# 01


 日曜日。
 五色と川西は、昼食をバレー部の人と食堂で食べると言っていたため、日向は特に何も無くのんびりと過ごしていた。
 自分のクローゼットに仕舞っていた使い古されたバレーボールを持ってクルクル回し、校庭に出て散歩がてらポンポンとトスやレシーブを上げ、ウロウロする。
 その後は学園の隣にある大型スーパーで食材を買いに行こうと思っているくらいだった。
ただはたと、今日買い出しに行くのなら食材の余り具合など気にせず好きなものが作れる!、と思い至ったのだ。

(五色の食べたいものでも作ってやるか!)

 財布と携帯、いつものノートと筆記用具を斜めがけのカバンに入れ、日向は寮を出た。
 まだ昼前であるし、部活も午前と午後に分かれているならば、昼食の休憩時間があるはず。
その時に五色の食べたいもの、好物やリクエストを聞いてこようと思った。
 食堂で待とうか…建物の前で待とうか…、そう考えているうちに、バレー部の体育館まで来てしまったのは、バレーが好きという性質故だろう。

(この先がバレー部の体育館…)

 校内の南側、体育館通路の向こうにバレー部の体育館がある。
 白鳥沢は全国屈指のバレー部強豪校、バレー部は皆スポーツ科に属しており、普通科とは時間割や休日、優遇措置なども異なる。
部員の体調や怪我、トラブル防止のため同じ学園の生徒でもバレー部の見学や接触は極力無いようにとされている。
見学するには申請が必要で、科も違うのだから接触の必要や機会なども、寮以外は無い。
それでも五色と川西は食事を作ってもらう手前、普通科の日向とはよく話す方であった。
 体育館通路から先には行けない。
 日向は、五色や川西があの中で大好きなバレーをしているのだと思うといてもたってもいられず、ついウロウロと行ったり来たりを繰り返した。
 通路は別に許可などいらない。けれど用もないのにウロウロするのも憚られ、日向は一つため息をつくと、諦めようと廊下を引き返した。

「っ!!?」

 振り返ったところで、日向は何かとぶつかりタタラを踏んで後ずさる。

「うわっ!?…なんだ?」

「どうした?」

 白と葡萄色のジャージを着た長身の男が、振り返った日向とぶつかったのだ。長身の男は小さな日向がぶつかったところで、びくともしないようだったが大袈裟に声をあげ、後ろから来たもう1人が駆け寄ってくる。
 2人ともバレー部の体育館に向かって行こうとしていたところを見ると、バレー部なのだろう背が高く、日向を見下ろしている。

「見学?」

「今日は居ないって斉藤コーチが言ってただろ」

 2人は何やら話し始め、早口で日向はあまりよくわからなかった。ただ"見学"とだけはわかったので、首を振って、ノートに[違います]と書こうとした。

「じゃぁなんだこいつ?」

「さぁ…?あ、おい!なんだそれ!」

 男は、日向がカバンから取り出したノートをバシッと奪い取った。

「お前!勝手にバレー部覗いて記録でも取ろうってのか!?別の学校に情報売るつもりだろ!!!」

 何やら大口を開けて言われている。日向は音が聞こえないので驚くことは無かったが、戸惑ってしまってオロオロとしてしまう。
それに早口で読唇術はところどころしかわからない。

「なんとか言えよ!」

 戸惑っていると更に不審がられ、ドンッと肩を押された。
体格に差があるし、相手が何を言っているかわからない手前、突然手を出されて日向は身構えることもできずに尻餅をついてしまう。体育館通路から飛び出して、土が敷き詰められた地面に手をつくと、体が揺れた拍子に補聴器がポロリと取れてどこかに飛んで行った。
あっ!と思ったが、取られたノートも気になって視線が右往左往する。

「なんだぁ?このノート…」

 見上げれば、男たちはノートをペラペラめくり中を確認している。
それは筆談用のノートで書かれているのは会話の節々が点々と乱雑しているだけだ。

「…気持ち悪りぃ」

 意味のわからない文の乱立に男たちは顔を顰め、それから徐にノートの背を掴み、ビリリッ!と真っ二つに破いた。

「なんだかわかんねぇけど、気持ち悪りぃし、捨てとこうぜ」

 日向は久しぶりにその光景を見た。
嗚呼、そうだった。
五色も川西も優しくて、すっかり忘れていたことを思い出す。耳の聞こえない自分がどれほど、"普通"の中で異質なのか。
 記録だとか情報だとか口が読めた手前、何か勘違いがあったのだろう。弁解したいが術がない。
 どうしようかと思っている間にノートはビリビリに破られ、破片がひらひらと舞う。
日向はそれでも鞄からペンを取ると、地面に這いつくばってノートの切れ端を手にした。

[五色に話があって、待っていただけです]

と書いて見せようとした。

「何やってんだ?こいつ」

「だから、変なことするなって!」

 男は日向が書いてる途中の手を足で蹴った。

「っ!!」

 吹っ飛んだボールペンを更に踏みつけ、体重をかけバキリッと折る。
そうすると日向はもう何も“言えなく”なってしまった。
 手がジンジンと痛んで、もう片方の手で庇うように握る。
 ここには影山もいないし、五色も川西も居ない。

