# 02



「結局はただのド下手くそやったけどな」

 テスト期間も明け、ようやく日常を取り戻した稲荷崎高校の体育館の一角で、侑が口を開く。すかさず、同じく休憩をしていた銀島が横から口を挟んだ。

「そう言うてやらんと。最初は誰だって初心者やろ」

「フン、うちに下手くそはいらんねん」

 稲荷崎高校男子バレーボール部二年生で最も――消去法ではあるが――後輩思いと言ってもいい銀島が呆れたようにため息で返事をした。この話聞くの何回目やったっけな……そんなことを思い出しながら、侑の機嫌を直す方法を考える。侑は気分にムラっ気があり、部活中にテンションが下がった時は本当に面倒臭かった。銀島の励ましも双子の治の挑発も役に立たず、最終兵器であるキャプテン北を召喚しなければならない。それだけは絶対に避けたい、銀島はそう考えていた。
 そんな銀島の心労をよそに、たくましい喉仏を上下させながらスポーツドリンクを飲む侑は不機嫌そうな顔でヤンキー座りをしている。そのガラの悪さたるや、後輩や同学年は愚か、先輩である三年生すら寄せ付けない。

 ――日向翔陽、その人以外は。

「侑さん! トス! トス上げてくださああい!!」

 稲荷崎高校男子バレーボール部のモチーフカラーであるえんじ色のジャージを身にまとったオレンジの毛玉が飛び込んできた。成長の伸びしろを考えて大きめのサイズを選んだのか、余ったジャージの袖をだぼつかせて走りよる男は、最近宮城から転校してきた一年生部員である、日向翔陽だった。
 日向の姿を確認して、侑がぎくっと身体を揺らし立ち上がる。

「ほんっっっましつこいわ! レシーブとトスとサーブとディグ一通りできるようになってから出直してこいや!」

「ええ!? けど、今スパイク練ですから、10本…いやせめて5本だけ! トスあげてくださああああい!!」

「うおっ、ぴょんぴょんぴょんぴょんまとわりつくなや! だあーっ!!」

 小さい身体とその抜群の運動神経を活かして侑の逃げ道を防ぐように周りを飛び跳ねていた日向は、痺れを切らした侑に投げ飛ばされている。軽やかな身のこなしで綺麗に着地し、慣れた足取りで戻ってきて、キラキラした顔で侑を見上げた。

「おれ、侑さんのすっげートス打ちたいです! フワッときてバシっと手に来るやつ、お願いします!」

 その直射日光を浴びた侑は、「うぅっ……」と言いながら目を細めている。眩しい。
 侑の不機嫌を察知して遠巻きに様子を窺っていた他の部員も侑と日向のやりとりを面白がって、「侑あげてやれやー」やら「日向危ないからこっち来いや」やら声をかけてくる。先程まで侑の機嫌取りのために密かに頭を抱えていた銀島は、どこかほっとしたような表情だ。

 稲荷崎高校男子バレーボール部は、インターハイや春高の常連校として常に結果を求められる。兵庫県だけではなく他県からも有望な選手をスカウトしているため、多くの部員がいながら殆どが推薦やスカウトで占められていた。だから、日向のような推薦もスカウトもなく身一つで飛び込んでくる選手は限られている。当然そういった選手は肩身が狭い思いをするわけだが、日向はそんなことはお構いなしだった。
 出身である宮城県でもバレーボールをやっていたというが、正直言えばバレーボールの技術そのものは初心者レベル。けれども、持ち前の明るさと人懐っこさ、そして、その運動神経とポテンシャルに支えられた、偶に見せる人の心を沸き立たせるようなプレーで、転校して数ヶ月でバレー部のアイドル、もといマスコットになっていた。やる気は人一倍だから、二、三年生だけでなく一年生も思わず手を貸してしまって、今や「下手くそだから」と倦厭しているのは侑くらいだ。

 そして、侑も侑で強情だった。
 ちょろちょろと動く日向の前頭部を長い腕で距離をとるように掴みながら、突き放すように言い放つ。

「スパイクだけで勝ちよるほどバレー甘ないねん! 俺がおらんとまともな試合も出来んクセして、他のセッターと合わせる練習でもしたらどうや? 下手くそやから無理やろうけどな!」

 頭を掴まれたまま、日向の身体がひくりと波打つ。冷たく言い捨てられた侑の台詞に、体育館の空気が凍てついた。
 配慮を一切感じさせない物言いに対してそばに居た銀島が、

「おい、侑お前ええ加減――」

と言いかけたその瞬間、ぬっと黒い影が差した。

「言いすぎや、こんポンコツが」

 侑と瓜二つの顏に、鈍色につやめく銀髪の男。
 侑の双子の兄弟である宮治だった。
 その喜怒哀楽を読み取らせない瞳は重たげに下げられた瞼が覆っていて、怒っているのか呆れているのかわからない。ただ暴走気味の侑を諫めに来たのは確かだった。
 侑はうざったそうに治を振り返る。同じ顔の造りのはずなのに、向かい合う相貌は異なった様相を呈している。

「あ? お前には関係ないやろ、母親か」

 二人の間で静かに火花が散った。
 日向の「恒例!怪物トスねだり」に和んでいた体育館の空気が再び凍りつく。勘のいい部員はストッパーの所在を確認し出した。北さんどこや、今日は休みらしいで、なんでや風邪かい珍しいな、いや家の用事らしいねん、まじかどうすんねん等々、体育館の端っこでさざ波が立つ。

