# 03


四時間目のチャイムが鳴ったのを確認した日向は、本日2回目となるお弁当をかきこみ、バレーボールを片脇に慌てたように教室を飛び出した。廊下を歩いている生徒をうまくかわしながら、目的の場所へ一直線。
 2年2組、宮侑のいる教室だ。
 そのつもりはなかったのだが、先日一緒に学生寮で寝た日、朝からえんえんと鳴り響く侑のスマホに起こされた日向に、先に目覚めていた侑がそういえばと思い出したように「翔陽くん、メアド教えて」と言ってきた。それから、日向はしばしば侑と昼休みに一緒に練習をする約束をしていた。

 侑の教室の前まで着くと、窓から派手な金髪を探す。スポーツコースだからか背の高い生徒が多く、ぴょんぴょんとジャンプをしないと教室の中が見渡せない。そうしていると、人陰の間から侑を見つけた。侑は日向と目が合うなりガタッと席を立ち、嬉しさがこらえきれないと言わんばかりの笑顔を見せた。

 日向は、脇に抱えていた――まだ手では掴めない――ボールを頭の上に両手で掲げた。そして、

「あ・つ・む・さ・ん、バレー・ボール!」

と、口をパクパクと開けて、ジェスチャーで窓の向こうの侑を呼ぶ。上級生に配慮して声を出さずに誘ったが、伝わっただろうか? 一緒にバレーボールをするのが楽しみでしょうがないという無邪気な笑顔を振りまく。おもちゃを取って来た犬みたいな日向に、周りの上級生は微笑ましそうにクスクスと笑っている。
 すると、窓の向こうの侑はなぜか突然立ったまま机に突っ伏した。肩が小刻みに震えているのが見える。

「あかーーーん! 反則やろ!!!」

 廊下にいた日向には聞こえなかったが、教室の中にいたクラスメイトにはしっかり侑の絶叫が聞こえた。何人かは励ますように肩を叩いている。拗らせまくっている同級生に、クラスメイトは優しかった。


 裏庭は、程よく木陰もあって芝生も柔らかいから、日向のお気に入りの練習場所の一つでもあった。もちろん一番は体育館。中学校の時の「練習場所」よりもよっぽど環境は整っている。
 帰りに自動販売機でジュースも買えるし、ていうかぐんぐんヨーグルト初めて飲んだけどおいしかったな、治さん今なにしてるんだろう……と先日の治との会話を思い出していたのが悪かったのか、

「翔陽くーん!」

という声が聞こえた瞬間、顔面でボールを受け止めていた。

「へぶっ!」

 侑が、日向の顔に弾かれたボールを拾いながら呆れたように近寄ってくる。

「相変わらず下手くそやなあ、なんで顔に当たるのか全っ然わからんわ。鼻血でとらん? 侑さんに見せてみい」

「はひ……大丈夫れす、慣れてるので……」

 赤くなった鼻をさすりながら反省をする。ただでさえ技術がないのに、練習中に考え事をしていたからだ。
 「水で冷やすー?」と聞いてくる侑は、しょうがない、という表情をしながら内心日向を気遣っているのが伝わってくる。他に痛む部分がないか頬に手をやり、撫で回すように顔を観察される。日向の目の前にある顔は、今は眉が下がって少し情けない顔になっているけれど、凛々しくも甘い顔立ちで女の子のファンがいるのも納得だ。

 今日も、「変な侑さん」。
 あの日から、侑はずっと「変な侑さん」のままだ。練習中にミスをすれば未だに罵詈雑言で罵られるけど、以前より角は取れたと思う。当社比で。何より、こうやって優しく撫でられたり、笑いかけられることが増えた。空いた時間には、翔陽くん何しとんの、と声もかけてくれる。
 優しいといえば、治もそうだ。ぐんぐんヨーグルト交換記念日から、練習に付き合ってくれたり、練習後は一緒に帰ったりすることも多くなった。無表情で何を考えているかわからないと思っていた時もあったけど、今は少しずつ治の考えていることがわかるようになってきた。頼りになるお兄ちゃんのような感じだ。

 そんな二人の変化に戸惑いはあったものの、二人に優しくされるとなぜだか心の奥がじんわりと温かくなって、もっと話したいなあ、と思うようになった。最近同級生に「甘やかされとんな」と言われるけど、かわいがってくれるのはやっぱり嬉しい。居心地が良いのだ。ただ、シャボン玉のようにふよふよと二人の間で漂うけれど、どこに着地するかわからないような不安もある。この浮かれた気持ちは、一体何なんだろうか。

