空腹なんかじゃない
「翔陽くん、そろそろ上がろうや」
トスを上げてくれていた宮侑が落ちていたボールを拾い上げてそう言うので、日向は目をぱちくりさせた後、顎から伝う汗を乱暴に拭い、大きく頷いた。
「はい! 自主練付き合ってくれてありがとうございました!」
「ええねんええねん」侑は上機嫌に笑う。「翔陽くんとバレーすんの俺も好きやし。けどもうええ時間や、腹ごしらえせんとな!」
MSBYブラックジャッカル専用の体育館。
いつものように合同練習ののち、自主練としてチームの正セッターにトスを上げてもらっていた日向は、胸中に満ちる「今日もたくさんトス打てて楽しかった!」という気持ちで、満足して笑いながら侑の隣に立った。
「今日のご飯なんでしょうね……、俺、シャケがいいです!」
「食堂、日替わりやから飽きんでええよな」侑は頷き同意してくれる。「俺も鮭好きやで! 一番好きなのはトロなんやけどな〜」
「うーん……、食堂でトロが出るのは想像できないですね」日向はちょっと首を傾げた後、にっこり笑って侑を見上げた。「今度の練習試合が終わったら、一緒に外に食べに行きませんか?」
「ええな、それ!」
侑は間を置かず日向の提案に頷き、嬉しそうに笑った。
日向がMSBYブラックジャッカルのトライアウトに合格し、正式にチームの一員となってから数か月が過ぎた。
ブラジル帰りの日向がこのチームを選んだのは『トライアウトをしているチームの中で一番強かった』からだったが、同チーム内で複数人知っている選手がいた。
一人は木兎光太郎。梟谷出身で、合宿の時フェイントを教えてくれた師匠のような存在だ。
もう一人は佐久早聖臣。井闥山学院出身で、烏野高校時代は一度も対戦したことはなかったが、日向は彼を三大エースとして記憶していた。意外なことに向こうもこちらのことを覚えていたらしく、初対面で『発熱退場』とあだ名のように呼ばれた。
そしてもう一人は宮侑。春高で二度対戦したことのある元稲荷崎高校のセッターは、高校時代にネットを挟んだ時には怖い先輩だと思っていたが、同じチームになってみるととても面倒見の良い面白い先輩だった。今もこうして日向のために自主練に付き合って、トスを上げてくれたり一緒の食事の約束をしたりする。
今では日向は彼が大好きだった。
二人して寮に戻る夜道を歩きつつ、侑は額の汗を軽く拭うと大きく息を吐いた。
「はァー……、それにしても腹減ったなぁ」
「すいません。こんな時間まで付き合ってもらっちゃって……」
「それはええてさっき――あ、いや」侑はそこで何か気付いたように言葉を止めると、日向を楽し気に見下ろす。「せや。付き合ったご褒美に、また翔陽くんの手料理食べさせてや」
「へ?」
唐突なその言葉に、日向は目をぱちくりさせた。
確かにリオにいた頃はずっと自炊をしていたが、日本に戻ってブラックジャッカルに入団してからこちら、寮生活のため手料理をした記憶はない。首をかしげると、侑は日向の額を軽く指で押した。
「しばらく前、おにぎり作って部屋持って来てくれたことあったやろ!」そう指摘され、日向はようやく思い至る。侑はにやりと笑った。「あん時のおにぎりめっちゃ美味かったやん! サムのヤツのに匹敵……いや、それ以上に美味かった!」
「そんなにおいしかったですか?」日向は顎を引いて笑う。「それなら、よかったです」
「いや、ホンマに美味かったわ〜。けど翔陽くんがあれだけのモン作れるいうならサムの奴商売上がったりやな!」
あいつにもっと修行しろ言わんと! そんなことを言って鼻を鳴らしている侑の横顔を見上げ、日向は胸中で苦笑した。
――すいません、侑さん。あれ、おれが作ったんじゃないんです。
治さんのと同じくらいおいしいのは当たり前なんです。
だって、あれ、治さんが作ってくれたんだから。
二週間ほど前のことだっただろうか。侑はしばらく前から練習していたサーブが上手くいかず、荒れていた時期があった。
ルーチンを崩してのジャンフロやスパイクサーブがどうやっても上手くいかないらしく、何度も練習しているうちに、そのうちこれまで決まっていたルーチン通りのサーブすら決まらなくなった。
