マイ・フェア・ボーイ
「へえ。翔陽、来年には戻ってくんのか」
「せや、またブラックジャッカルでプレーするようになると思うで」片割れは酒か興奮にか、頬をかすかに染めながら手元の酒を一口ふくんだ。「楽しみやなあ……! また翔陽くんにトス上げられるの!」
ワクワクした様子の片割れを見るのは久々だ。日向が海の向こうにあるブラジル──アーザス・サンパウロのチームに渡ってから既に二年半。日本代表の合宿などで頻繁に会っているとはいえ、やはりまた同じチームでトスを上げられる、と言うのは侑にとっては格別のことらしい。
アーザス。ポルトガル語で『翼』。
最初にその訳語を聞いた時、日向にぴったりのチーム名だと思った。どこまでも高みを目指して飛翔し、翼をもつあの存在にぴったりだと。
……そして、己の手元にやってきたと思ったらすぐに飛び立って行ってしまったところにも。
治はそっと店内を見回す。既に閉店時間は三十分を過ぎ、店にいる客は──客と言っていいのか分からないが──片割れ一人。そろそろ片付けを始めて明日の仕込みをしなければならない。
「これ食ったら帰れや」
治は言いつつ握り終えたトロおにぎりを差し出せば、片割れは上機嫌そうに歓声を上げて頬張る。それを横目で眺めつつ、治は流し台に放置されていた皿を洗い始めた。
最初に日向に出会ったのは治が高校二年生の春高の時。
あの頃の日向はだいぶ荒削りではあったものの、それでも自分や片割れに鮮烈な印象を残していった。
また対戦出来るだろうか。……いや、自分は二年生で向こうは一年生だ。全国大会に出場すれば、また対戦することになるだろう。
治は既に高校でバレーを辞めることを決めてはいたもののモチベーションは高かった。それはもしかしたら、あの雛鳥を叩きのめすためだったのかもしれない。
次は必ず勝つ。
……だが、そんな風に決意していたものの、結局インターハイでは烏野は予選敗退。全国に上がってくることはなかった。
そこでちょっと背筋がヒヤリとした。ひょっとしたらもう二度と烏野とは対戦出来ないのではないかと。けれど──
「あっ」
「お」
一月。
去年と同じく東京体育館の床を踏んだ治は、開会式の後トイレに向かい、そしてそこであの雛鳥にばったり遭遇したのだった。
日向は去年よりも少し背が伸びたようだったが、こちらを見上げてくる大きな瞳には戸惑いがかすかに混じっていて、なんとなく面白くなった。
「あ、お、オヒサシブリです」
ほんの数メートル先にいる治にぎこちなく頭を下げる日向。一応治も「おん」と頷いた。
「せやな……随分久しぶりや。インハイで対戦出来る思うてたんやけど」
「うっ……」
これにはぐうの音も出なかったらしく、日向は顔をあげようとした姿勢のままで固まってしまった。それに口元だけで笑って治は言う。
「別に責めとる訳やないよ。勝負なんやから何がどうなるか分からんからな」それからほんの少し声を落とした。「……けど、春高には来てくれて良かったわ。これで来なかったら俺ら引退やし、リベンジ出来へんことになってまうから」
「……今回もおれたちが勝ちます」
ゆっくりと顔を上げ、こちらを見上げる日向……その瞳には、先ほどまでの戸惑いはない。強い意志を孕んで治を見据えているのがはっきりと分かり、喉が鳴った。
腹が減る。
そうだ、この感覚を求め、自分はここまで必死に練習をしてきたのだ。
知らず知らずのうちに微笑みながら、治は顔を伏せる。
「……ま、楽しみにしとるわ。ツムも気合い入っとるし、こっちも負けへんで」
「はい!」日向はそこでようやく笑った。「でも、おれ、いつか絶対Vリーグ入るんで! だから、宮さんたちとはまたプレー出来ると思います!」
「……あー……」治は一旦言葉を切り、言おうかどうしようか迷った末に口にする。「悪いけど、俺は高校でバレー辞めるんや」
