# 02

その夜、ホテルの一室で俺は悶々としていた。
心を落ち着かせるべく、瞑想をしようと思ってもビーチにいる侑さんがキスをしようとしてきてダメだった。じゃあ寝てしまおうと思っても、よくわからないまま置き去りにされてしまった熱がまだくすぶっていて、とても眠れるような状況ではない。
心の平和と良質な睡眠はアスリートには必須だ。
ちゃんとした飯を食うこと、毎日トレーニングを欠かさないこと、しっかりと身体を休めること、健やかな心を保つこと。
強い身体には、強い心がついてくる。
ブラジルで磨いてきたつもりだったそれも、今は全く役に立たない。
「ふぬっ」と掛け布団を頭まで引き上げてもぐり込んだ。目を閉じるとどうしたって数時間前の侑さんを鮮明に思い描いてしまう。
しかし。それよりも何よりも、自分がはじめて誰かにキスしたいと思ったこと。キスしてほしいと思ったこと。お恥ずかしながら、特定の誰かに対して性的な感情を持ったのは、おそらく、いや間違いなくこれが初めてだった。
世の侑さんファンの皆様、今までは単にちょっと派手めな顔とプレイスタイルが好きなんだろうな、なんて思っていてすみません。
高校の時から(もしかしたらそのもっと前から)、どれだけ悪態を吐こうが、思いやりの欠片もない態度をとろうが(治さん談である)、いつも女性の心を惹きつけてやまないのは、あの、あふれ出る雄みというかフェロモンを、本能が求めてしまうからではないのだろうか。強いものに引き寄せられるのは世の理である。
だって顔の良さだけでいうならば、臣さんだって相当かっこいい。おでこに並んだ黒子もかっけーし、背だって侑さんより高い。スパイクもめちゃくちゃ上手い。それで言うと木兎さんもそうだ。天才すぎて時々何を言っているのかわからなくなるけれど、ちょっと色素の薄い目とか髪の色が日本人離れした感じがあってかっけー。超インナークロスを決めるときの目はネット越しに見てもぐわああぁってくる。でも、侑さんのほうが女性の人気は高い。女性人気で言うと意外と影山もあるんだよな。そういえばアイツは高校の時から不思議とモテていた。あんなボキャブラリーの少ない暴力的なやつのどこがいいのか全く理解できないが、もしかしたら同じ理論なのかもしれない。いやしかしアイツにフェロモンなんてあるか?ぐんぐんヨーグルトを飲んでいる影山を思い出すと、心がすんと落ち着いてきた。出会ったときから続けている勝敗は、今のところ俺が四つくらい負けが多い。くっそぉ、次は負けねぇ。とここまで考えたところで、元来素直な体質のおれは眠りに落ちた。


結論から言うと、眠れない夜はその一日だけであったし、侑さんはその後もいつもと全く変わらない様子だった。なんとなく肩透かしを食らったような気もしなくもないが、あれは単にお互いの熱を冷ますための行為だったのかなと、若干もやっとした気持ちを残しつつ自己完結させることにした。そんなわけで、思いのほか心安らかな日々を送っているわけである。
ある一点を除いては。
そう、俺のメンタルを揺るがすやっかいなもの。それはずばり侑さんの匂いだ。
香水とかではなく、侑さんの匂い。ファンの人からもらったと言っていた、ちょっといい柔軟剤の匂いに混ざってかすかに淡く甘い匂いがするのだ。それに気がついてしまうとパブロフの犬の如く、あの日に引き戻されそうになる。
人の記憶とは当てにならないもので、一週間もすると鮮明だった映像もぼんやりとしたものになる。その一方で、とにかく気持ちよくて、侑さんがエロくてかっこよくて、もっと触りたくて、そしてキスしたかったという感情だけは、今も尚、しっかりと心に残っていた。
そう。それはまるで中学生の初恋のように、侑さんが近くにいるとちょっとドキドキするし、なんなら触りたくなってしまうのである。これは非常に由々しき事態であって、自分の中で何が起こっているのか自分でもわからなかった。


