# 03
人気の絶えた夜の体育館はとても静かだ。微かに聞こえる虫の音をBGMに歩いていると昼間の喧騒を忘れてしまう。ときおり吹く風は肌寒く、タオルを忘れてしまった自分の凡ミスが悔やまれた。
「湯冷めしてまうわ……クシュッ」
小さなくしゃみをして体育館を後にしようとしたところで、体育館脇の階段の影に誰かが座っているのが見えた。ちょこんとはみ出したシューズには見覚えがある。
(何でこんなとこおんねやろ?)
足音を殺してそーっと近づいていくと、僅かに寝息が聞こえてくる。回り込んで見ると、案の定階段に体を預けた状態で眠っている翔陽君だった。
「おー、見事な爆睡。こんなとこで寝たら風邪ひいてまうで」
音量を下げて喋っているとはいえ、人が傍に来ても翔陽君はむずがることもしない。無防備すぎて逆に感心するくらいだ。
その手にはボールがしっかりと抱えられている。大好きな玩具を手放さない子供のように腕の中に収めていた。本当は居残って練習を続けたかっただろうから、もしかしたら一人で隠れて練習していたのかもしれない。
「飛雄君に後で怒られんでー」
指で頬を突いてみると、思ったとおり柔らかい感触がした。面白くなってそのまま何度か突くと流石にむにゃむにゃと口を動かしたが、やはり起きる素振りはない。次第に頬だけでは飽きてきたので、人差し指をつうっと体の線に沿って滑らせていく。
「小っさいおててに、ほっそいあんよ……」
自分の足を隣に並べてみると大きさの違いが浮き彫りになる。これでバレーボール選手、しかもスパイカーだと言って何人が信じるだろうか。
「でも翔陽君は飛ぶんやもんね」
大きく広げた翼で宙へ飛び出すそのとき、空気が彼に掴まれたように大きく動く。コートの外だろうと中だろうと関係なく、すべての目を奪って彼は羽ばたくのだ。誰も彼もを置き去りにして、重力すらも振り切るように。
「俺が上げたトスで飛ばしたら……気持ちええんやろなぁ」
その場面を思い浮かべるだけで恍惚とする。早くそのときが訪れないだろうかと胸を高鳴らせるが、当分の間はお預けだと思うともやもやとした苛立ちが募った。
眠る翔陽君の横に手を突いて体を近づける。そろそろ起きるだろうかと考えながら、不機嫌な子供丸出しの声で耳元に問いかけた。
「なあ、いつかその翼俺にくれる?」
唇が耳たぶにつくほどの距離でそう言えば、翔陽君は薄っすらと目を開けて寝ぼけた事を宣った。
「ん……かげやま……?」
「ええ……ここで他のセッターの名前出す?翔陽君は意外と殺生な奴やな」
「うぇ……、み、宮さん!?」
翔陽君は裏返った悲鳴を上げて仰け反ると大きく目を見開いた。
「そんなおめめ開けてると落ちてまうよ」
「え、目?いやそれより、宮さんが何でここにいるんですか!?」
「んー?ちょっと忘れ物取りにな。翔陽君こそ、こんなとこで寝てたら飛雄君に怒られるんとちゃう?」
「!」
翔陽君は青くなったかと思うとサッと頭を押さえた。どうやらトラウマがあるらしい。
「……ここで寝てたこと、内緒にしといたろか?」
そう言えば首が千切れんばかりに頷いた。企みの臭いに気付いていないその様子を見て、俺は内心でほくそ笑んだ。
「そやな、じゃあ俺と会ったことも内緒にしといてくれたらそうしたるわ」
「いいですけど……?」
「交渉成立や。ほな指きり」
翔陽君は俺の苛立ちや嫉妬も知らずに、何故そんな事を言うのか分からないという顔で戸惑っている。それを分かった上で強引に小指を絡めた。
「翔陽君は指まで小っさいなぁ。体かて俺の半分くらいしかないんちゃう?」
「いやいやいや!半分はありますから!」
「そう?小さすぎてボストンバッグに入りそうな勢いやで?」
「お、俺は小さくないです!まだ成長中なんです!あと、流石にバッグには入らないですから!」
「ほんまにぃ?せやったらキャリーケースはどや?海外旅行用のデッカいやつ」
「んん……それなら入らなくも、ないような……頑張ればイケる?」
「お、こりゃイイコト聞いたわ。今度会うときはちゃんと用意しといたる」
「な、何で」
「そりゃあもちろん……そんなら無理矢理にでも持って帰れるやろ?」
目を細めてそう言った途端、翔陽君は尻尾を踏まれた動物みたいに飛び上がって逃げ出した。フルスピードで遠ざかっていく背中はあっという間に小さくなっていく。あの速さじゃ捕まらない。
「翔陽くーん、約束守ってやー」
脱兎の如く逃げる彼に一言投げかけると、俺はスマートフォンを取り出してその場を後にする。危険を察知した動物みたいな反応を思い出すと、燻っていたもやが少しだけ晴れる気がした。
「ん?」
合宿所の入り口が見えたところで壁に凭れ掛かる自分とよく似た人影に気付いて足を止める。何か言いたそうなのは顔を見てすぐに分かった。
「……あんなツム、お前は知らんかもしれんけど、人間を鞄に詰めて持ってったら大概の国では犯罪者扱いやねん」
「はあー、そら知らんかった。一つ賢うなったわ」
「せやで。だからメロカリでキャリーケースをポチんの止めぇや」
「でも、サムかて欲しいやろ?」
治は虚を突かれたように俺を見た。バレていないとでも思っていたのなら大間抜けだ。
口では常識人ぶったところでこいつは所詮同じ穴の狢。昔からそうだ。俺の持ってるものや欲しいものを、治は一緒になって欲しがった。俺が欲しいなら、治だって欲しいに決まっている。
これは外向けのポーズみたいなものだ。俺がこんなだから、「やりたい放題の片割れを止める」役目をいつからか治は負うようになった。
しかし俺は知っている。どんな言葉で取り繕っても、俺と治は根っこの部分が笑ってしまうくらいよく似ているのだ。自分で言うのも業腹だが、俺と言う存在がいるからまともに見えるというだけの話である。中身なんて自身とそう変わらない。でなければ翔陽君を前にしたとき、あんな腹が減って仕方がないという顔はしないだろう。
今は二人しかいないのだから、ちょっと突けばすぐ化けの皮が剥がれる。むっつりと黙った治は、溜息を吐きながら勝手に端末の画面をスワイプさせた。
「……そっちの派手な色のは駄目や。目立たんよう地味なの選べ」
俺は笑いながら大きい黒のキャリーケースを買い物カートへと放り込んだ。どうせだったら正確な身長や諸々のサイズを聞いておけばよかったとも考えたが、あの小ささならこれぐらいでも充分だろう。
「あ、北さんに内緒にしておけるやろか」
「無理なんちゃう?だから後からバレても北さん説得できるようにあのチビ洗脳しとこ」
「おっまえ……危ないやっちゃな……」
周囲は騙されているのだ。絶対に治の方が本質的にヤバいとほとほと思う。
片割れの危険さに戦きながら、俺はおすすめ商品欄にピックアップされた『これであなたもマインドコントローラー』という本をカートへと導いた。