「……えっ!?」
予想外な答えだったのだろう、日向は目を丸くして硬直してしまった。治は続ける。
「専門学校に進む。で、将来はメシ屋んなる。ずっと、ずっと夢やったんや」
この夢を口にすると、周りから必ず「バレーは?」と尋ねられた。片割れからすらも例外ではない。
自分がバレーを辞めることがそんなに不思議なのだろうか。高校バレー界最強ツインズ、なんて呼ばれているもののそれは練習した成果に過ぎない。
バレーより好きなものがあるから、その道に進む。治にとって、それは至極普通のことに思えた。
日向は治の言葉を聞き、目をぱちくりしてから、
「スゲー!」
と目を輝かせた。
突然の大声と「すごい」という単語に治の方が面食らう。日向は興奮したように両手を握りしめて治に一歩近づいた。
「メシ屋ってことは、お店経営するんですか!? スゲー! 宮さん、バレー出来るだけじゃなくて頭もいいし料理もできるんですね!」
「いや……、あー……」
「お店やるってことは、お金の計算とかもやるんですよね!? かっこいいです!!」
「……、」すごい、かっこいいを連呼する日向に呆気に取られつつも、尋ねる。「……なあ、聞かんの?」
「え?」
日向はまるで分かっていなさそうに首を傾げたので、治は付け足した。
「なんでバレー続けへんのか、って聞かんの?」
それは純粋に疑問だった。夢を口にするたびに必ず聞かれていたから、ほとんど反射のようなものだったのかもしれない。
問われた日向は再度目をぱちくりさせてから、不思議そうに首を傾げた。
「なんでですか? バレーよりやりたいことがあったら、そっちをやるのふつうだと思います!」
治はしばらく呆気に取られ、それから肩を揺らして笑った。
なぜ笑われたのか理解できなかっただろう日向は、びっくりしたように一歩退く。治はそれを手で制してから、なんとか笑いを堪えながら声を絞り出した。
「……なあ、自分、連絡先交換できへん?」
「……へっ!?」
間の抜けた声にまた笑いそうになりながら、治は「なんかもっと話したなったわ。ええか?」と自分のスマホをポケットから取り出して続けた。
飲食店経営をしたいと具体的に考えた時、やることは非常に多かった。
事業計画策定、店舗用物件探し、資金調達、メニュー開発、店舗内外装施工業者探しに各種役所手続き……、もちろん開業してからは売り上げ管理やメールチェック、取引先への挨拶や仕入れに顧客管理、宣伝計画、人事業務。今でこそスタッフを何人か雇っているので分担できているものの、当初は全てを一人でやっていて、それは目まぐるしい忙しさだった。
ただ、変わらないこともある。こうして一日を終え、業務を締めて翌日の仕込みをすることだけは、開業してからと言うものずっと治一人で行なっている。客に提供する料理の味は変えたくなかったし、店主が自分の店のことを全て把握していなければ競争の激しい飲食業界の中で生き残ることは困難だからだ。
メニューの売り上げを眺めて売れ行きの乏しい品はメニュー表から消すことを考えなければならないし、逆に売れ行きが良くてあっという間に売り切れてしまった品があれば、翌日はその品を少し多めに準備しておかなければならない。
今でこそルーティンワークとしてその作業にもだいぶ慣れたものの、当初は文字通り四苦八苦しながら考えたものだ。
治は何度もめくられて手垢のついたノートに線を引き、業務の精算を終えると大きく息を吐き出した。時刻は十時。仕込みも終えたし、そろそろ風呂に入って眠る準備をしなければならない。明日も早いのだから……。
先ほどまで片割れが腰掛けていたカウンター席から立ち上がった治は、エプロンを外す。店のすぐ近くに部屋を借りているものの、今日はそこまで戻る体力がなかった。幸い店の二階にはシャワーも仮眠室もあるため、こういう日はそちらで体を休めることにしている。