 侑に顔をいじくられながらそんなことをぼんやり考えていると、侑の背後から最近聴き慣れた声が低く響いた。

「おい、何しとんのや」

 そこには、珍しく不機嫌そうに眉をひそめた治がいた。ジャージを片手に、体育か自主練の帰りのようだ。威嚇するように顰められた表情は、部活中イライラしている時の「怖い侑さん」にそっくりで、思わず息を詰める。

「お、治さん! おつかれさまです!」

「うお、サム何怒ってんねん。翔陽くんがボール顔面に当たってもうたから、優しい先輩が見てあげとるだけや」

「……ボール、当たったんか」

 侑の脇に落ちているボールと日向の赤くなった鼻を交互に見た治は、今やっと二人がバレーボールの練習をしていたことに気が付いたようだ。ハッとした顔をして、遅れて「怪我ないか」と気遣わしげに日向へ声をかける。もう眉間のしわは消えていて、日向は内心ほっとした。それを横で見ていた侑は、ははんというしたり顔で治をからかった。

「はーん、なるほどな。サムの角度からはそういう・・・・風に見えたっちゅうことか。残念やけど、まだ奪ってへんぞ。お前が来なかったらかましたっても良かったんやけどなあ」

「もし本気でかましてたらお前は今頃保健室行きや! こそこそひっつき回りよって、意外とやることセコいねん」

「それはお前やろブタサムが、これみよがしにベタベタしよって! この前アランくんがドン引いとったの知らんのか? あと誰がボコられるっちゅーねん言うてみいや」

「知らんしボコられるのはお前しかおらんやろこのボケが、あ?」

 長閑な昼休みの木陰に、一触即発のぴりぴりとした緊張感が漂う。
 最近は、侑が日向に突っかかることも減ったから侑と治の喧嘩もなりを潜めていたが、ここには頼れる北もアランもいない。日向は二人が何で争っているのか全くわからず、双子の間でおろおろと視線を行ったり来たりさせる。掴み合いが始まる前にどうにかしないと――

 ――キーンコーンカーンコーン。

 そんな時、三人の間の雰囲気を揺らすようにチャイムが鳴った。昼休みの終わりを告げる予鈴だ。あと5分もすれば、生徒はみな教室に戻らなければならない。のどかな鐘の音を聞いて、あれ、と日向は思い出す。

「あーーーっ!! 次体育だった、更衣室行かないと!!」

「!?」

 体育の授業は、本鈴が鳴るまでに着替えを済ませていなければならない。もし時間までに着替えをして集合場所に到着していなければ遅刻とみなされ、唯一の赤点回避科目である体育も赤点になるかもしれなかった。そんなことになったら部活ができなくなる。
 日向が突然叫んだことにビクッと驚いて跳ねる心臓を抑えている双子をよそに、

「侑さん、練習付き合ってくれてありがとうございました! それと、治さんも、今日の部活で色々教えて下さい! あの、おれ体育なので! また放課後!!」

日向は青い顔で勢いよくお辞儀をした後、風のような速さで裏庭を抜けていった。

 日向の疾風怒濤の退場に、侑と治はその後ろ姿をぽかんとした様子で見送った。小さな背中はもう校舎に吸い込まれてしまって見えない。残された二人はお互いに向けていた心の拳を振り下ろした。以心伝心に目を合わせる。「なんや喧嘩する気失せたな」「ほんまや、なんやねんアイツ」なんていう会話が無言のうちにあった。

 しばらくして、脱力したように立ち尽くす二人の間を冬特有の乾燥した肌寒い風が通り抜ける。五時間目の開始まであまり時間もない。
 それにも関わらず、治は不本意そうに口を開いた。

「おいツム」

「なんや」

「お前、恋愛童貞のくせして人付き合いは得意やから、今までそういうのは上手くやってきた方やん」

「誰が恋愛童貞やって??」

「お前や。日向に無駄に突っかかって、小学生かっちゅうねん。このままなーんもなかったらただの嫌な先輩で終わっとったのに。……朝帰りの日、何があったんや?」

「うっさいわ、ええことや。お前がぐーすか寝とる間に――」

「誤魔化すなや」

 治が遮る。牽制球なんぞかましてないでストレート勝負しいや、そう言わんばかりの語気があった。詰るような上目遣いで侑を見据える。侑はその迫力にもう逃げられないと悟ったが、もじもじと口を尖らせて答えた。

