欠けない月のはなし


狐か鳴くような、乾いた音がして目を覚ました。コン、コン、と立て続けに、二回。
 音に意識を引っ張られて治が重い瞼を押し上げると、周りはまだ静かな濃紺に沈んでいて。聞こえるのは涼やかな虫の声と、日向の寝息くらいだった。寝付いてからいくらも時間は経っていないのかもしれない。
 閉め忘れたカーテンは全開で、紺色の空に丸い月がぷかりと浮かんでいるのがよく見える。少しも欠けたところのない完璧な月だ。綺麗だが、雲ひとつ掛かっていない月は起き抜けの目には眩しすぎて、治はぎゅうと目を閉じた。
 そのまま、腕の中におさまる日向を手探りで引き寄せる。二人の間にあった隙間がなくなって、治の胸と日向の背中がぴたりと合わさった。日向の方がいくらか熱い気がするが筋肉質な二つの体温はあっという間に混じり合い、じわじわと熱を上げていく。
 ――まだ夏を引きずる夜だ。男二人分の体温は汗が滲むくらいなのに、日向を抱え込むと冷えた身体を湯船に浸したように、治の身体からはゆるゆると力が抜けていく。高い体温に胸も腹も温かくて、治の身体の奥の奥にある欠けた何かが夜空に浮かぶ満月のように、まあるく満たされていくような感覚がした。


 ◆◆◆

 治の腕の中で健やかに眠る日向は、ネーションズリーグを終え、沖縄で行われた日本代表による紅白試合も燥ぎ倒してきたところだ。
 治はどちらも傍で観戦することは叶わなかった。
 代表選手の双子の兄弟で、Vリーグで何度も店を出店している。その事実があっても、流石に国際大会であるネーションズリーグに帯同はできない。沖縄開催の紅白戦もそうだ。チケットの抽選に勝てば観戦は現地できたかもしれないが、そもそもまだ駆け出しと言える経営者としては、他所事を理由に頻繁に店を休業するわけにはいかない。
 そういうことだから、せっかく日向が日本にいるというのに、二人でまともに会うことはできないままだった。
 もうすぐブラジルではリーグ戦が始まる。日向の所属するクラブチーム、アーザス・サンパウロも当然参加する大会だ。喜ばしいことにスターティングメンバ―として起用されることが多い日向もブラジルに戻り、調整に入らなければならないだろう。
 だから、今年は日向と直接会ってゆっくり過ごすことは無理そうだと治は思っていたのだ。タブレットの画面越し、日向の周囲にいる面々や観客が日本人ばかりなのを見て、確かに日本にいるのだと思うくらいしかできないと。


 ◇◇◇

 空気までもが寝静まっていると感じる静かな寝室のベッドの上、治は窓から降り注ぐ月明りを避けて目を閉じたまま、深く息を吐く。治の息に揺られた日向の髪にふわふわと口元を刺激されてくすぐったい。悪さをする髪に手を伸ばす。日向を起こさない程度の力で抑え込んで、しばらくしてから放せばぴょこりと何事もなかったようにオレンジの髪が口元に戻って来るから笑いそうになった。
 笑いを押し殺し、活きのいい日向の髪に顔を埋めて、また深呼吸をひとつ。沖縄から戻った日向はシャワーを浴びる間もなく治と一緒に寝室に籠ったはずなのに、肌と汗の匂いとは別に、不思議とお日様のような匂いがした。
 治は夜が好きだ。時間がゆっくり流れる気がするし、夜空に浮かぶ月の光は優しく、静かで落ち着いた時間を過ごすことができる。双子の片割れと一緒くたにそれていた頃は、侑の小うるささに昼と夜の違いなど意識したことはなかったが、進む道が別れてからは、一抹の寂しさとともに夜の穏やかさを知った。店を持つための勉強だったり、新メニューの考案だったり、夜は集中できる時間だ。
 けれど今は、このお日様の匂いを嗅いでいる時間が一番落ち着くし、安心する。ひょっとしたら、米が炊ける匂いと同じくらい、癒し効果があるんじゃないかと思っている。――たぶん、ある。


 ◆◆◆

 日向と頻繁に会えないことは仕方がないことだ。付き合い始めた時から、会える時間は少ないだろうと覚悟していた。
 片や世界を飛び回り、片や腰を据えて構えなければならない仕事をしている。普通であれば交わらない道をお互い進んでいるのだ。治も日向も自分の道をこれと決めてしまっている以上、進む道は変えられない。変えたいとも思っていない。
 そんな交わらないはずの道の、その交点を求めるなら、二人ともが努力しなければ上手くいくはずもないとわかる。それはきっと簡単な努力じゃないだろうということも。何より二人の気持ちが同じくらい大きくなければ。
 だからそこに関して、治は日向の気持ちを疑うことはなかった。
 電話をする時には元気に嬉しそうに勢い込んで話始める声を聴けば、多少のことはわかるものだ。プレーはうまいこといっているのか、心配事はないか、楽しいことがあったのか、淋しいと思っていないか。――治のことをちゃんと好きかどうか。
 何かを感じ取る度に治はそれとなく声を掛けたし、日向も同じだった。
 そういうことを積み重ねて、たぶんお互いが間違いなく大切だという気持ちはより大きくなったと思う。