それから数日経ったある日、自主練を終えたおれは、蛍光灯の白い光がリノリウムの床を照らす長い廊下をひとりロッカールームへ向かっていた。いつも最後まで付き合ってくれる侑さんは、雑誌の取材があるとかで今日はいない。しんとしたロッカールームは日中の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。着替えは寮ですればいい。バッグにタオルなんかを詰め込んでドアの方へ振り返ると、真ん中のベンチにジャージが置いてあることに気が付いた。誰のだろうと持ち上げた瞬間、あの匂いが鼻を掠める。
あ、これ。侑さんのだ。
間違いない。ここ数日恋焦がれている匂い。思わず鼻に寄せて、くんと匂いを嗅いだ。
うわぁ…。
匂いは脳をめぐって心拍数を上げる。もう一度大きく鼻から息を吸い込むと体中が満たされていくのがわかった。
たまんねぇ…。
おれはそれを抱きしめてしばらく求めていた匂いを満喫する。やべ、ちょっと勃ってきた。
このジャージをどうしたものかと一考して、このまま置いておくのが得策だと判断した。今日、侑さんが何時に戻るかわからないし、これを部屋へ持ち帰るのはとても、いや非常に危険だ。だがしかしめちゃくちゃ持って帰りたい。だってこんなに侑さんの匂いがするのに。
これで最後にしようと、ジャージに顔をうずめて深呼吸をしたところで、ガチャっとロッカールームのドアが開いた。

「何しとるん?」
まさかのご本人登場である。おれはとりあえずジャージを侑さんから見えないようにサッと隠した。ありがたいことに侑さんには背を向けている状態なので、丸めてしまえばわからないはず。
「な、なんでもないっす!侑さん、取材終わったんすね...」
「おん。予定よりはよ終わってん。指の手入れするやつバッグに入ってへんから、ここに忘れてへんかなって見に来たんよ」
「あ、そうなんすね!」
おれは心臓が大暴れしていることを悟られないように、努めて平常通りの笑顔でこたえる。侑さんは自分のロッカーをゴソゴソ漁ると「あったわ」とポーチに入った爪やすりとハンドクリームを見せてくれた。
どうぞそのまま寮へお戻りくださいというおれの淡い期待を裏切って、
「翔陽くんも戻るとこやろ?一緒に行こうや」
と侑さんは言った。
「あ、えっと…、おれもう少しここにいるんで、侑さん、先に戻っててください!」
我ながらもう少し上手い言い訳はなかったかと思うが、侑さんのジャージを侑さんの前で隠し持っている状態でそんなこと思いつくはずもない。
「なんで?っていうか、さっきから何隠してるん?」
三歩くらい離れたところに立っていた侑さんがおれのほうへ歩み寄ろうとするのを同じ歩数分離れる。じりじりと距離を保ったまま、結局追い詰められたのはおれで、背中に壁が当たった時点で覚悟を決めた。侑さんの影でおれの視界は暗くなる。
「おい」
「ハ、ハイ」
「後ろのもん、見せぇや」
侑さんは手を壁につくと、おれの頭上でそう言った。いわゆる壁ドンという状態であるがどちらかと言うと恐喝に近い。
「ど、どうぞご勘弁を」
「ほんならしゃーないなぁ、とでも言うと思たんか」
「ひぃっ」
圧がすごい。圧が。関西弁はこういうシチュエ―ションで非常に高いパフォーマンスを発揮すると思う。
「俺に見せられへんもんなん?」
「見せられなくはない…デス…」
「ほな見せぇや」
見せるべきか、見せないべきか。シェイクスピアの如く逡巡するおれをしばらく見つめていた侑さんは
「俺な、もう一個、忘れもんあってん」
といたく楽し気に言う。へ?と顔を上げた俺の視線はまんまと侑さんに捕まった。影になってはいるけれど、間違いなくツーを決めたときのような顔をしている。
「翔陽くん」
その顔がゆっくりと近づいて、あの日と同じように耳元でひそやかに囁いた。
「俺のジャージ、なんで隠してんの?」

バレてた―――――――!!!!