「お前には言わん」

 キスしたんか、そう言いかけた治は、先ほどの侑の台詞を思い出す。
 『残念やけど、まだ奪ってへんぞ』。
 なるほど、コイツ、ほんまに好きな子にはぐいぐい行けないタイプなんやな。17年間、知らんかったわ。俺とお前、チャラいキャラでやっとったやん。

「おおかた一緒にねんねしたくらいか」

「…………」

 侑は黙秘したが、それは肯定と同義だ。
 しばしお互いの出方を窺うような沈黙が続いた。先に音を上げた侑が、治を横目に見て、これが本題だとばかりに問いかける。

「……サムこそ、本気なんか」

 本気か。
 生まれた時から一緒だった二人だからこそ、今まで一度も聞いたことも、ましてや言ったこともなかった言葉だった。何でもずっと一緒にやってきた。遊び、ゲーム、彼女、友達、バレーボール――その全てに対して、「本気か」なんて聞かなかった。わかっていたから。

 やって、俺ら、バレーボールだけやってきたんとちゃうの。

 自分自身への問いかけを、治にも投げかける。
 それにも関わらず、全てわかっていると言いたげな口調で一方的に責める治に対して、侑は苛立っていた。侑は治へ挑戦的な視線を送った。

「聞こえんかったか。本気なんか」

「お前には教えん」

「……! こんのクソブタ、あいつの前だけ猫被りしよって、ほんまきしょいねん! 俺は初めて会った時から、翔陽くんをいっちばん高く飛ばすて決めたんや。お前はすっこんどれや!」

「だからなんやねん、バレーボール続ける奴が勝ちっちゅうことやないやろ! お前は前に言ったで、くたばる時に幸せ言うた方が勝ちやって!」

「少なくとも! ……今の、バレー馬鹿のあいつにとっては」

 バレーボールを続ける限りは。

「俺が有利なのは、変わらん」

 自分で言った台詞なのに諦めたように俯く侑を見つめ、治は背を向ける。その表情は侑から見えない。

「…そんなんわかっとるわ、けど別に大したハンディやない。俺は好きにやるで」

「……」

「しかも来週からツムおらへんしなあ、あーあー楽しみやなあ、日向と二人っきりで練習しよかなあー!」

「!! お前、抜けがけは許さへんぞ!」

「それこそ知らんわ。ユース合宿せいぜい楽しんできいや!」

「正々堂々勝負せえ、おいサム聞いとんのか!」

 ぎゃあぎゃあ言いながら二人は校舎へ帰っていく。裏庭には人気もなく陽だまりだけが残り、長い冬休みが始まろうとしていた。



――――――――――



 侑が喚きながらもなんだかんだでユース合宿に向かった後、稲荷崎高校男子バレーボール部にはつかの間の平和が訪れていた。

 日向といえば、

「サッコォーイ!!」

と腕を振り上げて、トスを呼んでいる。
 いつも通りの練習だが、その勢いたるや公式試合さながらの迫力だ。春高常連の稲荷崎高校には、今でこそ高校ナンバーワンセッターと呼ばれる実力を持つ侑がいるが、県でも屈指の才能を持つセッターが集められている。そのセッターから放たれる精緻なトスを、大きく飛び上がった日向が綺麗に決める。

「日向ナイスキー!」

「うおおお、入ったあーっ!」

 コーチから休憩時間の号令があり、部員は一息ついてそれぞれ休息をとる。師走も最中の真冬、外に出てまで休憩したいものはいなさそうだ。
 日向は汗を流すために体育館の裏側にある水道に向かった。外廊下に出ると、刺すような寒気が肌を覆う。故郷の冬を思い出すような凍てつきだった。鳥肌をおさえながら小走りで目的地を目指す。

「あ、治さん!」

 日向は、真向かいからすれ違うように歩いてきた治を見つけた。できるだけ外気に肌をさらさないように大きな身体をジャージの中にうずめているのが何だか可愛い。
 治は日向に気が付いていなかったのか一瞬虚をつかれたようだったが、日向が元気に駆け寄ってくるのを認めて、目で返事をする。上までジッパーを上げたジャージから口を出すと、優しい微笑みで日向を褒めた。

「さっきの、ナイスキーやったなあ日向」

「……! あざっす! 最近おれいい感じなんすよーっ!」

 うきうきと体全体で喜びを表す日向に、治は「みたいやな」と相槌を打つ。わざわざ真冬に体育館の外に出てきた日向の目的に心当たりがあったのか、自分が今さっき来た方向を親指でさす。その先、つまり外廊下の突き当たりには水道があった。ついて来いということか。日向は素直について行く。