 ◇◇◇

 治は腕の中のお日様の匂いを嗅ぎながら、規則正しく寝息を立てる日向をぎゅうと抱き込む。重なり合うスプーンみたいにぴっとりと、三日月型に身体を丸めて。
 日向の正面に回した治の手は勝手に動く。日向の背中がちょっとだけ震えたのを腹で感じながらも、さわさわと撫で摩る。きれいに割れた腹から固い肋骨の筋をなぞって、むっちりとした胸へ。そこは張りがあるのに柔らかくて触り心地がいい。ひと汗搔いた後だからか、しっとりと手のひらに吸い付くような感触もして、ずっと触っていたいくらいに気持ちいいのだ。
 鍛えられた日向の身体は無駄な肉はないのに、不思議と固くない。体脂肪率を落とし過ぎると持久力が無くなると言っていたから、ある程度の脂肪はついていて、そのお陰だろうか。――マシュマロとか、白玉とか、大福だとか。それよりももうちょっとだけ弾力が強い、何か。
 ああ、腹が減るな、と治は胸のうちで呟く。もう口癖みたいになっている気がする言葉だ。
 高校二年の春高から十年近く経つのに、治は日向を見るといつだって腹が減る。尽きることのない欲を感じる。満たされてもまた足りなくなって、繰り返し貪ってしまう。それでもまだ、欲しい。
 欲求には従順に。
 治は身体をずらして日向の首筋に齧りついた。グミみたいな触感と、大福みたいなきめ細かい舌ざわりと、おにぎりのひと口目みたいな、少しのしょっぱさ。
 ぐうと鳴いていた腹が、美味いと唸った気がした。


 ◆◆◆

 電話だけだって気持ちをやり取りすることはできるし、日向との距離感については覚悟していたつもりだった。それでも好きな子に会えそうで会えない、という状況は多少なりとも精神を削るもので。
 同じ日本にいながら顔も見られないというのは、夜毎、月が痩せていくみたいに、そうとわからない程度に治の奥にある何かを削り取っていくような気がしていた。
 メッセージのやり取りはほぼ毎日しているし、テレビ電話もする。少しの物足りなさはあっても、日向がブラジルにいる時にはそれで十分と思えるのに、日本にいると思うと途端に満足できなくなるのだから不思議だ。テレビやタブレットの四角い電子画面の中で、日向が治の見知った顔に囲まれているのも、もどかしさの原因かもしれない。
 ――たとえば、双子の片割れが無遠慮に日向の頭をかき回したとき。たとえば治よりずっと濃く、長い時間をともにした日向と同じ高校出身のセッターと言い合いをしているのが映ったとき。SNSで、夜に誰かの部屋に集まってわちゃわちゃしている写真が上がったとき。
 大抵そういう場面を見ている時の治には表情が無い。親しくない者から見たら興味が無いのかと勘違いされるくらいには、真顔で画面を見ている。
 けれど当然ながら、自分が簡単には近付けない距離のその先で、自分ではない男が恋人と親しげにしている様子を見て何も思わないわけがなかった。
 元気そうな日向の顔を食い入るように見て安心する反面、治はいつも日向に触れる手を一つずつ払い落としたい衝動に駆られている。


 ◇◇◇

 思いのまま日向の首筋周辺を甘噛みして、まるい肩を噛っていたとき、コンッ、と狐が鳴いた。
 そういえば、目が覚めたのはこの音が原因だったな、と治は思い出した。
 片肘をついて身を起こし、じっと様子を見ていると、またコン、と日向の肩が小さく跳ねる。
 眉を寄せ、風邪でも引かせてしまったかとヒヤリとしながら日向の肩を引けば、抵抗なくゴロリと仰向けになった。治の心配を他所に日向はすぴょすぴょと健やかに寝息を立てている。起きる気配はなかったが、裸の胸が大きく膨らんで萎むときにまたしても小さく咳き込んだ。薄い唇がむにゅむにゅと心地悪そうに動く。治はクチバシのように尖った日向の唇を軽く摘まんでから、のそりと身を起こした。
 風邪とまではいかなくとも喉を痛めたかもしれない。水か、何か喉にいいものを飲ませなければ。治はベッドから足を下ろした。