──開店した当初は、なぜ別に部屋を借りているのだろう、と思うほどそちらに戻れない日が続いた。目の回るような忙しさが過ぎ去り、やがて落ち着いて店も軌道に乗ったころ──
あの子と再会したのだった。
「サム、連れて来たで!」
「お久しぶりです!」
ある日の夜、ラフな服装の二人組が暖簾をくぐると同時、治の胸に疼くような色が宿った。
が、それが何かを突き止める前に、口はほとんど無意識に「よお来たな」と労いの言葉を口にし、笑みの形を作った。
「改めて、トライアウト合格おめでとさん」
「ありがとうございます! って言っても、治さん、何度もおめでとうってメッセージくれたじゃないですか」
日向がはにかみながら言えば、はあ!? と大袈裟なくらい侑が反応した。
「いや……ちょお待てや! 翔陽くんとサム、連絡取っとったんか!?」
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
「言うとらんかったか?」
日向と治が不思議そうに答えれば、侑は「聞いとらんわ!」と憤慨した。
「なんや、サム! 翔陽くんの連絡先知っとったなら教えてくれたって良かったやろ!」
「聞かれへんかったからな」
あっさりと応じつつ、カウンターに並んで座った二人にお冷とおしぼりを差し出した。
実際のところ──
日向はどうか知らないが、治は意図的に日向の電話番号を知っていると言うことを侑に黙っていた。もし知っていると言えば、きっとこの「翔陽くんに早よトス上げたい」と頻繁に口にしていた片割れのことだ、「自分にも教えろ」とせがんで来たに違いない。
……ただ、なぜ自分が彼に日向の連絡先を教えたくなかったのか。その理由だけは、うまく説明できないのだが。
ともあれメッセージアプリでのやり取りはよくしていたものの、こうして会うのは本当に久しぶりだ。治は片割れを無視して日向に笑いかける。
「それにしても久しぶりやなあ。前回会ったのはまだ高校ん時やったやろ」
「そうですね」日向もまた笑う。「春高の時でしたね。懐かしいです」
「……なんやねん、二人だけで嬉しそうに」
なに翔陽くん独り占めしとんねん、と恨みがましげに睨まれたため、宥めるように出来上がったばかりのトロおにぎりを差し出した。そうしてまた日向に視線を戻す。
「けど、メッセージのやりとりは頻繁やから、あんま懐かしいって感じでもないわなあ」
「そうですね、でも……」日向は頷いてから少しだけ瞼を伏せる。「こうやって、治さんのお店を見ることができて嬉しいです!」
そう口にした日向は、そのままぐるっと周囲を見回す。閉店間際で客も少ないが、それでも割り箸の減り具合だったり流しに溜まった皿だったりで繁盛した様子がわかったのだろう。嬉しそうに唇の端から息を吐き出した後、日向はぱっと治を振り仰いだ。
「治さん、やっぱスゲーです! 俺も負けないように頑張ります!」
「翔陽も凄いやろ。なかなかブラジルまで行って修行なんて出来へんで」
心からそう思っていたが、日向はゆっくりと首を振る。
「でも、まだまだレシーブとか上手くなりたいので……次はブラックジャッカルでがんばります!」
「……ええな」
その向上心に舌を巻く。治自身の夢は叶ったわけだから、あとはこのおにぎり宮という城を守っていく戦いが長く続くだろう。だが、日向は未だ道の途中なのだ。
──その背中を少しでも支えられたら。
なぜかそんな風に考えた時、傍の侑が「おかわり!」と憤慨したように皿を差し出してきたので思考は途切れた。
片割れが来店すると、大体いつも閉店から三十分過ぎたくらいまでは居座られる。いつもは鬱陶しいと思うが、今日ばかりはニコニコと店の話を聞いてくれる日向がいてくれたので、治ももっと長い時間話していたいなと思った。
だが、しばらくすると日向の方から気づいたように声がかかった。