 日向は、治のさらに向こう側から同級生が数人こちらをそおっと覗いているのを確認した。仲間が肉食動物に襲われているのを恐怖で見ていることしかできない小動物のように震えていたが、きっと彼らが治の背中を押してくれたのだろう。
 睨み合う侑と治に気取られないように、日向はぐっと親指を立てた。おれがこの二人を止めるぜ、そうサインを送ったはずなのだが、同級生達はあわあわとした表情で日向の後ろを指さす。その指先を辿ると、いつの間にか胸ぐらを掴みあっていた双子がいた。

「母親なわけあるかァ! お前がそんなけったいな態度とるから部活の空気が悪なっとるの気付けや!」

「俺は下手くそに下手くそ言うただけや、アランくんにバレー上手い言うのと変わらんやんか! 何が違うねん言うてみい! あァ!?」

「変わるわボケ! 屁理屈こねとるんやないぞ、説教なら時と場所と言葉を弁えろ言うてんねん!」

「屁理屈やない、事実や! ちゅーかサムがいちいち出張ってくんなや!」

「わああーーっ、お二人とも! おれのために争わないで下さい!! ストップ!!」

「お前のためやないわボケ!!」

 日向の懸命な制止も二人は全く気にも留めず、やがて体育館の開放されたドアから見物人が集まり始める。「バレー部名物双子乱闘や!」「どっちが先にダウンするか焼きそばパン賭けるで」「日向がんばりや!」なんていう声も聞こえてきて、もはや恒例行事と化した騒動に部員たちは肩を落とした。

「双子乱闘ファイルNo.6……っと」

「いや角名お前タグ付けしとる場合ちゃうぞ」

「いいじゃん。将来侑がプロになったら売れるし」

「性悪か!」

 気心の知れた角名は二人が取っ組み合いの喧嘩をするも慣れたもので、離れた場所からスマホで撮影していた。細い目を三日月のようにさらに細めてしたり顔だ。うまく部活をサボれるとすら思っているに違いない。
 こうなったら手の施しようがない、と早々に諦めて避難してきた銀島が角名の操る画面を上から覗き込んだ。そこには、「#稲高双子乱闘トトカルチョ #6thbattle #タップして投票」というポップな文字が踊っている。


「お前が主催者やったんか!!」


 銀島の叫び声が秋空に高く響いた。



――――――――――



 双子が保健室送りになる一歩手前のところに駆けつけた尾白アランの手腕によって事なきを得たバレー部は、喧嘩の余韻をしぶとく残す双子の険悪な雰囲気に呑まれ、何となく後味の悪いままその日の練習を終えた。

 双子の言動如何で練習の雰囲気が左右されるのは部員にとって慣れっこだったが、その日は日向に対する侑の暴言が諍いの原因だったから、侑は針のむしろだった。ちくちくとした視線にさらされた侑は流石にいたたまれなくなったのか、一足先に帰宅した。心配したアランが後を追ったが、追いついたとしても機嫌は直らないだろう。今回の騒動の原因であり責任もある侑を宥めに行くアランを、部員達も、アランは双子には甘いよなあ、なんて言って苦笑いしながらいつも通り見送った。

 一方、被害者である日向は双子の乱闘後もあっけらかんとしていて、帰り際に何人かから心配の声をかけられていた。
 頭を撫でられながら「大丈夫です! あざーっす!」と笑顔で返事をする。多くは見慣れた笑顔に安心して、機嫌悪い侑には近寄るなとか、怖かったら大人を呼ぶんだぞとか、小学生に言い聞かせるようにアドバイスを残していく。必要以上に気遣わしげにしていた先輩もいた。その先輩は、以前日向に「お前を見とると実家のクリ丸を思い出すねん…」と涙目で訴えてきた先輩だ。不本意な褒められ方をしているのは分かったから、詳しくは聞かなかったけども。というか、褒められているのかさえ怪しい。

 一年生達が部室の後片付けを終えて、帰りのあいさつもそこそこに、練習の疲労かよたよたと方々に散っていく。日向は実家から通えないため寮生活を送っていたから、学生寮に帰宅する。


 敷地の端っこにある部室棟から校門までの静かな道で、枯れた落ち葉を踏みしめる音が鳴る。
 学生寮までの短い帰り道、日向の頭の中で侑の言葉が響いていた。

『スパイクだけで勝ちよるほどバレー甘ないねん! 俺がおらんとまともな試合も出来んクセして、他のセッターと合わせる練習でもしたらどうや? 下手くそやから無理やろうけどな!』

 言い方は厳しかったけれども、言ってることは全部正しかった。……いや、言い方は厳しかったけれども!

 だって、今は飛ぶことしか取り柄がないのだ。
 どうやって自分より背の高い奴より、早く、高く、長く飛ぶか、そう試行錯誤してはいるけれど、これぞというアイデアは思い浮かばない。侑さんの天才的なセッティングがない限り、相手のブロックを騙すことは難しい。おれはチビだけど飛べる。けれど、2メートルあるヤツがおれと同じくらい飛べたらどうなる?どうやって出し抜く?――わからない。

 足りない頭をフル回転させて考えるものの、一人で考えるには限界があった。だから、自分を飛ばしてくれる唯一のセッターに正面から現実を突きつけられると、一生懸命登っているハシゴを急に外されたような、足がひゅっと竦むような気分になったのも確かだった。
 うーん、どうしたら侑さんにトスあげてもらえるのかな。頭と、ついでに身体もひねる。

 そんな時、静かに思考する頭が、ブーン、という機械音を捉えた。

 顔を上げると、見慣れた白い自動販売機があった。昼休みの自主練の後にいつもこの自動販売機に立ち寄ってジュースを買っていたから、良く覚えている。校門に向かう道すがら裏庭に出たらしいことに、今になってはたと気が付く。いつも陽光がさんさんと降り注ぐ裏庭は、西日で真っ赤に染められていた。