「さっさとどっか行けよ、みっともねぇなぁ」

「チビが這いつくばると見えなくて、踏んじまいそう」

 地面に膝をつきながら怯える日向に、2人は意地悪く笑い始めた。
 内容がわからなくてもよくない意味だというのは、2人の表情からも十分わかる。
 日向はグッと唇を結んだ。
 喋って謝ろうかとも思ったが、そうして良かったことなど一度もない。
 もごもごと口を動かそうとして辞め、立ちあがろうとしたが、更に肩をドンッと押されまた尻餅をつく。

「おっと!わりーわりー、小さすぎてまたぶつかっちまった」

「……」

「口無ぇーのかよ?」

 日向は震えそうになる手をギュッと握って、へらりと笑った。
 我慢しないと。
 ぺこぺこと頭を下げて、またゆっくり立ちあがろうとする。2人の男はニヤニヤしながら、また日向を蹴飛ばす。

「っ!?」

 足が肩に当たり、また尻餅をつく。
 ジンジンと痛む体で日向はニコニコしながらも、口は戦慄き、投げ出された足はカタカタと震えていた。

「バレー部の情報盗もうとしたんだろ?立つ前に謝れよ」

 所々読み取れる読唇術も、もはや日向は軽いパニックに陥っており理解ができない。

「土下座しろ」

 なんとか読み取れた言葉に驚きながらも、日向はおずおずと正座してしまう。
 体が勝手に動く、子供心に負った傷はあっさりと日向を仄暗い恐怖の底へ引きずり下ろす。
 とにかく痛いことはされたく無い。土下座して許されるならそれもいいかもしれない。
ぐるぐると回る思考に地面が揺れているような眩暈がした。
両手を地面につけようとした時。

「何をしている」

 背後から声がして、2人は振り返った。

「う、牛島さんっ」

 日向の地面に縫い付けられたような視線が、戸惑うように揺れる足を見た。

「こんなところで何をしている、まだ休憩の時間では無いだろう」

「う、牛島さん、あの、…こ、これは…」

 2人の足先は完全に振り返り、つま先が別の方を向いている。
日向は何事だろうかと、戸惑う視線を上げた。
 牛島と呼ばれた男は部員2人の後ろで地面に正座し、今にも泣きそうな顔をしながらも、震える唇で愛想を作る小柄な生徒を見つけた。

「誰だ?」

「あ、…えっと…」

「…こ、こいつ!体育館の周りをウロウロして、たぶんバレー部の情報盗もうとしてたんですよ!!」

 だから!と言う前に、牛島はヌシヌシと近寄ってくる。なまじ顔が男前に整っているぶん迫力があり、長身で偉丈夫の出立の牛島に、2人は思わず圧倒されて道を開けた。
 日向は首が痛くなるほど長身の男が現れたことに、指先は冷たくなり、掌にはじんわりと汗が滲み、心臓が嫌なほど硬く早打ちをしだしたのがわかった。
はぁっ、はぁ、と息が苦しくなる。

怖い。

怖い。

怖い。

「立てるか?」

 そっと伸ばされた手さえ大きく、恐ろしい。
こんなに大きな手で殴られたら、死んでしまうかもしれない。
 子供の時に叩かれたり蹴られたりした記憶が蘇る。喉の奥がギュッと締まって、変な呼吸をするのが精一杯だった。
知らずに吸いすぎて、ひっく、ひっく、と息が引き攣る。

「怪我でもしてるのか?」

 大きな鳥にいじめられた雛鳥をみるように、牛島は差し出した手を翻し、腕を取って立たせようとした。
しかし、ヌッと伸びてきた大きな手に日向は恐れ慄き、正座した足を飛び上がらせて立ち上がる。手が触れる前に後ずさった。
 突然立ち上がったものだから、牛島は俄かに驚いた。

「…怪我などは、なさそうだな」

 膝に土がついているがそれ以外問題はなさそうだ。牛島は自分よりも遥かに低いオレンジの髪を見下ろした。

「部外者がここで何をしていたんだ?」

 牛島の声は低く、心にのしかかるように重く感じるが、耳の聞こえない日向には牛島の声のトーンなどわかるわけもない。
だが、はっきりものを言う牛島の口の動きはとてもわかりやすかった。
 大きな身長と怖そうな雰囲気に怖気付いてしまいそうだが、わかりやすく動く言葉はなんだか優しいものばかりで、勤めて落ち着こうとする日向に2.3度深呼吸をする時間を与えてくれた。

「ここで、何をしていたのか、と聞いている」

 日向は思わずギュッとカバンのベルトを握り締め、そしてハッとして携帯の存在を思い出した。
ノートやペンがない今、携帯で文を打って見せようと思ったのだ。画面が小さいのが少し難だが、きっとわかってもらえる。驚いてしまったが手を差し伸べてくれて、怪我がないか確認してくれたのだし、見た目とは違い優しかもしれない。
 急いでカバンから携帯を取り出し、メモ機能を開こうとした。

