ってくるような仕草に少し笑って、抱きしめていた少女を腿の上に乗せた。足はじんと痛んだが、それ以上に重みがいとおしい。
 小学生、低学年だろうか。体が小さい。黒子の身長でもせいぜい腰より少し高いくらいの背丈だ。
 ピンク色のゴムで結われた子供特有の柔らかい髪の毛がゆらゆらと揺れる。

 腕の中で落ち着くとすぐ眠そうな様子になるのは、それまで気が休まらずにいた証拠だろう。怯えさせないよう軽く背を叩きながら、少し休みましょうか、と声をかけた。
 ぺったりと胸に張り付いて、ずっといる? と尋ねられる。
 応えたくて、だけど答えようがない。だからせめてと、祈るように。

「君が眠って起きても、僕はここにいますよ」

 出来る最小範囲の約束を。
 正直に言えば、黒子も疲れ果てていた。他人の体温に淡い安堵が広がると、途端にどっと疲労感が押し寄せて、傷ついてふんばりの効かない体を押し潰した。
 腕の中の幼子を大事に大事に抱え込んで、そのままぱたりと横に倒れる。
 少しだけだ。ほんの少しだけ。
 この子が休む間だけ。

 言い訳のように思いながら、何時間か、何日か、何週間かぶりに。小さな小さな、しかし余りにも大きな安心を抱えて目を閉じる。
 眠るというよりも深淵へ落ちるような、急激な眠気が襲ってきて、あっと言う間に意識が途切れた。