 その茜色の中で、自動販売機と背丈の変わらない影が、太陽と反対の方角にすらりと伸びていた。

「日向やん。お疲れさん」

 その影は、喧嘩の名残なんて微塵も感じさせないほどけろりとした治だった。
 重そうなリュックを背負って、自動販売機の前で仁王立ちしている。首だけ傾げてこちらを見ていた。薄暗い光が治の凛々しい顔に絶妙に陰影を施していて、なぜか一人稽古中の武士を覗き見してしまったような、少し気恥しい気持ちがした。
 反射的に背筋を伸ばし、慌てて傍に駆け寄る。

「お! 治さん、お疲れさまです! さっきはあじゃっした!!」

 噛んだ。
 なんでここで噛むんだ、おれ!

 同級生の理石に「今度お礼言っとくんやで」と言われたものだから、明日の放課後にお礼をしようと思っていた。学校はおろか、部活中も中々接点がなく喋りかける機会がないから、いつ話しかけようかと悩んでいたところだったのだ。まさか、こんな所でばったり出くわすとは……そんな気持ちが全面に出た結果の敢闘賞。
 あわあわと慌てた日向の様子が面白かったのか、警戒する猫をあやすように、治がその相好をふっと柔らかく崩した。

「別にそんな慌てんでええよ。さっきのも、日向のためだけやなくてバレー部の雰囲気が悪なってたのもあるし」

「あ、ハイ。けど……ありがとうございました!」

「ツムがいっつも日向に強くあたるやろ。一応身内としては申し訳なく思っとんねん。すまんな」

「ハイ! イイエ!」

「どっちやねん!」

 勢いよく突っ込みをする治に、日向がぴゃっと毛を逆立たせた猫のように飛び上がる。思わず突っ込んでしまったのか、治は「日向は関西のノリに慣れてへんかったな」とバツが悪そうに謝り、目で話の続きを促した。

 促されて、自分の足元へ静かに視線を落とす。
 この高校に転校する前に宮城で買ってもらった白いスニーカーが目に入った。身長と同じで中々大きくならない足のサイズも、自分の伸びしろを告げているようでもどかしい。自分に言い聞かせるように呟く。
 治さんはおれに悪いと言ったけれども。

「……けど侑さん、間違ったこと言ってないです。おれ、もっと強くなりたいから、もっともっと練習します」

 雑木林の影に半分ほど体を飲み込まれながら元気なく独白する日向に、治は目を丸くする。その呟きは、部活中の跳ねるような明るい印象からは想像もつかないほど、心細い響きがあった。
 治は日向と出会った時の仁王立ちのまま、自分より頭一つ分低いオレンジのつむじを見下ろす。その表情は治から一切読めない。初めて見る日向の姿だった。思ってたより日向は堪えてるのかもしれない、そう心配して、治は日向の顔色を窺おうと身をかがめた。

「それで!」

「おわっ!?」

 危うく頭がぶつかりそうになった治が、素早い条件反射で上体を逸らす。日向ががばっと頭を上げたからだ。
 危ないやろがと非難する視線を遮って、意思の強いアンバーの瞳は、治をまっすぐ見据えて言った。

「たくさんたくさん練習して、上手くなって! おれは、侑さんも――治さんも、皆倒します!!」

「はあ?」

「ヒェッ! あ、あの、いずれ! いずれの話ですケド!」

 思い切って面を上げると、銀髪の大男が顔をゆがめているのを目前にして震え上がった。ベージュの鞄を胸の前に盾のように掲げて身を守る。あまり防御力は期待できなさそうだ。
 やばい、本人を目の前にして言ってしまった、しかも普段あんまり話さない先輩に対して大それたことを……! ゴメンナサイ食べないで!
 体の芯から冷や汗が出る。高らかな宣戦布告も台無しだ。

 治は不可解なものを見る目でわあわあと騒いでいる日向をじっと見たあと、一瞥して、「なんや心配して損したわ」と低く呟いた。日向は聞こえなかったようで、「なんですか?」と聞き返している。
 治は、気を取り直したように背中をひょいと丸め、目の前の自動販売機を指さす。

「ん」

「ん?」

「詫びやないけど、ツムの代わりに先輩がおごったるわ。好きなの選び」

「!」

 治は、飲み物を奢ってくれるという。面倒見が良いようには見えなかったが、ザイアクカンというものがあるのだろうか。けれど素直に嬉しくて、お気に入りのジュースを指名しようしたら、

 ――ぐうううううう。
 静かな裏庭に、間の抜けた音が響く。

 一瞬の間。

 ………え? 今のってお腹の音だよな?? 思わず自分の腹を抑える。おれじゃない。
 それなら誰だ?
 きょろきょろと音のありかを探していると、目の前に立っている人物が、居心地悪そうにもぞもぞと動いた。

「……腹減っとんねん」

 それは、治の腹の音だった。
 気まずそうにそろりと目線を外し、心なしか顔を赤らめて付け加える。頬に差す朱色が夕焼けのせいではないことは、日向から見ても明白だ。

「……! ぶはっ!!!」

 思わず吹き出す。
 完璧なタイミングで相槌をうった腹の音があまりにも可愛らしすぎて、頑張って堪えたけれども笑い声が漏れ出てしまった。治のきまりの悪い顔もおもしろおかしい。

