「逃げんなよ」
「今さら逃げませんよ」
等というやり取りの後、高尾和成は着替えのため黒子テツヤを外に残して部室に消える。渡り廊下で繋がる部室棟は、プレハブをちょっと頑丈にしたような作りの二階建て。それが二棟並んでおり、片方は女子部の物のようだ。公立でありながら運動部は全般的に好成績を残しており、大きさの差はあれどグランド二つに体育館二つとはかなりな贅沢である。コート二面分ある広く新しい第二体育館を、男女バスケ部と男子バーレーボール部が使っていると部活の説明会で言っていた気がする。確か。
高尾を待っている間、呑気にそんなことを考えていた黒子であるが。後から思えば、この時が逃げる最後のチャンスだっただろう。スコンと重要な事実を忘れていた自分が恨めしい。そう、この時の黒子は忘れていたのである。この秀徳で、男子バスケ部で、会いたくない人物は緑間だけではなかったことを。
「よく来たなぁ、テツヤ」
「あだっ、いだだだだだだだだ!? 頭、頭もげますーーっ!!」
黒子がソレを思い出したのは、体育館の扉が目の前に迫った時。薄く開いたその扉の向こうから、バッシュのスキール音が漏れ聞こえたことでハタと思い出したのである。だがしかし、時すでに遅しで黒子の腕を掴んでいた高尾が、おもいっきりよく扉を開き大声で叫んでしまった。
「ちょ、まっ、高尾く……っ」
「ちーす! キャプテン来てますー? マネージャー希望者連れてきました!!」
部活の開始時間は、清掃時間も考慮してあるのでまだ始まってはいない。それでも早くに来た者達は各々ストレッチなどを始めていて、それらの視線が一斉に高尾へ向いた。
影の薄い自分なら見つからないかもと期待をしたが、よりにもよって真っ先に見つけて欲しくない人物達が気づいてしまった。ボールを持ったまま目を見開いた緑間。そしてオタオタしている内に、するりと近寄っていた人物が有無を言わさず黒子の頭を鷲掴みにした。それが先ほどの叫びへと繋がる。
「よく来たなぁ、テツヤ」
「あだっ、いだだだだだだだだ!? 頭、頭もげますーーっ!!」
「えっ、宮地さん!? 何してんすかっ」
「高尾、ちょい黙ってろ」
「うへ」
「あだ、あだ、あだだあだだだっ」
「で、テツヤ。オレに言うことは?」
「もげる、もげるっ、すみません、清志さんっ」
「何がすみません、なんだ?」
「えーと、色々? いだだだだだだだ!?」
「そうだな、受験勉強を見てやったオレに合否の報告もなし。どこに進学するかの報告もなし。連絡すれば全てシカト。秀徳に来るならバスケ部に来いって言ったはずだがスルー。流石に撲殺して引き潰して埋めたいところだが、優しいオレはこれで勘弁してやる」
「いだっ、あだだだだ、あだ、もげるぅううううううううう!?」
大きな手で黒子の頭を鷲掴みにし、ギリギリと締め上げているのは三年生の宮地清志である。にこやかに笑いながら青筋を立てるという器用なその表情に慄き、呆気にとられていた高尾が何かに気づいたように声を上げた。
「あ、テッちゃんの家庭教師してた現秀徳生って宮地さん!?」
「当たり」
「何その偶然、真ちゃん風に言うなら運命なのだよ?」
「……嫌な運命です」
「あ゛?」
「イエ、ナンデモナイデス」
「で、宮地さん。大坪さんと監督は?」
「まだ来てねー……。て、来たわ」
「何を騒いで……。おや? ウチに来たんだねぇ、黒子くん」
「……はい?」
黒子が解放されたものの痛む頭を抱えていれば、後ろから足音が近づいてくる。涙目で振り返れば、そこに居たのは中年男性と背の高い大柄な男子。おそらく監督と主将なのだろう。監督と思しき中年男性が黒子に気づいて目を見張る。それから苦笑交じりに思いもかけないセリフを投げて来た。まさか、自分を知っているとは。
「とりあえず、全員外周から始めなさい。その間に、黒子くんは私と話しをしようか」
のんびりとした口調で監督がそう告げれば、部員達は素直に従い外へ向かう。黒子は何となく逃げ出したい気分になったが、確りと自分を捕える監督の目がそれを許さない。なんだかもう、踏んだり蹴ったりな心境である。
*
あっと言う間に人の減った体育館、その壁際に置かれたベンチに黒子は中谷仁亮と名乗る監督と二人で腰かけていた。コートを見つめる視界の中で、数人のマネージャーと思しき男子達が忙しなく動いている。それを眺めながら、間延びした独特な口調で監督が問いかけてきた。
どうやら中学時代の黒子を知っているようで、まず聞かれたのはなぜ女子の制服を着ているのか。黒子はまたかと内心うんざりしながらも、緑間や高尾にした説明を繰り返した。
「ふーむ、うん。なるほどねぇ」
「……」
「なるほど、なるほど、それでだったのか」
「あのぉ……?」