「あっ……、すいません、こんな時間まで」焦ったように言って、日向は隣の侑の肩に触れる。「もう閉店時間過ぎてますよね、帰らなくちゃ……、侑さん、帰りますよ」
「ええよ、と言いたいとこやけど、そろそろ時間やな」治も話に夢中になっていた自分に苦笑し手を拭う。「寮まで送ってくわ」
「そんな、悪いです」
「ええて。ほれツム、行くで」
「はあぁ〜〜? 指図すんなや」酒に弱いくせに飲酒をしていた侑は治を睨み上げるものの、すぐに傍の日向に笑いかける。「翔陽くん、二人で帰ろ〜」
「そんな状態のお前を後輩に運ばせる気ないわ。大人しく車乗ってけや」
治はため息混じりにそう言うと、カウンター下にかけておいた車のキーを手にしてからエプロンを外す。遠慮がちな日向を手で制すと、入り口に歩み寄る。
二人が着いて来るのを確認し、引き戸を開いて外に出て車を起動。ブツブツ言っている片割れを後部座席に放り込むと、日向を助手席に乗せて車を出した。
車は仕入れ先への挨拶や納品に欠かせない。専門学校時代に講義とバイトを掛け持ちしつつ教習所に通うのは非常に骨が折れたが、あの時無理をしてでも取得しておいて本当に良かったと思う。今は仕事で手一杯だから教習所に通う余裕なんてない。
治は助手席の日向を横目でちらりと確認する。日向は遠慮しつつも、好奇心いっぱいの瞳で車の中や治の手元を見つめていた。学校卒業後、ブラジルに行く前はビーチの練習をひたすらしていたと聞いているから、恐らく車の免許など持っていないのだろう。キラキラした瞳で見つめられ、なんだか以前の感情が俄に呼び起こされた。
腹が減る──
「あ、侑さん、寝ちゃいました」後部座席を覗き込んだ日向が苦笑する。「明日オフだから羽目外しちゃったのかもしれませんね」
「ほっとけや」
信号が赤になり、緩やかにスピードを落として車を止めた。そうして苦笑している日向をじっと見下ろし、
手を伸ばして、座席のシート上にあった日向の右手をぎゅっと握った。
目をぱちくりし、握られた自分の手を見つめ、それから治を見上げる日向。
その目を覗き込んでいるとますます空腹になる。誘われるように身を乗り出し、触れるだけの口付けをした。
ほんの目の前で瞠目する日向の鳶色の瞳をじっと見据える。
数秒、日向は硬直していたが、やがてびっくりしたように身を引いた。
「……お、おさむさ、」その様子は嫌悪しているのではなく、戸惑っているように見えた。「……な、なん……今の」
「──ご馳走さん」未だ触れた感触の残る唇をぺろりと舐める。「ああ、青になってもうた。早よ車出さないかんな」
ふっと息を吐き出して日向に笑いかけた後、再び両手でハンドルを握る。隣の日向が自分を見上げつつはくはくと口を開閉しているのが視界の端に映り、なんとなく気分が上向いた。
なぜか少しだけ、空腹が満たされた気分になった。
ブラックジャッカル寮の前に車を停車した時も、まだ日向は戸惑った様子をこちらを見上げていた。
まあ、当たり前やろな……、と胸中で思う。突然手を握られ、キスをされたのだ。おまけに治からの言い分もないし言い訳もしない。戸惑って当然だろう。
……だが、治はキスをした理由を言語化出来るほど自分の感情を理解できていた訳ではなかった。
ただ、手を握ってキスをしたい。そうしたらこの空腹も収まるのではないのかと──
そう体の中の何かが訴えるように疼いて、無意識に体が動いていたのだ。
しかし合意を得ずにしたことは釈明すべきだろう。治は未だ助手席でこちらを伺っている日向に視線を向ける。
「……すまんな、さっきは」
「え!? あ、あの、はい……い、いいえ、」
「どっちやねん」
ふっと笑えば、日向はやはり困惑した表情のままこちらを見上げるだけだ。