「…………」

 治は腹を抱えた日向を、恥ずかしさと悔しさと気まずさが綯い交ぜになった複雑な表情で見ていた。傍から見れば睨んでいるように見えるかもしれない。幼く見える日向が横にいるから、カツアゲと言われてもおかしくなかった。
 しかし、治が、カッコつかんかった、そう落ち込んでいるのが日向にはわかった。瞳は言葉より雄弁だ。恥ずかしいのか、目の端にがわずかに赤い。今日の取っ組み合いの時の厳しい表情とも、練習中の落ち着いた表情とも違う。

 普段は近寄り難くて怖い先輩の、意外な一面を垣間見てしまったかもしれない。

 それは、ライオンがぺろぺろと猫のように毛づくろいをしているのを偶然見つけてしまったかのような、胸の奥が温まるような気持ちだった。
 治さんって、全然怖くないじゃん!
 ついさっきまで怯えていたのが嘘のように、目の前の先輩に親しみが湧いてきた。

「んっふふふふ。治さん、何がオススメですか?」

「オススメ……?」

 そんな言葉は初めて聞いたというように繰り返す治。
 今度は日向が自動販売機を指をさす番だ。
 どれが治さんのオススメですか?

 しばらくの間沈黙が続いた。

「…………コレやな」

 憮然とした顔のまま治が静かに指さす先は、白い紙パック。
 選ぶまでに相当時間がかかったから、”一番の”オススメを決めかねたのだろう。日向は、一番好きなゲームを聞かれて、見たこともない苦渋の表情を見せた東京の友人を思い出す。本当は全部オススメなのだ。治が意外とわかりやすいというのはさっき知ったばかりだから、考えていることも何となくわかってきて、さらにふふっと笑いがこぼれる。
 鞄から出した財布から、自動販売機に小銭を入れる。そして、治が指した先のボタンを押した。

「はい!」

 ガコンと落ちてきたジュースを取り出して、治の胸に押し付ける。困っている時に助けてくれる、見た目より可愛らしい先輩へのささやかなプレゼントだ。

「これ、今日のお礼です。おれ、治さんのこともっとグオーってかんじの怖い人だと思ってたけど、全然違いますね!」

 強い西日が裏庭を横切って日向をさんさんと赤く照らす。治へささやかなプレゼントを差し出す日向は、太陽のような笑顔を浮かべていた。
 へへ、なんて軽快に笑って日向はさらにぐいと紙パックを押し付ける。治は、毒気を抜かれたのか、思わずといった雰囲気でそれを受け取った。あまり表情を崩さないその相貌は、今はぽかんと口が開いている。初めてそれに触ったかのような、不自然な体勢で固まっていた。

「……ぐんぐんヨーグルトや」

「ぐんぐんヨーグルトって言うんですね、その治さんのオススメ!」

「俺がおごるって、言うたやん」

「イイエ、俺もおごります!」

 日向の一方的な宣言に、治は笑い出す。

「ふはっ、なんやそれ意味ないわ!」

 口元に手をあてながら小刻みに身体を揺らしている治は、せっかくあげたジュースに手をつけない。なにがおかしいのか、無邪気な子供のように笑っている。もしかして、今はぐんぐんヨーグルトの気分じゃなかったのかもしれないな。けれど、オススメなら是非試してみたい。自動販売機に向き直り、自分も同じものを買おうと財布のボタンを外した、その時。

 新たに小銭を入れようとした手は、一回り大きな手に覆われた。

 顔を上げると、いつのまにか近くに寄っていた治が日向を見下ろしていた。
 財布ごと握られた分厚い手から、じんわりと温かい体温が伝ってくる。手のひらは、硬くてさらさらだ。日が落ちかけていて日向からは逆光で見えにくいけれども、治は優しい笑みを浮かべている気がした。

「俺にもおごらせてな」

 日向は、ふとバレーしてない時の治さんってこんな感じなんだろうな、と思った。部活中の張り上げた高い声や、侑と喧嘩をしているときの低い唸り声じゃなく、もっと何も無い声。人はそれを穏やかな声色と言うのかもしれない。今の治は、そんな力の抜けた空気を纏っていた。
 日向は「それじゃお礼した意味ないです!」と言い張ったが、先輩の顔を立ててくれとか、今度また奢ってくれとか言う治の口八丁に誤魔化されて、紙パックを手渡される。 その日は帰り道の途中まで二人でぐんぐんヨーグルトをちゅうちゅうしながら帰った。


 その日をきっかけに、日向と治は自然と一緒にいるようになった。
 というか、日向が治にひっついていると言う方が正しいかもしれない。裏エースと呼ばれるポジションにいる治の技術を盗みとろうと、日向は治について回った。治も治で尊敬の眼差しを一身に受けて悪い気はしないのか、なんだかんだ言いながら日向にバレーを教えてくれた。

「治さんっ! インナースパイクのやり方教えて下さあああい!」

「おー、日向。ほな助走から教えたるわ、こっち来いや」

「うおおおおお!」

「おい! 助走は早ければええんとちゃうぞ!」

 インナースパイクは通常のスパイクより早めに助走をする、そう教えられた日向はネットに突進するがごとく走り出す。しかし、治がふわりとあげた短いトスに食らいつくやいなや、ぺしっという情けない音と共にボールはネットにひっかかった。

「うおおおおお……」

「やから言うたやん」

 インナーどころかまともなスパイクすら打ち損じた日向が恥ずかしそうな顔で落ち込んでいるのに対して、治は呆れたようにうなだれた。しかし、その台詞とは裏腹に、治は仕方ないなあと肩をすくめ笑っているようにも見えた。

