# 03

「そういやお前、おかんからこっち帰ってきてんのやったら顔くらい見せぇて連絡あったぞ」
侑の目の前におにぎりを置きながら、思い出したように治が声をかけた。
美味しそうなネギトロおにぎりを前にして、侑は露骨に嫌そうな顔をする。
「はあ?なんで翔陽くんおるのに俺だけ実家帰らなあかんねん。正月にも帰ったんやからええやろ!」
「そんなんおかんに言えや。俺は言うたからな」
へえへえと、気のない返事をしてほかほかのおにぎりに齧り付く。美味しそうに食べるその顔に日向はくすくすと笑った。

夕飯時の店内、平日ということもあってお客さんは二組だけ。
テーブル席とカウンターにそれぞれ座って談笑している。
日向と侑は出入り口に程近いカウンターに座り、思い思いのおにぎりを堪能していた。
「治さんのおにぎりほんとおいしいです!特にこの煮玉子入ってるやつ!」
「日向がたまご好きやって聞いとったからこさえたんやけど、気に入ってもらえたなら良かったわ」
「え?これ普段ないんですか?」
「日向のために作ったもんやしな。…せやから」
治は人差し指を顔に近づけて、ふっと笑う。
「他の人にはヒミツやで」
いたずらっ子のように笑う治がなんだか新鮮で、日向はドキッと高鳴った心臓を服の上から抑えた。
それを横目でしらーっと見つめる侑は「露骨すぎやろ」と呟いているが、日向の耳には届いていない。
和やかな食事の席は滞りなく進んでいく。
相変わらずのバレーの話は勿論の事、ブラジルでの冒険譚や、高校時代の話なんかを楽しく喋っているとふいに店の電話が鳴り響いた。
「はいはーい」と電話に返事しながら受話器を取る治を何とは無しに見つめる。
「お電話ありがとうございます。おにぎり宮…あぁ、さかいのおばちゃん、どないしてん」
丁寧な出だしからいきなり砕けた口調になる。
知り合いだったのかななんて思いながら、おにぎりを頬張る。
「おん、あ〜そら大変や、…せやなあ」
何やら困りごとでもあったらしい。
電話口で少しばかりやり取りを交わして、治はちらりとこちらを一瞥した。
閃いたような顔の後、にやりと笑う。
「な、なんやねん」
「なんでしょうね」
その笑みに含みがないとは思えないと、侑が身構える中「大丈夫。間に合うて、それじゃあ」と、言うと治は受話器を置いた。
「侑、仕事や」
「はあ?何の話や」
「堺のおばちゃん、昔お世話になったん覚えとるやろ?」
「あ〜、あー、そういや何か知っとるな」
「娘さん夫婦が急遽来ることになってな、配達お願いしたいんやと。でも俺は店あけれんし、今日はバイトくんもおらんし」
「ほんで俺か?いやや。行かん」
「タダ飯食うとるやつに拒否権なんかあるかい。準備でき次第表の軽トラで頼むわ」
その後もなんやかんやと文句を言っていたが、結局渋々と侑は配達へ出ていった。
「7時までに必ず届けるんやで」
という治の言葉に「くそサム」と悪態をつきながら。