その表情を見つめていると、もしかしたらこのまま別れたら、もう会えないのではないかという不安がふっと胸中を過った。だから「すまん、嫌やったやろ」と顎を引いて問うた。
「えっ!?」そこで初めて日向が動揺したように目をぱちくりさせる。それから視線を彷徨わせ、「え、えっと、びっくりしただけ、っていうか……」
そして、日向は恐る恐ると言うように治を見上げた。
「……ふわふわして、気持ち良かったです……」
だからいやじゃないの、自分でもびっくりして……と恥ずかしそうに目を逸らす日向。
──気づけば手首を掴んで引き寄せ、もう一度唇を奪っていた。
それからというもの、日向は時折一人でおにぎり宮へやってきた。
大体日向がやって来るのは閉店十分ほど前。ほとんど客のいない店内でカウンター越しにしばらく治と話をし、完全に人気がなくなるとお互い身を乗り出してキスをする。
最初は触れるだけのキスだけだったが、すぐにそれでは腹が満たされないようになった。しばらく経てばカウンター向こうに回った治が日向を抱き寄せて舌を挿れるようになり、やがてそれにも満足出来くなれば、日向を壁に押し付けて唇を吸い舌を甘噛みし、服の中に手を入れて健康的な肌をなぞった。
日向は治のされるがまま──というよりキスだけでいっぱいいっぱいなのに、それ以上のことをされてもどう対応していいか判断しかねている様子だった。必死に治の袖にしがみつき、耐えるように瞳をぎゅうっと閉じるのだ。
しかし嫌がる様子はなかった。それどころか閉店時間を過ぎると治の方を見上げて「今日もしますよね……?」と、不安と期待の入り混じった声音で問うてくる。そうなれば治も堰を切ったように日向を壁に押し付けて深く深く口付けるのだ。
そんなある日、いつものように日向の口腔を貪っているときに腰をぐっと押しつけると、勃起した治のそれが日向の腰に当たった。それに気づいたのだろう、少し顔を逸らしてキスから逃げた日向は、みるみるうちに頬を真っ赤にして「治さん、それ」と視線で腰を示す。
「ああ、これな」治は浅く呼吸をしながら息を整える。「こんなのいつものことやねん。こういうことしとったらこうなるやろ」
だから気にしなくていい、キスの続きを、と再び顔を寄せるも、日向は俯いてしまった。
ほんの数秒考え込むようにそうしていたが、やがて顔を上げ、頬を真っ赤にしながらも口を開く。
「その……、それじゃあ、キスの先、しますか……?」
果たして自分と日向の関係の名前は何なのだろう。治は仮眠室に備えられたシャワー室で湯を浴び、頭を乱暴に拭いつつ脱衣所へ出る。
好きと言った訳でもなく、付き合おうと口にしたこともない。ただ抱きしめあって、口付けをし、セックスをしていただけ。
仮眠室に入り、そこにある簡易ベッドを眺めると思い出す。店内でキスをした後、はやる気持ちを抑えながら日向の手を引きここまで来て、寝台に押し倒したことを。
男を抱いたのは初めてだったし、日向はセックスどころかキスも治が初めてだと言っていた。けれど勢いのまま抱き合って日向の肌に唇を寄せ、あちこちにキスをするとくすぐったそうに笑ったし、日向が吐精した時も治が挿入した時も苦しそうではあったが、最後は「気持ちいいです」と言って笑ってくれたのだ。
それからというもの、機会があるたびにここで二人で肌を重ねた。
治は寝台の端に腰掛け、清潔なシーツを指でなぞる。……ブラジルに飛んで行ってしまった日向の匂いやぬくもりは、もうどこにもない。
いや、ベッドで日向の気配を思い出すことすら治に許されているのかどうか分からなかった。
ただ、日向を抱きしめ、キスをし、肌を重ねれば、途方もない飢餓感が満たされたから──
──いや。あのころは飢餓感だと思っていた、もっと別の感情が。
治はぐっとシーツを握りしめる。シワになってしまった箇所が、何かを訴えているように見えた。
*
『それじゃあな! みんな、元気で!』