傍らで練習していた日向にも、彼の横顔に焦燥と苛立ちがはっきりと滲んでいるのが分かった。木兎が「ツムツム今日調子悪いなー!」という言葉にも、普段であれば「うるっさいわ!」と怒鳴り返しているはずが、その日はそれすらなかった。返事をせず、顔を背けた侑は思いっきり舌打ちをすると、そのままずかずかとロッカールームの方へと去って行ってしまった。
日向は慌てて彼を追おうとしたが、キャプテンである明暗から「そっとしとき」と止められた。
「新しいこと始めたら、最初はうまくいかないのは当然や。こういうのは自分で乗り越えるしかないねん」
そのことは、ビーチバレーをレベル1からやり直した日向ももちろん知っている。最初は辛いけど、乗り越えれば段々うまくなって、そのうち楽しくなるのだ。
けれど、いつも良くしてくれる侑にどうしても何かしたかった。辛い時期なのは分かるが、元気を出してくれるようなことを。落ち込んでいた日向がブラジルで及川に会って元気が出たように、侑にも元気を出して貰いたかった。
寮に戻り、ベッドの端に腰掛けてしばらくどうしようかうんうん悩んだ後、侑の片割れである治に相談してみることにした。メッセージアプリを立ち上げ、登録されている彼の名前を探す。
一度、侑に連れられて彼が店主をしている『おにぎり宮』に連れて行ってもらったことがある。高校時代に対戦した時の彼の印象は『仏頂面だけど速攻が出来てトスもうまいすごいウィングスパイカー』で、おおむね侑のフォローに回ることが多かった様子だが、店主となった店の中では穏やかな笑みで日向を出迎えてくれた。
「いつもツムが世話になっとんなぁ」そう言いつつ、彼は日向の前にお新香のついたおにぎりを二つ、提供してくれた。「こいつポンコツやから大変やろ?」
日向が何か口にする前に侑が声を上げた。
「何言うてんねん! 俺らめっちゃ仲良しやから! なー翔陽くん?」
言って侑に顔を覗き込まれたので、日向は大きく頷いた。
「はい、仲良しです!」
「ならええけど」治はどこか不服そうに顎を引く。「まあ、コイツに何かされたらいつでも言いや。しばいたるから」
片割れの言葉にうるさいわ、と応じつつおにぎりをむしゃむしゃ頬張る侑。双子のこんな姿を見るのは初めてだった日向は、なんとなく妹のことを思い出しつつ、男兄弟ってこんな感じなのかなあ、なんて感慨に耽ったりした。
しばらくの後、侑が手洗いに立った時、おにぎりを食べていた日向の前で、治が身を乗り出してきた。
「なあ、翔陽くん」治は日向の顔を覗き込み、にやりと笑う。「これ、俺の連絡先や」
そう言って、彼は『おにぎり宮』の箸袋の裏にメッセージアプリのIDらしきものを書いたそれを差し出した。
日向はおにぎりを頬張ったまま、目をぱちぱちしてそれを見下ろす。治は楽しそうに笑った。
「さっき言うたやろ、ツムに何かされたら言いやって。なんかあったらいつでもそこに連絡してきていいで」
「へ」日向は慌てて口の中のおにぎりを飲み下して、顔を上げる。「でも、俺、ほんとに侑さんにはよくしてもらっていて」
「ええて。もしかしたらそのうち手に余るようなことあるかもしれんやろ」
治は穏やかに微笑んだ。同じ顔をした侑がそんな表情をしたことはなく、日向はなんだか新鮮な気分で彼をじっと見つめてしまう。
IDを記した紙を日向の前にそっと置いた治は、軽く眉尻を下げた。
「……それとも俺と連絡先交換とかしたくないんか?」
「えっ、い、いえっ」日向は焦って紙を取り上げた。「そんなワケじゃないです! なんか気をつかってもらって……ありがとうございますっ」
「こっちこそツムの面倒見てもろうてありがたいわ」治はおおらかに笑う。「まあ、何でもええから……ツムのことやなくてもええから、連絡してき」
一応俺の方が年上なんやから、相談に乗れることもあるかもしれんからなあ。そんな風に言って、彼は漬物をもう一つ二つ、日向の皿に追加してくれた。