「ツムおらんでもブロッカーと勝負できるようになってきとるんちゃう?」

「ハイ、治さんが教えてくれたおかげです! けどまだ空振りすることもあるし、スパイクだけじゃなくていろいろ練習しなきゃいけない……。他にもやることいっぱいです!」

 できないことを挙げていったらきりがない。しかし、できることを確認する機会は意外と少ない。
 他人からの褒貶如何で技量が上がるわけでもやる気が起きるわけでもないが、今のやり方で合っていることを自分ではない誰かに認めてもらうのは、嬉しいと思う。特に、誰かに思いっきり貶された後は優しい言葉が身に染みる。治ほど強い選手から認めてもらうのも誇らしい。

 外廊下を二人で歩きながら、しばらく最近の練習の話や、侑のユース合宿の話を交わす。
 日向は楽しく会話をしていたが、ふと違和感を感じた。治が会話の端々で思い悩んでいるように見えた。日向の窺うような視線を感じてか、治が途中で話をやめて、ぽろりとこぼすように言った。

「俺なあ、高校卒業したらバレーやめてめし屋になるねん」

 ちょうど目的地の水道に着いて、蛇口をひねろうとした時だった。え、と思って治を見上げると、その瞳は静かなのに、どこか試すような色を帯びていた。治の進路なぞ初耳だったが、バレーボールをしていない治の想像がつかなかったから、その告白に驚いた。
 めし屋。ご飯を作るところ。
 貧弱な想像力ではめし屋とはどんな仕事なのかはわからなかったが、何をする場所かはわかる。日向の頭の中で、自動販売機の前で可愛らしくお腹を鳴らせた治が去来する。練習の合間の間食や帰り道のコンビニでおやつを食べている時の治は、それは幸せそうにしていたっけ。その治が、飯を作るという。

「めし屋……! なんかかっけえ……! 治さんにピッタリですね!」

「驚かんの?」

「めちゃくちゃ驚きました!」

「……理由は、聞かへんの」

 ピッタリって何だとか、かっけえってどういうことだとかもう一回言えとか、そんなことが治の頭を瞬間的によぎる。しかし、予想していた答えと全く違う日向の返事に、治は思わず尋ねてしまっていた。何故めし屋になるのか。なぜバレーボールを辞めるのか。日向はそう考えなかったのかと。

 言ってはっとした顔をした治に、日向は首を傾げる。日向の目には、治は理由を聞いて欲しそうには見えなかった。むしろ、少し後悔しているような雰囲気すらあった。だから、無理に話して欲しいとは思わない。
 
「うーん、治さんが話したければ聞きたいです。けど、なんていうか、治さんがめし屋になりたかったからそうするんですよね?」

 脳裏に浮かぶのは、遅くまで練習を重ねる治の広い背中だ。

「治さん、誰かにそうしろーって言われてやる人じゃないですし! だから、治さんが決めたことだと思ったんですけど、ちがいますか?」

 一見おとなしそうに見える治が、実は根っからの負けず嫌いで、こだわりが強く、納得ずくで物事を進める人間だというのは、この短い付き合いの中でも日向はちゃんと理解していた。自己主張は侑ほど激しくはないが、だからといって妥協する人ではない。ましてや、将来の選択肢を適当に決めるわけない。
 治がなぜこのタイミングで日向に進路の話をしたのかはわからない。きっと昔からずっとバレーボールだけをやり続けてきて、今もこんなにバレーボールの上手い治が、高校で別の道を進むことに残念だと思う気持ちも確かにあった。けれども、そんな治がやりたいと思うことなのだから、当たり前だけれども、それは治が納得して決めたことに違いないのだ。
 拙い言葉でも伝わるものがあったのか、治は目を丸くして日向を見つめている。

「やりたいと思っちゃったらしょうがないと思います。おれもバレー始めたの、烏野の小さな巨人を見てああなりたいって思ったからで……その日からずっとおれは勝ちたい、勝ってコートにずっと居続けたいと思ってます」