『翔陽こそ元気でな! 日本に戻ってもちゃんと連絡しろよ!』
『うっ……うっ……、お前がいなくなると寂しい……』
『泣くなよデニー! 俺だって……うおおおおん……!』
『周りの客引いてるからやめろ! 翔陽、元気で! 日本着いたら電話しろよな!』
『おう!』
日向たちはチームメイトであるアーザス・サンパウロの選手たちにもう一度手を振ると、今度こそ出発ゲートを潜った。
6月20日、サンパウロ・グァルーリョス国際空港。
世界選手権優勝を手土産にして日本の古巣・ブラックジャッカルへと戻ることになった日向を、オフだというのにもかかわらず、アーザスのメンバーたちは空港の出発ゲート前まで見送りに来てくれた。
本来であればもう少し早く帰国するはずだったが、あちこちへの挨拶や記者会見、メディアの取材などに駆け回っていたらこんな時期になってしまった。奇しくも自分の誕生日前日である。
……いや。これから30時間という乗り継ぎ有りの長い長いフライトを経て成田へ到着するころには、すでに日本は23日になっていることだろう。つまり今年の自分の誕生日は煙のように空へと消えていってしまうのだ。そう考えるとおかしな気持ちになった。
世界一の頂には辿り着いた。次の目標は日本代表の選手として、日本のチームで金メダルを取ることだ。
そうするには日本に戻り、リーグの底上げをしなければならない。いつか見知った仲間達とともに表彰台に上がることを想像するとワクワクしたし、必ずそれが達成できると信じて疑わなかった。
ともあれ出発ゲートを潜る。この先はもう、ブラジルであってブラジルではない。
ギリギリまでチームメイトたちと別れを惜しんでいたために、急いで搭乗口まで行かなければならない。
『Atenção, senhores passageiros do vôo 125 da AMA com destino a Narita』
流れてくるアナウンスに耳を傾け、スーツケースを引きつつ足早に進む。
……と、そこでポケットに入れたスマホが振動していることに気づいた。
日向は近づいてきた搭乗口を見つめ、少しだけ戸惑ったものの、それでもポケットからスマホを取り出す。
表示された名前を目にして息を呑んだ。──『宮治』。
思わず立ち止まり、あたりをキョロキョロ見回してから通路の端に避ける。そうして受話ボタンをスライドすれば、耳元に懐かしい、あの落ち着いた声音が聞こえてきた。
『翔陽……、今大丈夫か?』
「はい! ……あ、もう飛行機乗るところでしたけど。どうしたんですか、治さん?」
電話なんて珍しいですね、と声に出した自分の声が若干はしゃいでいることを、日向は認識していた。
数年前、ブラックジャッカルに所属していた時期。日向は彼とキスをしたり、何度か体を重ねていた。
最初のうちは好奇心とふわふわした気持ちよさのためにやっていたし、きっとそれは向こうもそうだったのだろうと思っている。
けれど、しばらく経てばその感情が別の何かに変化したことを日向は自覚せざるを得なかった。治が女性客と親しげに話しているところを目にすれば胸中にもやもやしたものが湧き上がり、その後治に抱かれて熱っぽい視線を向けられればそのもやもやは跡形もなく消え去り、代わりに安心感のようなものに取って変わった。
けれど、日向は未だその一群の感情に名前をつけられてはいない。ブラジルに来てからも治とのメッセージアプリでのやりとりは続いていたが、あの頃のことは二人ともなんとなく話題にしなかったので、ひょっとしたら治の中ではもう無かったことになってしまったのかもしれない。
──そう考えると胸の奥がずきんと疼いたが、振り払い、笑顔で尋ねる。
電話口向こうの治は安堵したように息をこぼし、それから間を置いて言う。
『いや……、今日、翔陽の誕生日やろ。今言うとかんと間に合わへんやろ』