そうやって手に入れた治のIDに、日向は時折連絡をしていた。最初は侑の話が主なやりとりで、日向が『侑さんが載った雑誌が来月の終わりに発売されるらしいですよ!』なんて送ると治は『買わんでええで、そんなの』なんて送ってくるくせに、実際雑誌の発売日には日向に『あいつに言うとって。あんなスカしたポーズ似合うてないって』とメッセージを送ってきたりする。『治さん雑誌買ったんですね!』と文字を打ちながら、日向は治のメッセージを眺めて一人寮の部屋でけらけら笑っていた。
そうしているうちに、やがてお互いの日常に関しての話をすることも多くなった。日向が『今日の食堂のメニュー、鮭の定食だったんです! 俺、カリカリに焼いた鮭がめちゃくちゃ好きで』と送ると、治から『そんなら次来る時連絡してや。いい鮭仕入れとくから』と返信が返ってくる。
また、治から『新米入ったで! はよ食いに来てや!!』と催促のメッセージが来た時は、日向は『いいですね! 行きたいです! 新米でつくった治さんのおにぎりとかさんじゅっこくらい食べられそうです!』と返信。そうすると『さすがにそれは栄養バランスが悪い』とマジレスされて、これまた笑ってしまった。
有り体に言うと、治とのメッセージのやりとりはとても楽しかった。まだ子供のようにはしゃぐことの多い侑とは異なり、社会人として一つの店の店主として生計を立てている治は、なんだかとても落ち着いた感じがして新鮮だった。
高校時代にはこんなこと考えられなかったよなあ、なんて考えながら、日向はメッセージアプリを立ち上げた。そうして治とのトークルームを開き、もたもたした手つきでメッセージを入力する。
『侑さんがサーブがうまくいかなくって悩んでいるみたいです。なにか元気の出るようなことをしたいとおもうのですが、なにがいいと思いますか』
そうして送信し、日向は細く息を吐き出す。
……だが、しばらく待っても返信は返ってこない。いつもだったらすぐにメッセージが返ってくるはずなのになあ、それともお店が忙しいのかなあ、でももうお店しまってる時間だし……、なんてことを悩みつつ、時計とスマホを交互に眺めつつ、もう一度送ってみようかどうしようか迷っていた時、
通知が来た。治からの返信だ。
そしてそこに書かれてあったのは、日向がびっくりするような言葉だった。
『ちょお寮の外出てきて』
文面を二度ほど読んでから日向は慌てて立ち上がり、部屋を飛び出した。そしてブラックジャッカル寮のぎしぎし言う廊下を早足で進み、玄関へとたどり着く。
ガラス越しに見覚えのある車と、その傍らに立つビニール袋を手に下げた治がこちらに手を振っているのを見て、思わず大声を上げそうになってしまう。
それをなんとか堪えると、日向は焦りながらも靴箱から自分の外履きの靴を取り出し、急いで玄関の外へ出る。
「お、治さん!」
既に夜も更け、輝く街灯を背に立つ治は、玄関から出てきた日向にいたずらが成功した子供のような笑みを見せた。
「すまんなぁ、こんな時間に」
「い、いや、それは俺のせりふで……、どうしたんですか、こんな……お店は?」
何を最初に尋ねればいいのか分からず、わたわたしながら言う日向に、治はゆっくりと笑って近づいてきた。
「ツムのことや。なんや元気づけたいって言われたからなあ……、これ、食わせたって」
そう言って、治はそっと手にしたビニール袋を差し出してきた。反射的に受け取った日向がその中を覗き込むと、中にはラップに包まれたおにぎりが三つ、ちょこんと収まっている。
日向が目をぱちくりさせると、治は穏やかに続ける。
「あいつ単純やからな……、なんか美味いもんでも食えば元気でると思うで」
そう言われ、日向は治を見上げた。彼は日向のメッセージを受け取ったあとでこのおにぎりを握り、そうして決して近くはない店とブラックジャッカルの距離を車でやってきたのだ。
治は呆けたように自身を見上げる日向に、もう一度笑いかけた。
「ただ、俺からっちゅうとアイツへそ曲げるかもしれへんから、翔陽くんが自分で作った、言うて渡してな」治はそう言って、日向を見下ろす視線をやわらげる。「そうしたらあいつ、きっと喜ぶやろうから」
日向はぽかんとしたまま、渡されたおにぎりと治を交互に見つめる。治はそんな日向に小さく笑った後、小さな声で続けた。