「んー、いやね。私は君が欲しかったんだよね。何度か帝光に会わせて欲しいと打診したんだが、のらりくらりと誤魔化されてしまったんだよ」
「あー……」
「なるほど、実は女子でしたじゃ大っぴらに言う訳にはいかなかったんだろうね」
「はぁ」
「君のパスワークは魅力的だったんだけどねー」
「それは、緑間くんに合わせてと言うことですか?」
「そう、そのために高尾もとった。それに君も居れば素晴らしいチームになると思ったんだが……、今からでも男子にならないかい?」
「……ムリダトオモイマス」
「だよねぇ、残念」
「あの、高尾くんも緑間くんのために?」
「うん、酷いと思うかい?」
「……」
「緑間がウチに来ると決まった時から、これからの三年間は緑間中心のチームとなる。それは決定事項、キセキの世代を獲得するとはそういうことだ。そして、監督はそれに合わせたチーム編成を考えなければならない。緑間のシュートを最大限に活かせる布陣をだ」
「それで俯瞰で空間を把握できる広い視野を持つ高尾くんと、パス専門のボク。ですか」
「そういうことだね」
「……」
「納得いかないって顔だ」
「緑間くんをスカウトする時、我儘を一日三回まで許可すると言ったそうですね」
「言ったね。なにせウチは公立だから、私立のように大盤振る舞いする訳にいかないから苦肉の策だよ」
「それは、特別扱いし過ぎてるのでは?」
黒子がそこはかとなく渋い顔で監督を見れば、真っすぐ自分を見つめる目とかち合った。静かで優しげなようで、何もかもを見透かしてしまいそうな視線。それに黒子は密かに息を飲む。しばし後、ふっと目元を緩めた監督が再び口を開いた。
「ふむ。どうやら君は、緑間を特別扱いしていることを心配しているんじゃなさそうだね」
「えーと……」
「特別扱いされる緑間を、心配している」
「……彼は確かに天才ですが、高校生になったばかりです」
「帝光では凄まじい扱いだったようだね」
「……はい」
「キセキの世代を出せば、それだけで勝てる。彼等だけを特別視して、彼等だけに全てを押しつけた。君はここでもそうなるのではないかと心配しているんだね」
「今までは緑間くんも勝つことを当たり前に捉えてきました、でもそれは五人が居てこそです。別れてしまったこれからは、どうなるか分からない。なのに緑間くんが居るからと、期待をかけすぎるのは酷だと思うんです」
「そうだね、その通りだ。だけどね、ウチの選手達はそんなにやわではないよ?」
「え?」
「ウチの選手達は皆、これまでの努力にプライドを持っている。レギュラーを勝ち取った者達はなおのこと。いくら天才が入ったかからといって、全てをただ任せきる者など居やしない。高尾もそうじゃなかったかな?」
「あ……、そう、ですね。すみません」
「謝ることではないよ。さて、それじゃあ君にはマネージャーの仕事とパス練で指導をお願いしようかな」
「え゛っ!? マネージャーはともかく、指導ってっ……っ、それは幾らなんでも皆さん納得しませんよ!」
「そうかね?」
「そうです!」
「それは女子だからかな?」
「う、……そうです」
「技術の有無に性別は関係ないでしょう。まあ、一度ミニゲームでもやれば文句を言うヤツは居なくなるだろうし。早速やろうか」
「はい?」
「ミニゲーム」
「えっ、本気ですかっ」
「ちょー本気。パスだけ見せるのも良いけど、どうせなら試合をした方がより分かりやすい。という訳で、皆が戻る前に着替えておいで」
「え、今日は何の準備も……。準備してました」
「それは丁度良かった。んじゃ宜しくー」
「……oh」
今日の昼、高尾の襲撃で急遽決まった部活見学。本日は体育もなかったし、ジャージなどの着替えはおろかバッシュさえない。はずだったのだが、朝の予定ではストバスに直行するつもりだったので。確りと、一式持参していることを思い出す。言わなければ良かったのだが、黒子は思わずするりと白状してしまった。何となく監督相手に誤魔化すことが出来なかったのだ、これも人徳のなせる技と言うのだろうか。
もう何がなにやら、流されまくってる気がする黒子。今は無人の部室を借りて、やけっぱちな気分で着替えて体育館に戻れば。外周を終えた部員達が勢ぞろいしており、彼等に向かって監督がまずミニゲームをすると告げていた。内容は十分間のみの五対五。そのメンバーの中に黒子という女生徒が居ることに驚きの声が上がったが、監督は見事にスルーして見せる。
「そうだねぇ、どうせなら一年対レギュラーにしようか。緑間、高尾、黒子をメインにあと二人選びなさい。レギュラーの方は大坪、宮地、木村をメインにあと二人」
「ブッフォ、何がどうしてこーなった?」
「ホント、どうしてでしょうね……」
「黒子。お前、なまっていないだろうな」
「ご心配なく緑間くん、ずっとストバスしてました」
「……そうか。なら良いのだよ」