 そんな二人を隣のコートからじっと観察していた角名が誰に尋ねるわけもなく一言、

「なに、治はペットを飼い始めたの?」

と漏らした。
 角名に同意するように、周りにいたバレー部員達が、笑いをこらえながらこくこくと首を振る。

 稲荷崎高校男子バレーボール部員が抱えていた治のイメージといえば、飯とバレーしか興味がないイケメン、というもので、まさか後輩を可愛がるなんて想像もできなかった。ところが、隣のコートで日向のスパイクフォームを見ている治は穏やかな微笑を湛えている。これを可愛がると言わずなんと言おうか。それはさながら、いつも会社を定時で上がる気難しい同期が、実は会社帰りに愛犬のポメラニアンとドッグランで戯れている光景を覗き見てしまったような、そんな動揺と安心感が体育館じゅうに広がっていた。

 そんな中、ざわめく体育館の空気に気付かない治と日向に近づく人影があった。

「おい、次練習試合やぞ」

 声をかけたのは侑だった。ポケットに手を突っ込んだままつまらなさそうに立っている。昨日の侑の言葉を思い出し、日向はぎくりと身を強ばらせた。

 今日も「怖い侑さん」だ。
 日向は心の中で呟く。

 バレー部の先輩は皆優しかったけれども、侑はミスをするたびにいっとう厳しく日向を詰った。もちろん日向とて自分の下手さ加減は自覚しているし、真剣にバレーをやる以上、怒られることは受け入れるつもりだ。また、侑は元々自他ともに厳しい人間だというのも知っている。しかし、なぜか日向に対しての当たりが強いのもまた事実であった。
 たまにご機嫌な日もあって、そんな日はにこにこと楽しそうに練習に取り組むから、日向も他の部員と一緒にほっと胸をなでおろす。その日の侑さんは、「優しい侑さん」。日向はその日の侑の機嫌を瞬時に読み取り、「怖い侑さん」と「優しい侑さん」で呼び分けることにしていた。もちろん心の中だけだ。

 治は片割れの不機嫌など日常茶飯事なのか、特に何を言うでもなくこくりと頷いた。

「練習試合いーなーっ! 治さん、あざっした!」
 
「日向はここでスパイク練やろ。さっき俺が言うたこと意識してやるんやぞ」

「ハイ!!」

 「お留守番を任せるご主人様じゃん」、という角名の独り言に、周りにいた部員達がぶふっと吹き出す。教えてもらったばかりのスパイクフォームをなぞらえる日向にうんうんと真剣な顔で頷く治は、さらなる忍び笑いを誘った。
 侑は、二人を面白くなさそうにちらりと見て踵を返し、自分のいたコートに帰っていく。治はそれを追うため小走りで駆けようとしたが、思い出したように日向に振り返って、

「ほなな」

と表情を綻ばせた。

 季節外れだとわかっていても、後ろに桜の花がまろぶのが見える。あらゆる女性の心を一発で仕留める勢いで突き刺さったはずの微笑は、その小さな的には届かない。日向は呑気に「あざっしたー!」と腰を曲げただけだった。それでも治は満足したように流し目で見送る。

 部員が示し合わせたように集まってひそひそ話を始めた。

「あれほんま治? サッカー部の武井とかやないよな?」

「チャラいのは合ってるけど多分治や」

「意外と後輩思いのやつやったんやなあ」

「多分違うと思うで」

 最後の一人が鋭い発言をしたが、ぎっしりと詰め込まれた練習プログラムをこなさなければいけない部員達は、珍しい日もあるもんだなあと井戸端会議もそこそこに各自の帰るべき場所へ帰っていった。



――――――――――



 結局その日の練習中、日向は治と一回もはち合わせないまま、練習の終了を告げる笛が高く鳴った。
 短くも長い練習が終わるやいなや、下っ端である一年生が、ボール拾い、ビブス回収、モップがけと慣れた動きで散っていく。選手達の汗と熱気で充満した体育館の緊張がゆるむ。選手達は、今日一日を終えたことへの充足感を感じていた。
 ――なぜなら。

「おいサム、今日残って自主練するやろ? 北さん達おらんもんなあ!」

「俺今日鍵当番なん言うたやん。遅くまで残ってるの万が一バレたらえらい怒られるに決まっとるわ。お前一人で自主練せえや。部室先に鍵かけたるから安心してええで」

「そんなん俺が最後着替えられんやん」

「ならお前が鍵当番やれや」

「言われんでも俺がやったるわ! お前こそ今日サーブアカンかったんやから自主練したらどうや?」

「なんやて?」

 北を含む三年生が、今週は修学旅行で不在だからだ。

 放課後の練習には監督やコーチこそいたものの、漬物石が頭の上にどっしりとのっかるような重圧感を感じさせる先輩がいないというのは、思ったよりも開放感があった。侑と治のやかましいがなり合いも、今は爽やかに突っ込める気がする。ハハハ、君たちやめんかい、誰かが試しに言ったのを聞いて、皆我に返ったように青い顔で「ちゃうな」「ちゃうぞ」、とお互いに言い聞かせつつ制服へ着替えていく。さながら訓練された兵士のようだ。

 とはいえ、まだ余力があるのは確かだった。
 いつもはくたくたになって帰って夕飯を食べることしか頭に残らないが、今日ばかりは自主練で己を鍛え直すのも良いかもしれない……、そんな調子に乗った考えが部員の頭をかすめた。

「お先に失礼しまーす」

 角名の軽い挨拶がその思考を遮る。
 二年生は、先輩がいないため今週は一時的に最高学年となる。北達がいる時はキツい練習の後も気をつかって部室を掃除したり朝練の準備をしたりするところを、今週はしなくて良いのだ。そう言わんばかりに、角名はこれ幸いと足早に去っていく。
 初めて見た角名の幸せそうな横顔に、部員達の頭がすうっと冷える。