「烏野……、日向のおったとこの高校か? 宮城やんな?」

「はい。おれまだ下手っぴで、身長は、ま、まだちょっとだけ……! 低いかもしれないけど! それで、後悔とかしてません!」

「やろうなあ、日向、飯食うみたいにバレーしよるし。見てるといっつも腹減るわ」

「ええっ、おれ食べてもおいしくないですよ……!」

「わからんでえ」

 にやりとして大きな口をあける治に、日向は本気で食べられてしまうんじゃないかと思い、治から少し距離をとる。冗談なのか本気なのか、治は侑より少しだけわかりにくい。
 怯える日向に「まあ冗談はおいといて」と前置きをした治は、何かを思い出すように語りかける。

「俺が高校でバレーやめるってことはツムもまだ心底納得してる感じはせえへんし、周りの反対もなくはなかった。やからってバレー手え抜くとかないし、自分の選択に未練もないけどな。……けど、あれや。ツムと日向は、これからもずっとバレーするやろ」

「おれはずっとバレーしてます!」

「ツムもやる。……まあ、そういうことや」

「へっ!? ど、どういうことですか?」

「……ツムは先に俺の前行って、そこに日向はおるけど。俺はおらん」

 それから、しばらくの間があった。日向はさらに首を傾げる。
 言っている意味がほとんどわからない。治を見ても、俯き拗ねたようにしていて、日向の返答はいらないとばかりに目をそらす。耳の端がじんわりと赤い。
 言わなきゃよかったとか、そんなことを思っているのかもしれない。治は案外わかりやすい。

「えーっと……。おれ、難しいこととかよくわかんないですけど、治さんはバレーボールやめないと思いますよ」

「はあ? 何言うてんねん、さっき俺は高校でバレーやめるって言うたやんか」

「はい! 高校でバレーボール部はやめるってことですよね。めし屋になるために。けど、おれ治さんが卒業してからも一緒にバレーしたいです。侑さんも呼んで一緒にバレーしましょう!」

「待って、意味わからんのやけど……」

「あの、バレーボールはなくならないと思います! ボールがあれば世界中のどこでもできます。治さん、きっとめし屋になっても強いんだろうなあ、って思いました。だから、バレーやめるとかやめないとかって、おれにはちょっとよくわからないです。……って、説明になっていますデショウカ」

 だって、日向の想像の中で、コック帽をかぶってエプロンを着た治が強烈なスパイクを決めているのだ。今は上手くレシーブできないけど、治が卒業する頃には取れるようになっているだろう。それを思うと今からわくわくする。挑戦する場所は変わっても、治のやってきたバレーボールはなくならないし、費やした時間は消えない。
 そんな昂揚を伝えようとして、そして多分伝わっていなくて、日向は申し訳なさそうにそろりと治を見やる。

 治は、いつの間にかしゃがんで腕の中に顔を埋めていた。その広い背中は小刻みに震えている。背中の稲荷崎高校の文字がふるふると揺れる。

「……お、治さん?」

 日向が両手を所在なさげにうろうろさせながら治に声をかけると、

「……っふ、くっくっ、ハハハハ!」

治は、しゃがみながら顔を天に向け声を上げて笑った。おかしくてしょうがないという風に片手で頭を抱えている。
 いきなり笑いだした治に日向は目を白黒させるしかない。なにがそんなにおもしろいのかかわらない。けれど、さっきみたいに思い悩んでいるよりはよっぽどいい。治が落ち込んでいるのを見ると、日向もなんだか悲しくなる。戸惑いとは別に、治の笑顔に、安堵が心にじんわりと広がっていく。

 治はすっくと立ち上がると、眉毛を下げて日向へ笑顔を向ける。いつもの見慣れた表情だった。

「あー、むちゃくちゃ笑った。……俺だけ仲間はずれにされてるて勝手に思って、ほんまにアホらしいわ。日向に背中蹴られるとはなあ」

「えっ、おれ蹴ってません!」

 忘れろと言うように、笑いの余韻を残した治がしっしっと手を払うしぐさをする。治はにっかりと口の端を上げた。

「そしたら、バレー終わった後は俺の飯食わしたる」

「えええ、おいしそーっ! おれ、治さんのお店行ってみたいです!」

「俺の店? めし屋言うたけどすぐお店開くわけやないし……けど、日向に言われたらしゃあないなあ」

 腕まくりをする治に、日向は思い出したように空腹を感じた。部活中もゼリー飲料やバナナで栄養を補給するけれど、腹を満たすものではない。今日の夕飯はなんだろう。その前に買い食いしたいなあ、なんて妄想をしながら、おなかすいてきた……と両手で自分の腹を抑える。