「……あいつ、高校の頃から翔陽くんのこと気に入っとるんや。
いろいろと面倒なヤツかもしれへんが、見捨てへんでやってくれると嬉しいわ」
彼の声音と目元には、たった一人の兄弟を心配する不器用な優しさが宿っていた。
その時のことを思い出しつつ日向は食事を終えて寮の自室に戻る。あの時治から持たされたおにぎりを、彼から言われた通り日向が自分で作った、と言って侑に手渡したが、とても喜んでくれてうまいうまいと言いつつむしゃむしゃと食べていた。
そうすると侑は練習中の様子はどこへやら。すっかり元気が出たようで、ありがとな翔陽くん! なんて言って笑ってくれた。日向はと言えば、その様子を見て治さんさすが双子だなあ、相手のことよくわかっている……、なんて考えていた。
ただ、その時はその時で良かったとしても、このまま治の作ったおにぎりを日向が作った、と思い込まれたままでいいのだろうか。今はサーブも完成し絶好調な侑にであれば、「あの時のおにぎりは治さんのだったんですよ」と言っても問題ないような気がする。
そう考えた日向はベッドの端に腰掛けてスマホのメッセージアプリを立ち上げ、治にメッセージを打ち込む。
『治さん、侑さん元気になりました! そろそろあのおにぎりのせいさくしゃのこと、本当のことを話してもいいんじゃないでしょうか』
するとすぐに返事があった。
『やめとき。実は俺が作ってたって知ったらアイツ機嫌悪くなるで』
『でも、俺が作ったって侑さんがかんちがいしたままだと、治さんにも悪いんじゃ……』
『俺はええて』
『俺、侑さんに、料理人の治さんと同じくらいのものすごい料理上手だっておもわれてます』
『料理が上手いのはその通りやろ?』
『けど、なんかだましてるみたいで……』
ぐずぐずと引き下がる日向に、しばらく間を置いてから返信があった。
『気にしなくてええけど、もし気になっとるんやったらちょっと俺と付き合ってや』
『え?』
どう言うことなんだろう、と日向が首を傾げていると、再び治からのメッセージが届く。
『俺、一度翔陽くんとメシ食いに行きたかったんやで。付き合ってや。
そんで今回のことはチャラ。どっちも忘れる、っちゅうのはどうや』
治が稲荷崎高校に在学していた頃、春高で二度対戦した時の日向は、相手チームの中で一際目を惹く存在だった。リベロと同じくらいの身長でコートを走り回り、気付いたら誰よりも高いところにいる。
その小柄な体躯を見ていると、なぜだか腹が減った。試合中にもかかわらず、メシ食いたいな、などと考えていた。
一体これはどういうことだろうと、時折手が空いた時に考えた。特定の誰かを見つめていると腹が減る、そんなことはこれまで一度も無かった。そう言う意味では、日向は治にとって大変特別な存在だった。
ただ、特別な存在だと言うのは片割れの侑にとってもそうである。高校時代のネットを挟んでいた時から、侑は日向にトスを上げたい、日向を使ってブロック振り回したい、いつか一緒にプレーしたいと事あるごとに口にしていた。だから日向がブラックジャッカルのトライアウトに合格したその時から侑はそれはそれは嬉しそうに連絡をしてきたのだ。
『サム! 翔陽くんがうちのチーム来るで!』
『歓迎会お前の店でしたる! 大量のメシ用意しとけ!!』
『翔陽くん卵かけご飯が好き言うてたから卵もな! 最高級のやつ用意せえよ!!』
そんなメッセージを立て続けに受け取り、浮かれとんなぁコイツなどと治は思ったものだが、鼻歌を歌いながら歓迎会の準備をしていることに気づき、浮かれてんのは自分も同じかなどと苦笑した。
実際に歓迎会、とは言っても侑がほとんど強引に日向をおにぎり宮に連れて来ただけだが、とにかく日向が店に来てたくさんの料理に目を輝かせ、これおいしいです! とか治さん俺のいっこ上なだけなのにもうお店持ってて本当にスゲーです! なんて褒めてくれるので、だいぶ気がよくなった治はサービスしたくなって作り置きしていたサラダやらイカのフライやらを出してあれも食え、これも食えなどと勧めた。それを目にした日向は、本当に嬉しそうにありがとうございます! と笑った。