「…人が話をしている時に携帯をいじるのは感心しない」

 大きな手が、日向の携帯をいじる手に翳された。
掴んだり、捻り上げたりするようなものではなく、ただ携帯画面を遮るようなものである。
それでも日向はびくりとして牛島を見上げた。

「誰かに連絡しないといけない事でもあるのか?」

 日向は首を横に振った。

「じゃぁなんだ?お前はここで何をしていたのかと聞いている」

「…っ、」

 声を出そうか…少し、いやかなり変かもしれないが、話せばきっと。

きっと…。

「答えないと言うことはやましい事があると思われても仕方がないが…、どうなんだ?」

「…ち、ちぃがぁいま、ぁす!おぇわ…こ、ご、ごぉしきに、はなちぃがぁあってえ!」

「……」

 牛島はパチリパチリと目を瞬かせた。
 小さな口をめいいっぱい動かして出てきた音は、あまりに歪なものだった。
 聞いたことのない音は日向の口から出てもなお本人には聞こえない。
ただ己の声を聞いた者がどんな顔をするのかは見ることができる。
 例えば目の前の大男が目を瞬かせて驚いている。
少し後ろにいる2人も驚いた顔をしたが、次には噴き出すように大口を開けて腹を抱えている。
笑っている。
パクパクと口を動かし、モノマネをするように歪な字を形取り、バカにするように日向を指差した。
瞬間、日向は顔が真っ赤になった。
モノマネをする歪な言葉は、とても、自分が見ても変だったのだ。
 日向は牛島の手を跳ね除け、思わず口を押さえた。
携帯がカシャンと地面に落ちる。
 顔に熱が集中する。
 恥ずかしい。自分はあんな言葉を言っていたのか。文になるかも怪しい、動物の鳴き声の様な言葉を出していたのか。
 聴こえないから、聞いたことがないから、わからない。

「…何」

 牛島はきょとんとした顔のまま、口が言葉を形取る。

「何だって?」

 日向はくしゃりと顔を歪ませた。

 言葉を喋っただけなのに。
 貴方が、貴方達が、俺のノートをペンを携帯を取り上げたから、だから、喋っただけなのに。

 日向は溺れそうになる瞳を隠す様に、バッと頭を下げると、落ちた携帯を拾って踵を返した。

「あ!逃げやがった!!」

 全速力で走る。
 体育館通路を出て校舎内に入り、玄関を出て寮に逃げ込む。部屋に入って少し乱暴にドアを閉めた。
 寮の部屋は安全のために鍵はない。本当は鍵をかけて誰も入ってこないと言う安心感のもと1人になりたかった。
 日向は全速力で逃げてきた手前激しく胸を上下させ、肩で息をするようにハァハァと荒く息づくと、不意に咳き込んだまま倒れた。

「ハァハァ、ごほっ、げほっ、はぁ、…はぁ、っ…う、…っ、うう…」

 そして、うーうーと子供のように小さく呻く。

「ぅ、っ、ふ、ぅ、…っ…」

 ぼたぼたと涙が溢れて止まらない。
 閉めた扉の前で、ベッドに行く気力もなく床にうずくまって泣く。
 癖が染みつき、大声で泣く様なことは無いが漏れてしまう空気にかすかに声が混じっている気がする。
日向には自分の声も聞こえないが、震える喉が、溢れる意味のない音を出しているのだけはわかった。
 なぜ自分は他とは違うのか、なぜ音が聞こえないのか、声が変なのか言葉が変なのか、わからない。自分ではきちんと喋っているし、親と発声練習をした時も話せていると言われた。けれど発声に集中できなかったり、さっきの様に緊張やパニックの最中だとそんな余裕もなくなるのだ。早く声を出さないと、早く喋らないと、と思えば思うほど無意識に歪な声が出てしまう。
 乱暴に転ばされ補聴器もどこかに落としてしまったし、ノートも破られ、ペンも壊された。
土下座を強いられ、自分よりも大きな人たちに囲まれて、日向は自分が思っている以上に恐慌状態になっていたことに気がついた。

(恥ずかしい…)

 変な言葉を喋ったことが、あんなことに怯える自分が、土下座しようとした体が、笑ってやり過ごそうとする癖が、自分が。
とても恥ずかしい。
 影山がいないと自分はこんなにも弱かったのか、と日向は思った。
 溢れる涙をそのままに、ぼんやり自分の手を見る。
料理に明け暮れた傷だらけの手。
 しばらく何も考えずに見て、ギュッと握る。
 バッと起き上がり、床に転がる携帯をもう一度カバンに仕舞った。
 涙で濡れた頬をグイッと袖で拭くと、日向は立ち上がる。

(作ろう。何でもいい。それで、食べよう)

 食べることは、強くなることだ。
だから日向は料理を作ると決めたのだ。
 強くなりたい。
こんな小さな自分でも、誰かを強くし、支えてあげられる様な、そんな力が欲しいから前を向いてここまできたのだ。
 負けたくない。
影山がいなくても、ちゃんと立って歩ける様にならないと。
 日向は2.3度深呼吸をしてから、部屋の扉を開けて、まずは買い出しに向かった。