 だから、目の前の黒い影に気が付かなかった。

「まあ、これくらいのハンデはもろてもええよな」

 最初、唇に温かくて柔らかい何かが当たったことだけ感じた。その何かは、新雪を踏むように、まだそれが誰にも踏み荒らされていないことを確かめるような動きで、日向の唇をなぞる。その垂れた目を甘く細めさせて、こちらをじっと観察する黒い瞳と目が合う。

 唇同士がぴたりとくっついている。ややあって、日向は治にキスをされていることに気が付いた。

 慌てて身体を仰け反らせると、下から覗くようにしていた治が背筋を伸ばして追いかけてくる。知らぬ間に、腰を支えるように治の腕が回っている。今度は上から覆うように口づけられて、治の腕の中でされるがままだ。
 治の上唇と下唇が、日向のそれを挟んで柔らかく食む。感触を堪能されていることに気が付いたが、身体を硬直させるしかできなかった。唇に感じる、温かくて柔らかい感覚だけが身体を支配する。目をギュッと閉じていなければ、治が楽しそうにしているのが見えただろう。ふふ、と笑われたときの吐息だけを感じた。

 数瞬か、数秒か、数十秒か、日向が時間感覚も全く失った頃に、治は日向から離れていった。離れ際、別れを告げるかのごとく、治に唇をかぷりと噛まれたのに喉の奥から悲鳴がこぼれる。恥ずかしさで真っ赤な顔を上げると、優しく笑った治が「かわええ」と囁いた。宝物を見つめるかのような、慈愛に満ちた眼差しだった。

「先戻ってるで」

 その熱を確認するかのように治は左手を日向の頬に滑らせる。そのままその手をひらりと空中で振ってゆったりと帰っていく後ろ姿に、日向はしばらく立ったまま呆然としていた。
 何があったのか、ようやく理解した頃には、治の姿は体育館の中に消えていた。



――――――――――



 その変化に気が付いたのは角名だった。
 日頃から人と距離をとって冷静に周りを見渡している性質が功を奏してか、普段うるさい程元気な後輩がおとなしいことよりも、いつもと変わらない同級生の仏頂面が二割増凶悪になっていることをいち早く察した。最近日向の様子が変なことはバレー部員も気が付いていて、心配をしていた。可愛がっている後輩を励ます先輩達の姿もあった。だから、皆治が普段より口数が少なかったり、ありえないサーブミスをしたりするのを見落としていたのかもしれない。

「なに、侑と冷戦中なの」

 滅多にない親切心をきかせて、角名はぼーっとボールを持っている治に声をかける。理由はわからないが、大方バレーか飯か侑だろう。侑がユース合宿から帰ってきたばかりだから、時期的に侑が原因であると予想していた。

「いや、ツムとはなんもない」

 憮然とした顔で返答をした治は、侑は関係ないと言う。侑とは、と言ったから違う誰かなのだろう。生気のない目で見つめるその視線の先をつつーっと辿っていくと、オレンジ頭の後輩がいた。同級生に囲まれて話しかけられつつも、同じくぼーっとしている。こちらも相変わらず覇気がない。

「……ああ。そういうこと」

 主人と犬と称したように、治と日向は最近とみに仲睦まじく練習に励んでいた。治さん治さん、とついて回る日向も和ましいが、先輩面をした治が辛抱強く指導しているのを見るのも面白くて、角名はしんどい部活中の密かな楽しみにしていたのだ。最近は侑も二人の輪の中に入ってきて、ぎゃあぎゃあわいわい楽しそうにやっていた。最初はあからさまにつっかかっていたのに、翔陽くん暇やったら一緒に練習しよお、なんて甘えている侑がおかしいったらない。厳しい練習メニューをこなす部活中は、暇な時間なんてないのに。
 大抵は先輩に怒られて解散するも、いたずらっ子のように生き生きとした笑顔を見せる双子と、きゃらきゃらと無邪気に笑い声をあげる日向に、銀島なんかは「青春やなあ」なんて言っていた。

 そういうこと、と言ったのは、治と日向の不調がお互いが原因であると悟ったからだ。日向がおとなしい理由はまだ誰も聞き出せていなかったが、合点がいった。何があったから知らないが、喧嘩でもしたのだろう。
 珍しく落ち込んでいるようにも見える同級生に、角名は柄にもなく戸惑う。慰めるべきか、放っておいて解決を待つか。からかえるような雰囲気ではない。事情を知らない誰かが見たら、きっと無表情のデカい男二人が並んでいるだけの光景のはずだ。しかし、角名は内心焦っていた。