 今日は家帰ってごろごろしよ。

 男達は無言で目配せをし合って、足早に部室を後にした。



 ――そうして残ったのが、本物のバレー馬鹿だった。
 太陽も沈みかけ辺りも暗くなり始める時分、体育館の無機質な明かりだけが周辺を冷たく照らす。他の部活もとっくに終わって、人影どころか人の声すらしない。稲荷崎高校は、教師もどこに行ったのか不安になるくらい閑散としていた。
 一面だけネットが張られた体育館で、怒号が鳴り響く。

「俺のトス空振りしとるんちゃうぞ、こんのポンコツが!!」

 自主練の疲れのせいか叫びすぎたせいか肩で息をしている侑と、

「侑さんこそさっきよりトス早くないですか!? イジワルしないでください!」

腰を低くして威嚇するように侑に噛みつく日向だった。


 いつもは先輩がいて中々思うような自主練ができない体育館を広々と使おうと、同級生達が帰るのを部室から見送った後、日向は一人いそいそと体育館へ足を運んだ。治にも行きがけに声をかけたが、今日は夕飯が唐揚げで揚げたてを食べたいから、という何とも幼気な理由で断られてしまった。許した。

 体育館には先客がいて、日向を見るなり「げ、翔陽くんやん」と言った。げ、ってなんだよ。侑はバツが悪そうな顔をしていたけれども、今すぐ噛み付いてくるような感じはしない。慣れない後輩との接し方を考えあぐねているような戸惑いを感じた。
 だからだろうか。
 その日が「怖い侑さん」であることも忘れて、思わず口に出していた。

「侑さん、トスあげてください!」

 一人で練習するより二人で練習した方がやれることも多いし、何より楽しい。お互い難しいことを考えるより、セッターである侑さんはセッティングを、スパイカーであるおれはスパイクを練習した方がいいに決まってる!

 鳩が豆鉄砲をくらったように驚いていた侑は、日向の「トスおねがいしゃーっス!」というかけ声に背中を押されるように、というか勢いに流されるように、あれよあれよという間にボールをあげていた。最初の十数球こそ戸惑っていた侑だったが、すぐに元の調子を取り戻す。

「俺のトス空振りしとるんちゃうぞ、こんのポンコツが!」

「侑さんこそさっきよりトス早くないですか!? イジワルしないでください!」

「翔陽くんがバッと入ってくるからタイミング合わせてあげとるんやないか、むしろ感謝せえや!」

「あざっす! でも次からはもっと遅めでお願いします!!」

 もう何十球、もしかしたら何百球というボールをあげたのか日向にも侑にもわからなくなった頃、二人の息は絶え絶えになっていた。ぜえ、ぜえ、はあ、はあ、という盛大な息切れが高い天井に反響する。
 最初は無言のままトスとスパイクを交互に続けていたものの、段々とエンジンがかかり始めて、今はこの様相だ。半ば口論のようになってしまっている。その頃には、「怖い侑さん」に対する恐怖心はほとんど消えていた。

 日向は、ふと隣で膝に手をつく侑を見る。

 今は滴る汗でぐっしょりとへたれた金髪はブリーチのしすぎで傷んでいるし、迫力のある整った顔立ちは真顔でも凄んでても怖い。黒とえんじ色のジャージも嫌に似合っている。昨日のヤンキー座りは様になりすぎて、きっと駅前にいたら避けて通ることは間違いない。
 ただ、バレーボールのことに対してはとても真摯で、一途で、懸命だ。入部して間もない日向でも、それはすぐにわかった。今も、日向がどんな意見や注文を口にしても、侑は一旦聞き入れて、それから返答をしていることに気付いていた。
 日向は、侑に少しずつ心を開きかけていた。

「……なんやじろじろ見て」

 日向の視線を感じたのか、「怖い侑さん」は睨み返す。今の侑が睨んでも、前ほどの圧迫感を感じない。

「なんでもないです!」

 にっかりといたずらっ子のように笑った日向を侑は胡乱げに見下ろすと、思い出したように身体を仰いだ。その目線は体育館の壁に高く吊るされた時計を追ってる。とうに7時を過ぎていた。

「……もう時間も遅いからぼちぼち切り上げるで。明日の朝練もあるやろ」

 自分で言っておいてつまらなさそうに腐す侑を日向は不思議そうに見た。

「わかりました! 最後10本だけトスください! おなしゃす!」

「ふ。……っはは、お前はそればっかやな!」

 呆れたように破顔した侑に、日向はぐんぐんヨーグルトを片手に笑う、茜色をした治を思い出した。



 ――キュ、キュ、キュ、ドンッ!
 最後の10本、先程よりぐんと早いペースで二人は打ち合っていた。体育館のワックスを削り落とすような摩擦音から火花が起こりそうだ。
 最後だから。そういう理由で真剣にやる訳ではないけれど、侑のトスで飛べるのも今日は最後だと思うと寂しい。

「打点下がっとるぞ!」

 焦れたような侑の声が急き立てる。

「侑さんこそ、トスが高すぎだと思います!」

 それでも対面のコートにボールをしっかり打ち下ろして、着地体勢のままはあはあ言いながら侑に答えた。侑も負けじとはあはあ言っている。ぜえぜえかもしれない。
 お互い疲れてプレーが雑になりつつあることは自認していた。目が合い、二人はふんっと踵を返す。これで手打ちにしてやると言いたげに、日向が助走位置につく。ボールを手に持って準備万端の合図だ。

