雨檻


 初夏というには肌寒い夜になった。
 治が調べて翔陽がついてきた、こぢんまりとした蕎麦屋。その外からパタパタと音がし始めた時には、二人揃って天気予報アプリを立ち上げて肩を落とした。太陽のマークが続いていたはずの予報には、まるでもともとそこにあったかのように傘のマークがぽつりとついて、降水確率と湿度の数値は不自然に大きくなっていた。
 今日訪れたのは小さなカウンターに店主が一人という、少しばかり敷居の高い店だった。外の看板を軒下に入れようと、店主が静かに戸を開ける。その隙間からはっきりと聞こえて来る雨脚は、まだそれほど酷くはないようだった。ただ、これから大雨に変わる予感はする。翔陽が「これ酷くなりますね」と呟いたから確信に変わった。
 全ての皿が空になった今、距離のある駅まで腹ごなしに走ることを二人は即座に決めた。



「あかんかったなぁ」
「いけると思いましたけどねー」
 もう半分ほど向かえば駅というところで足止めを食らってしまった。
 すぐに前が見えないほどの大雨に変わり、濡れた治達を線路の高架下に押し込めたまま、未だ過ぎ去る気配はない。いわゆるゲリラ豪雨だった。
 シャワーのような雨の中、空が光ると、数秒してから音が響く。街灯は遠く、高架下の広いスペースを潰して作られた駐輪場の奥は暗闇だった。時折、大きな音を立てて頭上を電車が通り過ぎていく。見えるはずもないそれを、翔陽は何度か物欲しげに見上げていた。
 翔陽を駅まで送ったら、治は、乗ってきた車に戻って帰る予定でいた。ここから車を停めた駐車場までそう離れてはいないが、この天候ではさらに濡れることは免れず、それよりも電車で帰る翔陽を置いていくことに気が引ける。ただ一言、送ろうかと呟けば止まっている物事は進みそうだが、それを口にすることに治は躊躇していた。
 「一番美味い蕎麦がきだった」だの、「漬物に見たことがない野菜があった」だの、今日の感想はとうに言い終えてしまっていた。雨宿りとして逃げ込んだ暗がりで、次第に口数が減っていく。
 治と翔陽の他には、誰もいない。切り離されたように二人きりだった。草の香りが混じる水の匂いと、むせ返りそうな湿度が充満している。雨で密閉された四畳ほどのスペースの中、治が現状に感じているのは、居心地悪さとはまた異なる──翔陽のほうは、現状をどう感じているのかはわからないが。
 ふいに走り去る車のヘッドライトが明かりをくれ、彼の鼻の先に水滴がついているのが見えた。ふわふわとした髪の毛先は濡れていつもより落ち着いている。そういえば水に濡れた彼を見るなど初めてのことで、何かを想像しては胸の内が露骨にざわついた。加えてこの狭い空間と、人気のなさと、暗がり。治の中で靄のように広がっていただけのものが、形になってしまいそうな空恐ろしさが生まれていた。肌に張り付くTシャツは冷えつつあるのに、治の右側、翔陽が立つ側の皮膚はちりちりと熱くなるようだった。
 頭の片隅で、治に似た金髪の男が舌を出して笑う。治と翔陽が時々連絡を取り合い、時にこうして食事を楽しみに出かけるようになったのは、あの男が介入したからだった。
 高校生の時分、二度翔陽と対峙した感想を何回か話したことがあった。そして、彼がブラジルから帰ってきて生活圏が近くなると教えられた時には、奢ってやるから店に呼べと言った。ただそれだけ。それだけのはずなのに、奴は目を弓状にさせて何かを企んでいる様子だった。何を考えているかがわかってしまうから、放っておいてほしくて苛々とした。当時は、いらぬお節介をと内心で不満を垂れたが、今では翔陽との時間を楽しみにしている治自身がいるわけで。ただ、治としては翔陽との間をどうこうするつもりなど、関係が変わってほしいと思うつもりなど、ない。
 隣からくしゃみが聞こえ、高架下にわんと響いた。思考溜まりから顔を出して現実に返る。
「濡れたもんなぁ。冷えるやろ。なんか羽織るもん持っとらんの」
「あ! えっと」
 翔陽が片手に下げていたリュックの中に手を突っ込む。しばらくごそごそと中を探ってから、顔を上げて治を見た。
「治さん着て下さい! ちょっと小さいかもしんないけど」
 そう言って服らしい何かを取り出し、治に手渡した。目が慣れず灰色にしか見えないが、手に触れた布地の特徴とファスナーの感触がわかって、すぐに翔陽の所属チームのジャージだと気付く。目を凝らすと黄土色っぽく見えたせいもある。
「電車の中、結構冷えるじゃないスか」
 と、同意を求めてくる翔陽に思わず吹き出しそうになる。思っていた通りの飾り気のなさだったからだ。
 手渡されかけたそれをそっと翔陽に返そうとした。
「翔陽羽織り。身体が資本なんに体調崩したらあかんやろ」
「俺筋肉あるんで大丈夫です。すぐぽかぽかになります!」
 にかりと笑ったらしい翔陽が、おどけるように右腕で力こぶを作る。
「俺も筋肉あるほうやから心配せんでもええって」
 現役アスリートに対し、体格は上回るが片や米袋を担ぐ程度の経営者。少し張り合ってしまった自分に、治は軽く呆れつつ失笑した。翔陽とのやりとりでは、こういう類を特に楽しく感じている。胸のざわつきは消え、大人しくジャージを肩にかけられることにした。ふと触れた手を意識しそうになるのを無視して。
 雨脚は弱まらず、雷と光は未だ遠くにある。
「少し濡れてもええなら、……送るわ」
 観念したように、躊躇していた言葉を言った。
 飾り気がなく、身構えず、誰とも距離が近いのにどこか遠い。そんな彼との間柄に何か変化が起こるとは考え難い。こちらが動きさえしなければ。治さえ、長く内に飼い殺している何かに気付かなければ。そしてきっと、動くだけ無駄だったという結果になるだろうということも予測はしている。
 治の提案に、翔陽は何度かぱちぱちと瞬きをしてから「ハイ」と元気よく返事をした。礼を言うその頬を、雫が伝って落ちる。それを眺めていると、大きな雨音に紛れて翔陽が言った。
「じゃあ、うちでシャワーでも浴びてってください」
 飾り気がなく、身構えず、相手が何を抱えているかも知らずに笑うから、飼い殺している何かの檻を捨てて、いっそ歯を立ててしまいたくもなる。水に濡れたふくよかな頬から目を背けて、治は笑みを返した。