高校時代に対戦した時は分からなかったが、そうやってほんの間近に接した日向は、誰よりも素直で純真で、真っ直ぐで眩しい存在だった。こらツムが入れ込むのも分かるわ、と心中で納得すると同時、やはり昔感じた記憶ーー治の本能が空腹を訴えて来た。
日向を見ていると腹が減る。
一体それがどういう事なのか、その時の治は分からなかった。ただ、なんとなく離れがたく感じてメッセージアプリのIDを渡した。なんかあったら相談していいから、などと取って付けたような言葉を添えながら。
日向は最初は戸惑っていたものの、しばらくメッセージをやり取りすればすっかり打ち解けた風で、侑からすら聞いたことのないブラックジャッカル選手寮での出来事を頻繁に送って来てくれた。
『選手寮ってぜいたくなんですよ、一人一人の部屋にそれぞれお風呂場ついてるんです』
『侑さん、部屋をスゲーきれいにしてるんです! 兵庫のおうちでも部屋きれいだったんですか?』
『選手寮の玄関のところにツバメが巣つくりました! 汚れる、って言ってオミさんはいやそうなんですけど……』
たまに送ってくる自撮りはとても楽しそうで、時折そこには片割れの侑が写っていることもあり、治は仕事の合間を見つけてそれを眺めては心を和ませていた。
しかし同時にやはり空腹を覚えた。それは本当に治にとっては謎の現象で、例えば食事を終えたばかりで腹一杯の時であっても日向の顔を見れば本能が刺激されるのだ。
なぜ日向にだけそんな風に感じるのか。しばらく考えても分からなかったが、ただ一つ閃いたことがある。
日向を見ていれば腹が減るのであれば、日向を見つめながら食事をすれば永遠にメシが食えるんじゃないだろうか。
そう考え、折を見て日向に食事に行こうと提案した。日向はちょっと戸惑っていたようだが、押し切るとようよう頷いてくれた。
もちろん、面倒なことにならぬよう侑には秘密にさせて。
そうしてブラックジャッカル寮からやや離れた大きな駅で待ち合わせをした今日、約束の時間よりずいぶん前に到着した治の前に、大通りの方から日向が駆け寄って来た。
「す、すいません! 待ちましたか!?」
「いや、待ってへんよ。ちゅうかまだ約束の時間より十分以上早いやん」
「お、おさむさん、先輩だし……少し早めに来て待ってようと思ってたんですけど。こんなに早く来てるなんて思わなくて」
「そんなん気にせんでええねん、ほな行こうで、店は予約してあるんや」
そう言って促して歩き始めれば、日向は慌てて治の隣に立って歩きつつ、眉尻を下げた。
「……すいません、今日のこれ、治さんへのおれいですから、本当なら俺が店探したり予約したりすればよかったんですけど……」
「ええねん、俺のお勧めの店で翔陽くんと食べたかったしなぁ」
そう言うと、日向はまだちょっと遠慮がちだったが、それでもかすかに微笑んだ。
治が今日、日向と食事をする場所に選んだのは駅から程近いビジネスホテルにあるしゃれたレストランだ。正直お洒落な店はなんとなく窮屈で息が詰まりそうになるし、あまり食事をする店としては選んだことはないが、今日そこを選んだのには理由がある。
そのレストラン、ランチはバイキング形式で食べ放題で、かつ味も結構美味しいのだ。
日向を見つめながら食事をすれば永遠に食べ続けることができるのでは、と言う仮説が正しいのであれば、きっと今日は大好きなメシを大量に食べることが可能だろう。だとしたら、たくさん量が取れて種類もあり、かつ味が美味しいレストランが最適だ。
二人で並んでホテルへ向かう道を進むが、駅周辺はさすがに人が多く、休日の昼近いこの時間帯は駅前へ向かう人が多い。流れに逆らって歩きながら、ふと傍らを見下ろすと日向が人の波に揉まれてあたふたと家族連れを避けている。その人混みに慣れていない様子に、きっと宮城や人口密度の低いブラジルで過ごし、まだこうしたもみくちゃにされる程の人混みに慣れていないのだと思い当たる。
「ほら。自分、はぐれるで」
見かねた治が手を伸ばし、日向の手を取った。そうして引き寄せれば、日向は一瞬びっくりしたように瞠目したが、すぐに安心したのかふにゃっと笑った。
「ありがとうございます」