 ◆◆◆

 それは想像の中でだけだが。
 馴れ馴れしく日向の頭を撫でる手を捻り上げ、言い合っているその隙間に割り込んで、楽しそうな集まりから日向を引っ張り出す。それからきょとんと目を丸める日向を持って帰って、箱に詰めたい、と思っている。治は箱の中におさまる日向を時々覗いて、まあるい満月みたいな額にキスをして、それで治が握ったおにぎりを手ずから食べさせるのだ。
 それが叶ったら治はきっと、とても満足するだろう。
 高く飛ぶ日向が何より輝いているのを知っている。一つのボールを恋するように追い掛ける姿は、バレー選手のみならず治の何かも掻き立てる。
 だから、想像の中だけだ。普段はそうやって、叶えようとも思わないことを頭に描きながら、画面越しに削られた精神を自分で慰めているという話で。
 治のことを大人だと思っている日向はおそらく気付いていないだろうが、胸の内ではそういう子供っぽい夢を見ていたりするのだった。
 付き合い始めて三年目。節目だとは思わない。治はまだ、イメージ通りの格好いい“大人な治さん”でいたい。
 日向に“格好いい”とか“大人”だとかと同じくらい“可愛い人”だと思われているなんて、少しくらいしか気付いていない治は、そう思っている。


 ◇◇◇

 治が寝室に戻ったとき、日向はベッドに起き上がっていた。
 窓の外を見上げる背中に「起きたんか」と声を掛ける。振り向いた日向はまだ眠そうで、月明かりに輪郭を滲ませながらコクリと頷いた。
「喉渇いたんちゃう? 咳き込んどったで。水と……、牛乳あっためてきたからそれも飲み。蜂蜜入っとるから」
「ァザス」
 日向はどこか気恥ずかしそうに水を受け取って一気に飲み干す。上下する喉仏をじっと見つめてしまったのは、妙な色香を感じたからだ。先ほど散々齧った首筋に、また齧りつきたくなるのを堪えてそっと目を逸らしておく。さすがにこれ以上の無理はさせたくない。
 湯気を立てるカップにふぅふぅと息を吹き掛ける日向を横目に、そういえば加湿器の電源を入れ忘れていたと気付いてスイッチを押した。煙のような白い霧が出ないタイプだ。排出口に手を翳して念のために稼働確認をしてから日向の横に座る。
 ベッドが軋んで少し傾いたせいか、日向の肩がトンと治の腕にあたった。触れたところが温かい。身体は冷えていないようで安心した。
「何見てたん? 月?」
「はい。今日って満月だったんですね」
「みたいやな」
 ほぅと日向が吐き出した息は、牛乳に温められて一瞬だけ白い姿をさらして消えた。
 眩しそうに月を見上げる日向の横顔を見る。水を飲んだことでいくらか眠気は取れたようで、じぃっと満月のような丸い瞳が空を見つめている。
 名前全部で太陽を体現する男は、月の光を浴びて何を思うのだろう。月が綺麗だとか、そんな情緒的なことを考えているとも思えないが。治は失礼なことを思う。日向のことだから、ネーションズリーグに紅白戦にとバレー漬けだったくせに、この後に及んでバレーがしたいと思っているかもしれない。一番ありえる。考えていたら、治にも月がバレーボールに見えてきたから困った。毒されている。
「……たこやき……」
「……なんて?」
 月から視線を下ろすと、日向はまだ窓の外を見上げたままで。満月みたいなつるりとした額をさらしながら、ぶつぶつ呟いている。
「おこのみやき……めだまやき……おだんご……」
「…………」
「治さん、おれ」
「…………」
「お腹空きました……」
「……そうやろうと思た」
 ヨダレ出とんで、と指摘すれば日向はじゅるりと行儀悪く唾液をすすって手で口元を拭う。情緒もないが、バレーでさえなかったな、と治は呆れつつも思い出す。
「夕飯まだやったな」
 思い出したら、同時に治の腹の虫も盛大に鳴いた。似た者同士かもしれないと思うと笑えた。
 紅白戦の最終日の今日、現地に泊まらずに治のところへ飛んで来てくれた日向も、それを迎え入れて寝室に直行した治も、ご飯も食べずに月が高く昇るこんな時間まで。腹が減るのも当然だった。
「おいなりさん、作ろか?」
「おいなりさん!」
「ええ油揚げもろたんよ。明日、店に試しに出そか思とってんけど」
「えっ、食べちゃっていいんですか?」
「おん。予告もしとらんし、ええやろ。狐も鳴いとったことやし」
「狐が??」
 関西では月にいるのは狐なんですか?なんて首を傾げる日向に笑って、二人で寝室を出る。

 治の中には月に似た何かがある。
 それはまあるく太ったり、ぺこぺこに痩せたりもする。住んでいるのは可愛いオレンジ色の、よく跳ねる狐だ。
 実際の月に住んでいるのが何であれ、治の奥の奥にある月は今、ふくふくとして、まあるく満月のように膨らんでいる。可愛い狐とおいなりさんを食べれば、さらに眩しく輝くはずで。
 太陽みたいな狐が飛び出して行ってしまうときっとまた腹ペコに痩せた三日月になるだろうけれども、オレンジの狐はまた戻って来ると知っているから。
 治は自分の城で、自分が信じる道を進むだけでいいのだ。