今までの茶番も全部侑さんはわかっていたのだ。わかった上で、俺がどうするのか楽しんでいたのだろう。動揺と羞恥心で頭から煙が出そうなくらい顔が熱くなる。もしかしたら出ているのかもしれない。
「こっ、これは、そのっ…」
「ほーん、やっぱそうやったんや」
「へ?」
「いや、はじめは何隠しとるんやろって思っとたんやけどな、ロッカーにジャージかかってへんかったから、もしかしてって思たんよ」
「それは、つまり…。おれは、かまを…かけられた。ということでしょうか?」
こたえない替わりに、侑さんは「んふふ」と笑った。
そうだった。この人は宮侑だった。いつもスパイク練につきあってくれたり、どちらかというと面倒見のいい優しい先輩だと思っているけれど、あくまでもこの人は日本を代表するセッターで、常に人の心の先を読んでその裏の裏まで考えているような人なのだった。
俺は観念して、隠していたジャージを侑さんに差し出した。
「す、スミマセンデシタ…」
差し出されたジャージは、しかし受け取られないまま宙に浮いている。侑さんに視線を向けると、意外にも思案顔だった。
「翔陽くん、なんでこれ隠したん?」
「あ、の、えっ、と…」
しどろもどろもしどろもどろ。匂いを嗅いでいたからです、なんて言ったらどんな罵声を浴びせられるか。想像しただけでチビりそうだ。
「翔陽くん、最近なんか変やない?」
挙動不審なおれを心配するように侑さんが言った。それはそうだろう。あんなことがあって、それより前と同じでいられるわけがない。侑さんのそういう…性、的な経験値は詳しく存じ上げないが、それなりにあるのは間違いない。いろいろ初めてだったおれの気持ちなんてわかるはずもないだろう。だろうけども!
「お、あ、あの…おれ、おれは!」
最後の三文字が思ったより大きな声になってしまって侑さんが少しびくっとした。
「お、おお。なに?」
「おれ、あんなこと誰かとしたの初めてで…、初めてなのに、こうぐぁああってすげー気持ちいいし、侑さんかっけーし…すっげーいい匂いするし、でもちょっとしか嗅げなくて、」
「お、おん」
「そんでキスされるのかと思ったら全然してくれないし、なんか距離ばっかり近くて、なのにギリギリのところでしてくれなくって、おれ、すげー侑さんにキ、キス、したくて!」
侑さんのジャージを握りしめたまま、ここ最近胸の中に渦巻いていた気持ちを吐き出した。熱くなった体温が一気に冷えていく。指先が重くて冷たい。
言ってしまった…。
どちらも言葉を発さない数秒が永遠に感じる。でも、どのみちこのままではいられなかった。どんなひどい言葉が返ってくるかとぎゅっと目をつむって構えていたけど、それは一向に来る気配がない。おそるおそる、侑さんのほうを見やると、侑さんは右手で目元を覆っていた。酔っぱらったときみたいに耳が真っ赤になっている。
「あ、侑さん…。すいません、おれ、なんか気持ち悪いことを…」
「翔陽くん…」
侑さんの目元にあった手が口元まで降りてきた。目元も赤い。
「はい…」
静けさが、一段と増した気がする。
「君は、俺と、キス、したいんか?」
さっきまでのやくざのような恐ろしさは鳴りを潜めて、今はこちらの様子をうかがうようなか弱さすら感じる。
「し、したいっ!デス…」
口元にあった手が、今度はおでこまで上がった。そしてそのまま空を仰ぐ。
「あかん…」
侑さんの口から零れ落ちた音に、まぁそうだよなと思った。したかったらあの時していただろうし、したくなかったからしなかったわけで。
「そう、ですよね」
ヘラっと笑って言うと
「そっちのあかんちゃうわ!」
とキレのいいつっこみが返ってきた。
関西弁に明るくないおれは、そっちがどっちなのかもわからず侑さんや明暗さんがどんなときに「あかん」を使っていたのか全力で思い出してみるも、最適解はでてこない。