「ええて。こんな所ではぐれたらお互い困るしな」
そう言うと、日向はもう一度ありがとうございます、と治を見上げて笑う。
ーーそうしたら、なぜか日向の手を握っている手がぐっと熱くなるのがわかった。
「?」
思わず自分のその手を見下ろすが、その原因はわからない。
「治さん、どうしたんですか?」
眉根を寄せて自分の手を見下ろす治を、日向は不思議そうに見上げてくる。治はちょっと首を傾げた。
「いや、天ぷら揚げとるみたいやなぁって思ってな」
「え? 天ぷら?」
「手がめっちゃ熱いんや。……なんでなんやろ」
「え? 熱いですか? なら手離しましょうか」
「いや、いや、それはアカン。はぐれたら困るやん」
治は首を横に振ってそう言いつつーー
めちゃくちゃ熱いのは確かなのに、はぐれたら困るから、などと言い訳をしつつ、どうしても手を離したくないと思っている自分に気づいていた。
ビジネスホテルの一階にある、奥まった広間。
壁沿いには和洋中問わずたくさんの料理が載った皿や鍋が所狭しと並べられている。その色とりどりの料理を見て日向は目を輝かせた。
「スゲー! 俺、こんなとこ来たの初めてです!」
「たくさん食ってええで、バイキングや、食べ放題やからなあ」
「めちゃくちゃ楽しみです!」
治さん早く行きましょう、と席を確保するなり治の袖を引いて立ち上がらせた日向は、踊るような足取りで和食の方へと近づいていった。その後ろ姿を眺めながら、治もまた浮かれた気分で取り皿を手に取る。
ここのバイキングは種類だけではなく味にも産地にもこだわっていると評判だ。しかも今日は治に空腹を覚えさせる日向が一緒だし、きっといくらでも美味い料理を食べられるに違いない。
そんな風に考えて、治は大盛りにしたご飯に揚げ出し豆腐や肉じゃが、きゅうりの酢の物や海老と蓮根の天ぷらなどを取り皿にたくさん取り、席に戻る。
すでに戻っていた日向は治を待ってくれていたらしく、「早く食べましょう!」とこちらに箸を差し出してくれた。
そうして二人でいただきますをし、割り箸を割って箸をつけ始める。
日向が持って来たのは治と同じくらいの大盛りのご飯にコールスローサラダやチキンソテー、それから果物にかぼちゃの煮付け……スポーツマンらしくヘルシーな品選びだ。
日向は早速かぼちゃを口に運び、咀嚼すると「美味しい!」と顔を輝かせた。
「治さん! これめちゃくちゃ美味しいです!」
「そりゃ良かったわ」治も思わず微笑みながら酢の物に箸をつける。「そんなに喜んでもろたなら連れて来た甲斐があったっちゅうもんやな」
「治さんはスゲーです!」日向はにこにこしながら茶碗を手にした。「料理もうまいのに、こんな美味しいご飯のお店も知ってるなんて!」
そんな風に、あまりにもまっすぐに治を褒めて笑う日向にーー
治はなぜか、空腹とは真逆の感覚が自らに湧くのを感じた。
ーーなんや、変やな。
思わず片眉を上げる治に気づかず、日向はこちらに笑いかけてくる。
「それに、俺と一つしか違わないのにお店開いてるし! 高校で対戦した時はバレーめっちゃ上手かったし! 治さんって何やってもスゲーなあって、俺、おもうんです!」
邪気なく治を褒める日向を見つめていると、胸のあたりがぶわっと熱くなる。
「あかん」治は日向を見つめながら呟く。「なんや、もう腹いっぱいになってもうたわ」
「え?」日向は驚いたように目をぱちくりさせた。「まだぜんぜん食べてないじゃないですか」
「わからん……」治は自分の取り皿を見下ろす。「食べても無いのに腹一杯になってもうたわ」
日向は不思議そうに治をじっと見つめていたが、やがて何かに気づいたのか「あっ」と声を上げる。
「治さん、もしかしてカゼとか引いてます?」そう言って、心配そうに眉尻を下げた日向がテーブル越しに右手を伸ばした。「カゼとか引いてたら食欲なくなるって言いますよね」
ぴとっと日向の右手が治の額に触れ、ちょっと首を傾げた。
「……うーん、熱はなさそうですけど……」
やや近づいた日向の顔を間近で見つめながら、治はなぜか、自分の頬が熱くなっていくのが分かった。……先ほど日向と手を繋いだ時と同じ熱さだ。