 侑は、柔らかく投げられたボールを日向にアンダーで返す。段々と上手くなってきている日向のレシーブで、ボールはちょうど侑の頭の真上に届いた。完璧なAパス。侑の手のひらが作る三角形から、白い照明の光とボールが見える。三角形に丸いボールがすっぽりと収まる――はずだった。

 その瞬間、侑の十本の指はボールの表面をわずかに滑った。

 左側から勢いよく助走をつけて飛び込む日向の気配がする。その真正面に置くはずだったボールは、わずかに外側にずれ、高く高くあがっていた。

 外した。
 侑がそう判断した時、高く飛び上がった小さな右手が、軌道を外れたはずのボールの芯を捉えていた。
 オレンジの光が侑に降り注ぐ。
 それは、大きく舞い上がった日向だった。

「すっ………げー!!!」

 アタックライン上に見事に決まったボールを輝く瞳で見つめた後、日向は侑に走り寄ってきた。
 今しがた、日向は、汗で軌道が上方に滑った侑のボールを綺麗に打ち抜いた。そのジャンプは間違いなく今日一番高いものだったが、日向は気が付いていない。ぴょんぴょんと侑の周りを飛んで上手くきまったスパイクを喜んでいる。

「侑さん、見てました!? 俺のスパイク! すっげーうまくきまった!! ていうか、侑さんのトスもふわっときてどんぴしゃでした、やっぱ侑さんすげえええ!」

 初めてスパイクが決まったかのような喜びっぷりを見せている日向。侑にも数秒遅れて驚きが襲ってきた。侑の打ち損じたトスを完璧に打った。
 侑が絞り出すように問いかける。

「……なんも俺に言うことあらへんの」

「もう一回お願いします!」

「そうやない!……さっきのトス、ちょっとアカンかったやろ」

「? そうですか? おれにとってはどんなトスもありがたいトスなので、もしアカンくてもください! どんなボールでも、おれのところに来たら嬉しいです!」

「……」

 侑は言葉を失ったように目を見開いて日向を見つめ返した。汗だくのまま肩で息をしているのに、その瞳だけは瞳孔が開いたまま妙に静かだ。
 
「おれ、今ならいける気がするのであと10本トスあげてもらえませんか!? 侑さんの今みたいなふわっとしたボール、もう一回打ってみたい!」

 それから、最後の10本が何回も何回も何回も続いて、二人は精根尽き果てるまでバレーボールをした。



――――――――――



 日もとっぷり暮れて、もはや夜と言っていい。人の声も、ましてや虫の声も聞こえず、明るい星だけがかすかにざわめいている。
 心ゆくまでバレーをしたという充足感は、ネットの片付けや部室の後始末を行っているうちに疲労感に変わっていった。ずりずりと足を引きながら学校を後にしようとしている日向と侑の瞼は、半分閉じかかっている。

「あ〜〜〜腹減った、シャワー浴びたい、肉まん食べたい、寝たい」

 侑が甘ったれた声で夜空に向かって大きな独り言をする。
 部室の鍵は当番を代わった治から預かっていたものの、共有施設であるシャワー室はとっくに施錠されていた。二人してシャワー室の前で泣いた。仕方なく制服へ着替えたものの、肌着がべとっとまとわりつくような感覚があった。

「侑さん、口に出すとよけい辛くなるからやめてください……」

「せやかて、腹減ったし、身体もすっきりしたいし。翔陽くんはちゃうの?」

「いやそうですけども! 必死に! こらえているのです!」

「こらえなくてもええやん。……そや。翔陽くんこのままうち来たらええねん! 風呂も飯もあるし、夜一緒にゲームもできるで。俺天才や!」

「楽しそーっ! ……じゃなくて! おれ寮だから、ムダンガイハクは怒られちゃいます。 侑さんこそ、今から家に帰れるんですか?」

「んー?」

 着替えでぱんぱんになったリュックを丸めた背中に背負って、侑は首を竦めた。
 日向は学校にほど近い学生寮だからあと十分程度でねぐらにありつけるが、侑は実家から通っているためここからまた移動しなければならない。次の角を曲がると、日向はまっすぐ学生寮へ、侑は稲荷崎高校前のバス停へ向かう手筈だ。

「俺が稲寮行ったらええんちゃうか?」

 稲荷崎高校学生寮、略して稲寮は、部外者立ち入り禁止の寮である。ましてや門限にほど近いこの時間、在校生とはいえ侑を招き入れるのは、日向にとっても侑にとってもハードルの高い試みといえた。見つかれば反省文は免れない。
 侑は名案を思い付いたかのように顎に手をあてて頷いている。日向は嫌な予感を察知する。日向が身体をよじって逃げる前に、侑がそれを阻止した。
 やって今すぐ風呂も入れるし、飯も後輩のちょーっともらえるやろし食堂のおばちゃんも誤魔化したる、着替えも角名の借りたらええわ、俺も寮生活っちゅーもんを体験してみたかってん、まあ布団はちょっと狭いけど翔陽くんちっこいからちょうどええかもしらんな――そんなことを関西弁で捲し立てられた日には、疲れ切った日向には抗う術は残されていなかった。



 寮にはスポーツクラスの学生が住んでいるから、稲荷崎高校でも三本の指に入るほど実績のあるバレー部の部員もそこそこ多い。部員達は、いないはずの侑が寮で寛ぐ姿を見るなりギョッとしたような顔をして、そして次に横に控える日向の顔を見、何も言わずに去っていく。三年生は修学旅行で不在のため、先輩で注意する者はいない。日向は、友情とはかくも儚いことを若干16歳にて学んだ。