それから時計の針が一周りして、気づけば客は日向一人だけとなっていた。
食べるものも食べて。デザートまで頂いた腹はいい感じに満たされている。
「侑さん遅いですね、そんなに遠いんですか?」
1時間たとうというのに帰ってくる気配がない。
ふたりきりの店内、しかしすでに緊張する仲ではない。
「片道20分もあれば足りるやろうけど、あのおばちゃんとは古い付き合いやから足止めされとんのやろ」
なるほど、と温かいお茶をすすった。
そして日向は今なら聞けるかもと、そっと治の顔を伺う。
何やら作業をしているのか、手元からトントンと音が聞こえる。
どうしよう、でも、と考えていると察したように治が顔を上げた。
「ほんで?日向はさっきから何をそわそわしてるん」
「ほわっ、なんでわかったんですか?」
「いやわかり易すぎやろ」
楽しそうに笑うその顔に、そんなにわかりやすかったかと首をひねる。しかし聞くなら今だと思い切って口を開いた。
「侑さんて、誰とでもキスしたりするんですか?」
一瞬怪訝そうな顔をされて、やっぱり聞かなければよかったかと後悔しそうになる。
治は手を止めて、ふむと首をひねった。
「それは、どうやろ。あいつのそういう話あんまり聞かへんし、詳しないからなあ」
それでも普通に答えが帰ってきて、ほっと胸をなでおろす。
治はじぃっと日向の目を見て「なんで?されたん?」と、髪切った?と同じような抑揚で聞いた。
それにつられて日向もまた「はい」と軽く答えてしまってさっと顔を赤らめる。
「あ、でも多分からかわれたんだと思うんです。俺そういうのした事なかったから」
治の態度は先程からなんの変わりもない。
「でも、なんでかなって思って」
それに助けられて、素直に疑問をぶつけた。
治はふーんと呟きながら、手に持っていた包丁を置く。
ぱたぱたと流しに行き、水の流れる音。手を洗ったようで、ペーパーで拭きながら戻ってきた。
「ほな俺ともしてみるか?」
「えっ?」
カウンター越しに顔を覗き込まれる。
侑とよく似た、目尻の下がった瞳に見つめられると、どうにも動けなくなるのが不思議だった。
「侑がなんでキスしたんか、俺としてみたら分かるかも」
全くもって謎理論だが、その堂々たる態度故に反論ができない。
何より綺麗な顔が、その形の良い唇が、誘うように動く様が思考を鈍らせる。
「で、も。治さん、俺男ですよ。嫌じゃないんですか?」
「俺は日向なら嫌やないよ」
ダメ押しとばかりに広角を上げて微笑まれてしまえば、もう受け入れる以外の選択肢などでてこなかった。
「立って。こっちに体寄せられるか?」
「あ、はい。」
備え付けられた丸椅子から立ち上がり、顔を治に少しだけ近づける。
心臓が痛いほど脈打つのがわかる。
帽子の影で普段しっかりと見ることのない瞳が自分のそれとぶつかって、引き寄せられる、そう思った。
治は手を伸ばし、カウンター越しに日向の顎をとって引き寄せる。
一瞬でしんと静まり返る店内に響く衣擦れの音。
目を閉じて、触れ合わせるキスをした。
小さくちゅっ、と音がして、ゆっくりと離れていく。
テーブルを挟んでこんな事できるのは治の身長あってこそだなと、どこか他人事のように冷静な自分と、どきどきしすぎて心臓が壊れそうな自分とが二人いるかのような妙な感覚だった。
「どや、わかったか?」
ぺろっと自分の唇を舐めて、そう聞いてくる治の表情に無性に煽られる。
「わかんない。です」
「ほんならもっかい、な」
顎に添えられた手に力が加わり、ぐいっと引き寄せられる。
そしてもう一度、ぶつかる唇。
正面から、そして角度を変えて何度か繰り返される。
「んっ、…んっ」
「日向、ちょお口あけて」
口?何故?と思いながらも薄く開くと、そこからぬるりとしたものが入り込んできた。
「っ?、んぁ、ふあっ」
びっくりして体を引こうとして、いつの間にか顎から頭へ添えられた手に気づく。
しっかりと掴まれ逃れられず、口腔内に侵入してきたそれが奥に引っ込んだ日向の舌を捉えた。
限界まで引っ込めたのに、舌先でちろちろと擽られだんだんと力が抜けていく。
どうやら舌を寄越せと、そう言っているように感じて、おずおずと舌を差し出すとすかさず絡め取られる。
狭い口腔内を舌で蹂躙され、慣れない行為に上手く酸素を取り込めない。
「おさ、むさんっ、も、くるし」
カウンターに突っ張る手も辛くなってきて、ふるふると震える体に気づいたのか、ようやく唇が離れていった。
「んあっ、はっ、はっ、」
「…えろい顔やな」
口の周りを唾液で光らせながら、そんな事を言う治を睨んで見るが、効果などないのだろう。治は面白そうに笑い、身を引いた。
「治さんのせいじゃないですか…」
「否定はせんのやな」
酸欠でまだぼんやりする日向に、ほいっとティッシュが渡される。
「そろそろあいつ帰ってきよんで。口拭いて、その顔なんとかしといたほうがええんちゃう?」
肩で息をする自分とは対象的に余裕綽々で、自らもティッシュで口を吹く治が少しばかり憎たらしい。
しかし言われたとおり侑がいつ帰ってきてもおかしくないのだ。いそいで口周りを吹き、すとんと席に腰を下ろす。
そうしていると、目の前に水の入ったグラスが一つ置かれた。
「またしような」
帽子をかぶり直す治が薄く笑う。
もうしませんと、言えたらどんなにスッキリしたかわからない。けれど、先程のキスの快感がどうにも忘れられず、口を開くも言葉が出なかった。
流しに手を洗いに治が背を向けた瞬間、出入り口の戸が開いた。