「だ、大丈夫やから」それだけ何とか言うと、日向の手を外させる。「カゼとかやないで。さっきまでピンピンしとったやろ」
「でも、お腹いっぱいなら、こんなにたくさん料理があっても食べれないですよね」
日向はそう言いつつ、残念そうに治を、それから綺麗に並べられたバイキングの料理の数々を眺めた。
そうして再度治に視線を戻すと、またにっこり笑う。
「残念ですけど、このお皿の食べ終わったらこのお店出ませんか? それでお店出たあと、治さんの体調が良かったら少し歩きましょう!」
こんなにすぐお別れするの寂しいですから! と口にする日向をじっと見つめる。
治は「せやな」と小さく頷きつつ、その笑顔から視線を逸らした。
やっぱり日向の笑顔を見ていると、胸が熱くなるような満足感が生まれて空腹が消え、天ぷらを揚げている時のように手や頬が熱を持つ。
ーーなんや、すっかりアテが外れたわ。
日向を見つめていれば、いくらでも食事が喉を通るのだと思っていた。
けれど、実際こうして目の前に日向がいて、一緒に食事をして笑顔を向けられれば、なんだか胸がいっぱいになって満腹感のようなものがもたらされた。
治は大盛りになったご飯を静かに見下ろす。いつもだったら喜んで掻き込むそれは、今はなんだかそんな気にならなかったし……
なぜか、そのことに悪い気も起こらなかったのだ。
治が伝票を持ってレジへ向かおうとしたところ、頑として日向が「今日は治さんにお礼をするために来たので!」と固辞しさっさと支払ってしまった。
そうして二人で並び立ってホテルを出て、天気の良い川沿いの公園をゆっくりと歩く。
駅周辺は酷く混んでいたが、このあたりはとても静かで散策にちょうど良かった。
「あ! 治さん、カルガモがいますよ!」日向は手すりから身を乗り出しつつ治の服の裾を引く。「うちの近所にもいたなぁ、この時期になると子供が親鳥のうしろくっついて歩くのが見えるんですよね」
そう言って、また笑う日向。……再び胸中に湧くのは満腹感のようなそれだ。
ーーいや。
これは本当に満腹感なんだろうか。
日向の横顔を見つめながら考える。だって、ほとんど何も食べていないのに腹一杯になるなんて絶対におかしい。
「うちの周りって本当に田舎で、タヌキやイノシシも出るんです」治の胸中を知ってか知らずか、日向は楽しそうに笑いながら続ける。「そうだ、治さん! ヌートリアって知ってますか? でっかいネズミみたいなやつなんですけど」
微笑む日向の横顔を眺めていると、確かに空腹感が湧き出てこない。この間までは確かに、その姿を見つめていると腹が減って仕方がなかったのに。
そう、この間までーー高校時代の試合中だったり、おにぎり宮に顔を出した時だったりした時は。
けれど、今、こうして隣を歩き手の届く場所にいると、空腹感は消えて代わりに満腹感のような充足感を得ることができる。
「あれ、子供のころ初めて見た時スゲーびっくりしました。あ、あとびっくりしたって言ったらシラサギとかもです。頭いいんですよ、稲刈りしてるトラクター? の後ろをずっとついて回っているんです。お米が落ちるから!
しばらく地元に帰ってないから懐かしいです」
……近くにおらず、離れたところにいる日向を見ていると、空腹感を覚える。ーーそれはおそらく焦がれていたのだ。
手の届くところにいて、治を真っ直ぐに見つめて笑っているのを見ると、満腹感を覚える。ーーそれはおそらく嬉しかったのだ。
手を繋いだり、額に日向の手が触れると、そこが熱くなる。きっとそれは、思いを寄せる相手が触れたからだ。
きっと自分は、これまで感じたこともない感情に名前をつけることができず、空腹とか満腹とか、自分にとって分かりやすい名前を当てはめていただけなのだろう。
けど、今なら分かる。
ーーああ、なんや。
「田舎ですけど、スゲーいいところなんですよ。
空気もいいし、あそこで治さんのおにぎり食べられたら最高だろうなあ」
ーー俺は、この子が好きなんや。
ようやく自覚した感情にきちんとした名前をつけた治はーー
そのままゆっくりと、日向と共に、昼下がりの公園を穏やかに歩き続けた。