「翔陽くん、ちょっとそこ座り」
侑さんに促されて、ジャージの置いてあったベンチに腰掛ける。そういえば件のジャージはまだおれが持ったままだ。肩が触れそうな距離に侑さんが座った。太ももに肘を乗せているせいで、いつもより目線が近い。
「なんでそう思たん?」
改めて近くで見ると、はっきりとした二重の大きな目とか、長くはないけどしっかりと生え揃った睫毛とか、すっと通った高い鼻筋とか。侑さんの男らしい整った顔立ちを再認識する。
「えっと…だから、侑さんがしてくれなくて、でも匂いがこうバッてくると気持ちがギュンってなるというか…」
「何言うとるか全然わからへん」
隣で項垂れる侑さんの耳は、でも相変わらず赤いままだ。
「例えばあのとき俺やなくて…そうやな、臣くんとかが相手で、そんでキスしてくれへんかったら、おんなしこと言うん?」
「お、臣さんですか?」
突然提案された相手でどうにか想像してみるも、「触るんじゃねぇ」と言われて一瞬で終わった。
「そ、そもそも接触が難しいのでは…?」
「そういうことちゃう!他の誰かでも、そういう気持ちになんのかって話や」
「そ、そんなこと言ったら侑さんだってそうじゃないですか!あの時、あそこにいたのがおれじゃなくても、ああいうことするんですか?」
「あぁ?!するわけないやろ!なんで他のやつのちんちん触らなあかんねん!きっしょいやろ!」
再びの沈黙。なんだかいろいろと気になることを言われた気がするけれども、とりあえず触れないでおく。
それとなく時計に目線を向ければもう二十時をまわっている。食堂が閉まるまであと三十分足らず。それまでに戻りたいけれど、どこに向かっているのかわからないおれたちのやりとりは、現時点で終わりが見えなかった。
「翔陽くん、俺のこと好きなん?」
リノリウムの床を見つめたまま、侑さんが言う。
「好きです!」
胸を張って即答した。なのに侑さんはうつむいたままだ。
「じゃあ木っくんは?」
「好きっス!師匠っす!」
「臣くんは?」
「好きっス!スパイクやばいっす!」
「まぁ、せやんな。ほな俺は?」
「めっちゃ好きっす!」
「んふふ、”めっちゃ”ついたなぁ」
「?」
答えつつ、自分でもよくわからなくなる。好きかと聞かれれば、大体みんな好きだ。バレーが上手くて何よりもバレーが好きで、強くなることに貪欲だ。
「ほんなら飛雄くんは?」
「影山っすか?あいつはなんていうか…絶対負けたくないやつです!」
「好きとかやないんや?」
「嫌いではないですけど、影山は影山です!」
「それはそれで複雑やけど、まぁええわ。そしたら、俺は?」
「すげー好きっす!トスもすごいっすけど、挑発してくるような目とか、に、匂いとか…」
「ほぉかぁ」
顔から火が出るほど熱いとはこういうことか。試合後の熱さとも違う高揚感。いつもと雰囲気の違う侑さんの態度も気恥ずかしさをかさ増しする。
「あんなぁ、翔陽くん」
さっきまで全然こっちを見なかった侑さんがおれを見た。
「あんなことしといてこんなん言うんもアレなんやけど。俺は君のセフレになるつもりはないねん」
「???セ、セフレ!?」
話がいきなり飛躍して、そもそも恋愛にも性にも疎いおれの思考はいよいよついていけなくなる。
「気持ちいいことだけして、ほなまたね。とか嫌やねん」
「ハイ…」
「意味、わかる?」
「ハイ…イイエ?」
ほなまたね、をされたのはむしろおれではなかっただろうか。おれには侑さんの言うことは矛盾しているようにきこえるけれど、侑さんの中では違うのだろうか。
「俺と同じ気持ちで、ちゃあんと好きでおってほしいねん」
「はい」
こたえてはたと考える。ん?ということは、つまり…?