 そんな時、ウォーミングアップをしていた侑が日向に向かって近付いて行くのが見えた。ユース合宿明けで久しぶりに日向に会えたのが嬉しいのか、侑は嬉しそうにニヤニヤとしている。

「翔陽くん久しぶりやなあ、元気しとった? サムにいじめられんかったか?」

 片割れの浮かれた声と台詞に、隣の治がぎろりと侑を睨んだのを角名は感じた。侑はスキップでもしそうな機嫌の良さで日向に絡んでいる。

「……! ひゃい、侑さん、おつかれさまです! あの、おれ、元気です!」

 一も二もなくトスをねだると思っていたのに、日向はまるで転校したての頃のように怯え戸惑ったような様子だ。緊張しているように見える。日向は慌てながら何かを探すように首を回したと思いきや、

「あ、アランさーん!!」

「うおっ!? な、なんやねん日向いきなり!」

と、少し離れた所で同級生と話をしていた尾白に駆け寄っていく。脱兎のごとく侑から逃げ出した日向は、その大きな背中から身を守るように身体を隠した。アランが背後の日向を覗き込もうと身体をひねるが、すばしっこく動き回ってポジションをキープしている。
 誰から見ても、侑を避けているとしか思えない反応だった。

「……………え? なに?」

 残された侑は、日向に挨拶したときにあげた片手をそのままに、尾白の後ろに隠れた日向をぽかんと見た。
 動揺のせいか固まってしまった侑から周りが気まずそうに目をそらす。日向、治さんにもああいう感じなんですよ、最近むちゃくちゃ大人しゅうて変なんですわ、なんてついさっきまで日向に話しかけていた同級生がフォローする。どういうことや?なんて聞く侑はショックを隠しきれていない。

 双子思いっきり避けられてるし、と角名は隣の治を横目で見た。治は「ぶふっ」と笑いを堪えきれず肩を震わせている。自分のことは棚に上げても、侑の間抜けな立ち姿が面白かったようだ。

「いや、笑ってる場合じゃないでしょ」

 だって、これ絶対双子の機嫌悪くなるパターンじゃん。
 そして、角名の予想は奇しくも当たった。



「日向、ちょっと時間いいか」

「は、ハイ!!」

 日向は部活の練習中、キャプテンである北から声をかけられた。パスの練習をしていた手を止め、相手をしてくれた同級生に目配せした。北はついてこいと言わんばかりに日向に背を向けている。日向は後を追った。

 理由は何となく予想がついている。双子に対する態度のことだろう。思い当たる節しかなくて、けれど日向は体育館の外へ向かう北についていくしかない。しゅんと項垂れながら歩いていると、北は「ここでええか」と言った。考え事をしている内に、いつの間にか体育館からほど近い部室に着いていた。日向は密室に北と二人きりで、しかもこれから恐らくお叱りを受けることに身を強ばらせた。
 決して狭くない部室に、北のよく通る声が響く。

「わかっとると思うけど、日向と双子のことや」

「……ハイ」

 いたずらがバレて怒られるのを待つ子犬のように震えている日向に、北は容赦なく切りかかる。

「先輩と後輩が仲良うしとるのはええことや思っとんねん。技術の継承にもなるし、チームでやるスポーツやからチームワークも上がる。けど、それは練習をちゃんとやっとることが大前提や」

「……ハイ」

「日向は最近練習中惚けとるし、何より日向に避けられてる双子の機嫌が最悪や。別に双子の機嫌が乱高下するのは今に始まったことやないけど、周りの奴らがやりにくそうにしとるのはわかるよな?」

「………ハイ」

「そうなるとせっかくの部活も身に入らん。学生やっとる以上部活に対して限られた時間しか与えられないのに、その時間無駄にしてどうするんや」

「…………ハイ」

 おれはハイしか言えなくなってしまったのではないか、そう錯覚するほど日向は北の正論に追い詰められていた。背中にじんわりと汗がにじむ。いつのまにかベンチの上に正座していた。
 どうしてこんな事態になってしまったのか、なんてわかりきっている。