「テッちゃん、真ちゃんてば、自分もストバスに誘って欲しかったーてよ」
「そんなことは言ってねーのだよ!」
「え、嫌です」
「ギャハハハ! ホント、辛辣っ」
「っ、黒子っ、貴様……っ」
「ハイハイ、とっとと始めて」
パンパンと手を叩き、メンバーを追いたてる監督。慌ててコートに立った黒子は、久々な感覚にワクワクしていた。なんて正直な感情。アレコレ思い悩んでいたはずなのに、いざ試合が出来るとなれば喜んでしまう自分。現金にも程がある。
改めて、自分はバスケットボールから離れられないと実感した。こうなれば、高尾ではないけれど開き直るしかない。まずはそう、緑間の意識改革から始めてみるかと。黒子が胸中で苦笑した時、試合開始を告げるホイッスルが鳴り響いた。
*
「何ですか、アレは」
「面白いでしょう? 中学までは男子だったんだけどねー、どうせなら高校でも男子をやって欲しかったねー」
十分後、監督と主将の会話である。『それはムリだろう』と、試合を見ていたその場の全員が胸中でツッコミを入れた。終了後、糸が切れたようにパッタリと倒れた黒子を見てそう思う。今は宮地の手により体育館の隅に運ばれ、転がったまま動かない。
「大坪も、あのパス技術は欲しいと思うだろう?」
「それは、思います」
「だからパス練習は彼女に見てもらおうと思う。というか決定」
「まあ、それが良いでしょうね」
監督の強引な決定に、主将である大坪泰介は苦笑しつつも頷いた。
たった十分のミニゲーム、それでも三年スタメンとしてのプライドが負けることを許さない。それは天才シュータである緑間が相手でもだ。何とかレギュラーチームが勝利したものの、あと一秒でもあったなら負けてもおかしくないほどの僅差であった。
視野の広さを誇る高尾と、変幻自在のパスワークを見せる黒子。このコンビは予想以上に凶悪で、さらに緑間のでたらめなシュート力。それだけでもうんざりなのに、緑間に気を取られ過ぎれば黒子によって他のメンバーにボールが回され翻弄されまくる。思わずよくこれで勝てたなと思ってしまいそうなほど、大坪達は振り回された自覚があった。
口では否定した大坪も、監督が言うように黒子を選手として欲しいと思ったり。そう思う最大の要因は、きっと試合中に見た緑間の顔。黒子からパスを貰った時に見せたあの表情。今日まで共に練習してきて、一度たりとも見たことのなかった満足げな顔。ずっと欲しかったのはこれだと、素直に表していた。
少々悔しい想いもあるが、黒子のパスを目の当たりにした者としては緑間の気持ちも分かる。そしてこれからこのチームをどう仕上げていくのか、その目標と課題がおぼろげながら見えた気がした。
さて、その頃の黒子と言えば。撃沈したまま緑間の説教を受けていた、因みに傍で高尾も爆笑している。
「まったく、何がストバスをしているなのだよ。確実に体力が落ちているではないか、これだから……」
「ブハッ、真ちゃんてば小姑みてー!」
「煩いのだよ!」
「それは真ちゃんじゃね?」
「何だと!?」
「……ほん、と、に、うるさい、です」
「黒子ぉおおおおおおお!!」
「ふたり、とも」
「えっ、オレも!?」
「しかし、パスは衰えていないようだな」
「ホント、ビックリしたわ。何なのあのパス、ちょー気持ち良かった!」
「……それは、どうも」
「でも、マジでパスだけなのね」
「う、」
「黒子はパス以外、女バスでも無理なほどイマイチなのだよ」
「ブフォオオオオ!? 真ちゃん、すっぱり言い過ぎっ」
「返す言葉がありません」
「黒子。お前もマネージャーとしてこの秀徳バスケ部に来るのなら、人事を尽くすのだよ」
「そのつもりですが……。緑間くん、なぜ君は上から目線なんですか」
「ブフッ、真ちゃんそこは素直に、お前とバスケができそうで嬉しいのだよ。て言わねーと!」
「貴様はどうしてそう勝手なことをっ」
「え、事実でしょ?」
「高尾ぉおおおおおおおお!?」
「緑間くん」
「何だ」
「負けちゃいましたね」
「そうだな」
「強かったですね、先輩方」
「そんなことは知っているのだよ」
「そうですか」
「よし! そろそろ練習を再開するぞ!!」
大坪の良く通る声が響き渡り、緑間と高尾が駈け出して行った。何とか起き上った黒子は、壁に凭れながらそれを見送り小さく笑みをこぼす。先程の監督との話しで感じた不安は、何となくただの杞憂で終わりそうだと今の緑間を見て思ったから。
ここは帝光ではなく秀徳で、あの頃とは違うのだと。知っていたはずなのに、分かっていなかった。自分がグダグダとアレコレ悩んでるうちに、緑間はさっさと切り替えて先に進んでいたのである。
きっと大丈夫。何がと聞かれたら、表す言葉が見つからないけれど。きっと大丈夫。黒子は心地好い疲労感の中で、そんなことを思った。