「あの、侑さんは、おれのこと、が好きなんで、しょう、か?」
そんなバカなと思いつつおずおずと問いかけてみると
「好きやで?」
といともあっさり侑さんはこたえた。
「…ぼ、木兎さんのことは?」
「仲間やな」
「臣さんは?」
「口の悪い仲間やな」
「お、おれのことは?」
「高二のときから好きや」
「高二っ!?」
「せやで。嘘やと思うならサムにきいたらええわ」


ことのはじまりは、約二週間前の大田区総合体育館。EJP RAIJINとの試合だった。両チームがスーパープレイを光らせ、楽しくてわくわくした。その興奮を洗い流そうと向かったシャワールームにたまたま侑さんがいて、たまたま同じように侑さんも興奮していて、触られて触って。その余韻を引きずったまま迎えた今である。

「高二って六年くらい前ですよね?」
「せやね」
「好きって…」
好きって、どういうことだろう?
中学生の頃から人生のまん中にあったのはバレーボールで、好きも楽しいも欲しいも全部そこから派生していたような気がする。友だちとくだらない話をすることももちろん楽しかったけど、バレーがあれば迷うことすらなくバレーを選ぶし、逆に言うとバレーに関係のないことを選んだ記憶すらない。全てはバレーのため。強くなるため。
でも、侑さんに触りたいとか、キスしたいと思う気持ちはバレーと関係ない。ただそうしたいという独立した想いだ。
「侑さんは、高二のときから、俺にキスしたり触りたかったりしていた。ということっすか?」
「そういう気持ちもあったかもしらんけどな、それより俺は君とずっとバレーしたかってん。君にトスをあげたくて、そればっか考えとったわ」
遠くを見つめる侑さんの横顔は、なんというか幸せそうで、楽しい夢を見ているようだった。
「どんなトスでも、翔陽くんは嬉しそうに打ってくれるやろ?」
その顔のまま、侑さんはこっちを向いておれに笑いかける。うわ。胸がぎゅうぅと苦しくなった。そんな顔でそんなことを言うなんて。
「あ、侑さん!」
「なん?」
「キ、キスをっ!させていただいてもよろしいでしょうか!」
丸くなっていた背筋をピンと伸ばして、『娘さんを僕にください』のテンションでおれは言った。おれにとっては初めての告白というものであって、勢い半分のところはあるけれど、まぁほぼ同じような覚悟だ。
侑さんは先ほどと同じように右手で目元を覆うと
「そんなん、断られへんやんか…」
蚊の鳴くような声でそう言った。侑さんの白い肌はピンク色に染まっている。今まで見たことの無い侑さんの様子に、おれはもうぐわっとくるどころではなく、今すぐ抱き着きたい衝動をぎりぎりの理性で抑えつける。目元を隠している右手を掴んで、そっと下ろす。侑さんがおれを見る。侑さんの目におれが写っている。そのはっきりした二重瞼がゆっくりと閉じていくと、どちらともなく近づいて、唇がそっと触れた。
唇は一瞬触れて、すぐに離れた。目の前にある侑さんの目は開いている。今、はじめてキスをした。
「翔陽くん、息、止まってんで」
言われてスッと息を吸った。さっきの温度がもうすでに恋しい。
「ふ。もう一回してほしいって顔しとるな」
見たこともない甘さで侑さんが言う。してほしい。何度でもしてほしい。首筋から侑さんの匂い。下腹部が甘く疼く。
もう一度唇が触れ合って、少し間を置いて離れる。指先と同じようにきちんとケアされている侑さんの唇は、おれのかさついた唇と違って、しっとりとしてやわらかかった。三回目のキスで、明日リップを買うことを心に決めた。おれの様子を伺うようにしていた侑さんは、