「あっ……、ありがとうございます」素直に嬉しくなって頬を掻いた。「こっちだとまだ20日ですけどね!」
『日本じゃ21日やから。……、戻ってくるの、楽しみにしとるで』
「ありがとうございます! 帰国したら、すぐに治さんのところのおにぎり食べに行きますね!」
『それもええけど、先にブラックジャッカルの方に顔出さなあかんのやないの?』
揶揄うような声音で言われ、日向は苦笑する。
「向こう行ったらしばらく帰らせてもらえなさそうで……、今日だって、帰国の日程侑さんたちに知らせてないんです」
『へえ、ほんまに? ツム……あいつら翔陽が戻ってくるの、めっちゃ楽しみにしとったで』
「前回日本に戻った時は、ちゃんと時間とか連絡しておいたんですけど。その時、侑さんも木兎さんも、サングラスひとつで到着ロビーまで来て、騒ぎになっちゃって……」
人気選手なのにサングラスくらいしか変装せず、おまけに日向の姿を見た途端大はしゃぎしたものだから、あの時は大変だった……、と苦笑混じりに伝えれば、治は大声で笑う。
『はは、あいつららしいわ。……俺は当日、空港まで迎えに行くで』
「えっ、いいですよ。お店忙しいと思うし……」
『ええよ、東京出店のために向こう行くことになっとるし』治は淡々と口にする。『翔陽にもはよ会いたいからな』
その言葉に少し胸があったかくなる、けれど──
『Embarque para passageiros com número de assento 1 a 30』
無機質なアナウンスに息を呑み、日向は急いで止まっていた足を早めた。
「すいません、治さん! 俺、今から飛行機に乗るので──」
『おお、分かった。そろそろ切るな』そこで一拍置いた治は、『あと翔陽』
「え!? なんですか!?」
『Embarque imediato pelo portão numéro dez』
『好きや』アナウンスにかき消されそうなほどの小声だったが、日向の耳にははっきりと聞こえた。『結婚するで』
えっ、と聞き返す間もなく電話が切れる。
『Repetir, Embarque imediato pelo portão numéro dez──……」
日向は通話終了音の鳴るスマホを握りしめたまま、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。
着陸した飛行機から降りた日向は、まどろっこしい速さでベルトコンベアから手荷物が流れてくるのを待ち、自らのそれを発見するとすぐにそれを取り上げる。
そうして早足で到着ロビーへと急いだ。
いつもであればこっそり帽子を深く被ってそこから出るのだが、今日に限ってはそんな配慮など出来るはずもない。日向は駆け込むように自動ドアを出ると、ごった返す人の中から懐かしい、あの顔を探した。
幸い長身の彼はすぐに見つかった。人混みからやや離れた場所でこちらをまっすぐに見据え、目が合うとほんのり笑う。
そして、彼の唇がゆっくりと「しょうよう」の言葉を紡ぐのを見た瞬間、日向はスーツケースのキャリーハンドルからそっと手を離した。
足が一歩、二歩と進み、やがて駆け出す。
治が両手をわずかに広げてくれたのが見えた。と思った次の瞬間には、日向は彼の腕の中に飛び込んでいた。
思いっきり飛びついたのにも関わらず、治はよろけるでもなくしっかりと受け止めてくれた。そのことに胸を熱くしながらも、この30時間のフライト中にようやく名前をつけた感情──いや、それよりももっとずっとずっと前から秘めていた心中を口にする。
「俺も──」ぎゅうっと治の首にしがみつく。「俺も、好きです!」
背中に回った腕に力が込められ、楽しそうに、嬉しそうに笑い声を立てる治。
日向はほんの少しだけ涙がこぼれてしまったが、一緒に笑うと、周りの人々は不思議そうにこちらを眺めていた。