 現在は時刻10時過ぎ。
 侑を視認するなりこれまでにない機動力で自室へ帰ろうとした角名を無理やり捕まえて着替えをねだり、購買のジャンボメンチカツ1週間分を犠牲にほくほくと日向の自室に入って来た侑は、「眠いわー」と言いながら二段ベッドの梯子を登る。9時の点呼は二段ベッドの下段で震える同室の理石が上手くやった。

「俺家では二段ベッドの下やねん、ちょうどええわ」

「な、ちょ……! 侑さん、お、押さないでえ……!」

 なにがちょうどええんですか。
 先に布団へ潜り込んでいた日向はぎゅうぎゅうと布団に押し込まれ、そんな疑問も口にできない。

 寮の空き部屋はもちろん鍵がかかっているし、他の部屋で毛布もないまま放置するわけにもいかないから、侑を部屋に招き入れた。夜の点呼も理石がなんとかしてくれたし、朝もバレずに登校できるだろう。……そう思ったのが運の尽きだった。
 侑は我が物顔で日向の寝床に分け入って来て、なんなら枕も占領しようとしている。日向は傍若無人な隣の大男に潰されるように壁際へ追いやられた。年季の入った木の立て付けが苦しそうにきしむ。結局、あれよあれよと言う間に侑と日向はシングルベッドに隙間なく並んでいた。これでは取れる疲れも取れない。

「侑さん、おれの枕と毛布はどこに!」

「はー…、ぬくいなあ」

「ちょっとお!」

 枕と布団を奪われた日向は至極当然の質問をしたはずなのに、侑は聞こえなかったようだ。傍若無人が布団に丸まっている。疲れと眠気がピークに差しかかり、しびれを切らした日向は、遠慮もなしに布団を奪いにかかる。
 枕はこの際くれてやる!

 すると、普段嗅ぎ慣れない香りが日向をふわりと優しく包んだ。
 右隣にいた侑から毛布を取り返そうと振りかぶった左腕と左足は、素早く寝返りをうった侑の大きな身体に丸め込まれる。視界は一面グレーのスウェット。首元には、いつの間にか侑の左腕が差し込まれていた。

 侑に抱きしめられている。

 そう認識した途端、体温がぐっと上がったのがわかった。焦って吐いた息は侑の胸元にかかり、そのたくましい腕の中で、侑の匂いと混ざってこもったように揺蕩う。はっと我に返って、なんのつもりですか、と文句を言うために顔を上げた。

「ん」

 目の前には、目元に穏やかな微笑を湛えた侑の顔があった。文句を言おうとしたのに、わかっとるよと心得たように先回りして相槌をする。なにもわかってない。見たことのない柔らかな表情に、じいんと頭の奥が痺れるのを感じた。
 いつの間にか明かりが消えている。理石が消したのかな。暗いのに侑の表情が見えたということはよっぽど近くにいるのだろう、と遅れて気が付いた。

「俺な、最初翔陽くん見たときにな、翼生えとるって思てん。覚えとる? 初めて会うた時のこと」

 内緒話をするような甘えた声で、侑がコソコソと話し出した。その真意は日向にわかるはずもない。
 翼ってなんだよ。ちょっとかっこいいとか思ってないんだからな。
 日向は侑の抱き枕になったまま大人しく答える。

「……転校した日のことですよね、よく覚えてます」

「ちーっちゃい身体して、誰よりも高く飛んどった」

「その後トスあげてくれた侑さんに怒られましたよ! 初対面でポンコツって言われたの、今でも覚えてます」

「フッフ。下手くそはほんまやもん」

「ぐぬう……っ」

 眠そうで、煙が燻るような声が耳元で囁く。笑った時に吐息が耳にかかってくすぐったい。むずがゆくて身体をよじらせると、侑は日向と二人すっぽり布団に収まるように、毛布をかけ直す。
 これは「優しい侑さん」なのだろうか。見たことも聞いたこともない侑さんだ。しかも、おれの心臓には全然優しくない侑さんだ。「変な侑さん」と名付けよう。

「おれ、たくさん練習してます。下手くそとはもう言わせませんからね」

「楽しみやな。そういえばいつも昼どこで練習しとんのや」

「昼ですか? 体育館使えない時は裏庭でボール触ってます」

「そうなん、それならたまに俺も練習混ぜたって」

「えっ! 侑さん一緒に練習してくれるんですか!」

「ちょ、声大きいねん! シーっ!」

 思わず飛び上がった日向を侑が抱え直す。「侑さんの方が声大きいですよ」なんて憎まれ口は、厚い胸板に吸い込まれてしまった。

 奪われた布団が二人を足の爪先まで覆って、かまくらの中みたいに暖かい。頭がぼおっとしてきた。一日の疲れがどっと来たのか、体が重くなっていく。
 侑は日向の髪をいじりながら、日々の他愛もない話をぽつりぽつりとし始める。稲寮に住み着いている猫、近くのコンビニの新製品、先週の練習試合、宮城と兵庫の冬のすごし方――。うつらうつらと、寝ぼけまなこで適当な相槌をうつ。
 猫の親子のように侑がすり寄ってくるのに安心して、段々と睡魔が襲ってくる。今日はいつもより運動したからかな。指の先までじんわりと眠気が満ちていく。限界かもしれない。

 やがて、学生寮で侑と同衾するという変な状況も、今朝まで厳しい言葉をかけられていた侑と布団の中で楽しくこそこそ話をしているというよくわからない状況も、全て昔からそうだったのだかのように思えてきて、疑問は夢の中に絵の具を落とすように溶けていった。

「おっかないもん捕まえてもうたわ」
 
 瞼を閉じるその前に、侑が何かを言った気がしたが、日向にはもう聞こえない。