 治にキスをされた日から、身体がおかしくなってしまったのだ。

 あの日は散々だった。
 治にぐちゃぐちゃに乱された心臓と気持ちを落ち着かせようと顔を洗って体育館に戻ったものの、気を抜くと、治の甘い笑顔と温かい唇の感触が戻ってきてしまう。自分の唇を触って、こんなに柔らかかったのかな、なんて妄想をしていたら、レシーブは空ぶるわ、赤い顔をしているのを理石に心配されるわ、傍から見たらおかしかったに違いない。
 しかも、治は何事もなかったかのように「日向、こっち来や。サーブ教えたる」なんて話しかけてくるから、自分だけ動揺していることに余計恥ずかしくなって、その有難い申し出を断った。

 寝たらこの混乱する気持ちも落ち着くかと思いきや、部活の時間になって治と会うとあのドキドキが復活してしまっていた。
 お疲れさん、と言われると、その薄い唇が自分に優しく触れたことを思い出す。思い出すと、心臓が脈を打って、腹の真ん中がきゅうっとよじれる感じがする。唇を見ないようにするために意識して他のパーツを見ても、優しく細められた黒い瞳に見つめられたことや、太い腕を腰に回されたことが思い起こされて、ああ、おれ治さんとキスしちゃったんだ、と思うと、いてもたってもいられなくなった。

 さらに輪をかけて拗れてしまったのは、日向が治だけではなく侑も意識してしまったことだった。

 ユース合宿から帰ってきた侑が手を振って寄ってきた時、その目は、幸せそうに垂れ下がって、きらりと甘やかな輝きを放っていた。宝物を見つけたような眼差し。それは、あの日の治が日向を見つめた時と同じものだった。
 それがわかった瞬間、思わず近くにあった一番大きいもの――尾白の背中に隠れていた。侑から見えなかったことを祈るが、きっと湯気が出るくらい顔が真っ赤になっていただろう。気が付かなかった、いつからあんな風だったのだろうか。

 いきなり避けられて二人をびっくりさせただろうな、とわかっていても、二人と目が合うと身体中がふにゃふにゃとして、まともじゃいられなくなる。心臓が早鐘を打って、そのまま視線に囚われていたいような、逃げ出したいような、そんな気分になるのだ。自分が自分じゃなくなるような、こんな感覚は初めてだ。だから、しばらくあの視線から逃れたいと思った。

 思い出しただけで頬が熱くなってきたような気がして、外に出て冷たくなった手の甲をあてる。そんな日向を北が不思議そうに見ている。

「なんでそんなんなったか――」

「……!」

「なんてことは、俺が知ったところでなんの解決にもならんから聞かんけどな。お前らが一緒におらんと心配する人間もおるし、部内の雰囲気が悪なっとるのも事実や。早く仲直りしてちゃんと練習に集中しいや」

「わかりました……。あの、北さん、すみませんでした」

「俺に謝ってどうするんや。アランあたり心配してたから、後で話しに行ったらどうや」

 自分のことばかりで、他の人の心情や部内の雰囲気を気にする余裕がなかった。
 尾白にはたまに背中を借りているが、何も理由を聞かないのは慮ってくれていたからか。そういえば、最近ちらっと見た侑と治は、イライラとしていつも通りのプレーが出来ていなかった気がする。
 日向は北の言葉で、ようやく状況を理解した。そして、自分が周りを振り回していることについて深く反省した。

 正座をして小さくなっている日向を見て、あとは双子やな、と北は小さく呟き、そのまま部室を後にした。パタン、と扉が閉められたあとの部室は、整理整頓されているが少しかび臭い。暖房もないからしんしんと底冷えするような冷たい空気が充満していた。

「あーーーっ、おれのせいで部活の雰囲気が悪くなっている! 反省! 反省!」

 日向は冷たくなってきた頬を二回ほどはたき、自らを戒めた。

 侑さんと治さんとは、今まで通り付き合っていこう。治さんとのキスは、難しいけど、がんばって忘れよう。侑さんがあんなに甘えさせてくれるのも、きっと後輩を可愛がってくれているだけだ。侑さんと治さんはかっこいいし女の子にも人気があるから、おれにしたのは遊びの延長線なんだ。

 自分に言い聞かせながら、日向はなぜか胸の底から煙のような苦い苦しみがたちこめてきたのを感じたが、それには気が付かないふりをした。
 心を新たに、日向がすっくと立ち上がる。

 その時、聞き慣れた音楽が耳に入る。

 8ビットの単調なメロディは、日向の携帯電話の着信音だった。マナーモードにしていたが、切り忘れたのか、着信音が部室に大きく響き渡っている。変な時間の着信に首を傾げたが、もしかしたら緊急の用事かもしれない、そう思って日向は自分の鞄から携帯を取り出した。

「はい、もしもし――……」