「翔陽くん、ちょっとこっち向ける?」
そう言ってぐっと俺の腰を抱き寄せた。促されるままに身体を動かすと、ベンチに乗り上げて片膝をつくような姿勢になった。侑さんも半分こちらに身体を向けたのでさっきより距離が近くなったような気がする。ぱさり、と侑さんのジャージが床に落ちた。
右手を取られて、そのまま侑さんのうなじの辺りへ添えられる。なんかもう、匂いがヤバい。つーか、いろいろヤバい。
「翔陽くん・・・」
侑さんは、自分の手をおれの手に重ねて、それに縋るように頬を寄せた。これは本当に侑さんなのか。恋人といるときの侑さんはこんなに甘いのか。経験したことのないふわふわした感覚。おれはただ、目の前で起きていることを呆然と見ていることしかできなかった。
閉じられていた目が開いておれを捕らえる。おれを見上げるように顔を上げるとすっとした鼻先がおれの口にくっつきそうになった。
「翔陽くん、ちょおくちあけて」
言われたとおり指が一本入るか入らないかくらい口を開ける。
「ええこ」
直後、口の中に生あたたかいものがぬるりと入ってきた。そのキスが何かわからないほど子供ではない。触れた感触に思わず逃げかけた舌はすぐに絡め取られて、やわやわと口の中で侑さんの舌と交わっていた。
触れて、離れて、またくっついて、滑って、誘われるまま舌をからめて、必死で応える。
「ん・・・っう、ふ、ぅー」
ただでさえ何も考えられないのに、合間の息継ぎが上手くできなくて、酸欠でくらくらした。いよいよ苦しくて、侑さんの肩を押すと、察したらしい侑さんが唇を離した。
ここぞとばかりに胸いっぱいに酸素を吸うと、下から掬いとるようにちゅ、と侑さんが触れるだけのキスをした。
「目ぇうるうるやん。めっちゃかわええ」
そしてとろとろの目でおれを見つめて、頬、こめかみ、おでこ、鼻先、そしてまた唇にキスをした。欲しかったものが一度に注がれて受け取りきれない。完全にキャパオーバーだ。
「あ、侑さん、なんかヤバいっす」
「ヤバいのはこっちや。六年待ったっちゅうねん」
脇腹に添えられた侑さんの手が熱い。また寄せられる唇を自然と口を開けて迎えた。やわらかいぬくもりがじんわりと広がっていく。じゃれあう動物のように何度も舌を絡めると、ふたり分の唾液が混ざり合って乾いていたおれの唇を濡らした。
「ん、」
鼻で息をしたら思ったより甘い声がもれて焦る。そんなつもりじゃなかったのに。でも鼻で息をすると呼吸が楽にできることに気がついた。おれは鼻呼吸を習得した。
侑さんの舌はおれの口の中を全部確認するみたいに撫でていく。
「ん、ふ・・・」
瞑想をしているとき鮮明に感じる、心臓が全身に血を送るポンプの動き。それが今は心臓を掴まれているかのようにやけに苦しい。苦しいのに、すごく幸せな、身体の隅々まで満たされた心持ちだ。
満足したらしい侑さんの唇が離れていく。随分長いことキスをしていたような気がするけど、実際はどうだったのだろうか。侑さんが俺を抱きしめたので、金髪頭がおれのお腹にすっぽりおさまった。おれはその頭に顔を埋めて、同じ強さで抱きしめ返した。

愛おしい。
その時の感情を表すならばそれが一番しっくりきたと思う。ごわついた髪。侑さんの匂い。
「翔陽くん、」
お腹にむかって話すので、侑さんの声が身体に響くみたいに聞こえる。
「翔陽くん、俺のこと好き?」
「はい」
「俺と同じくらい好き?」
「わかんないっす」
正直にこたえると、侑さんが顔をあげた。
「そこは『はい』言うとこちゃうん?」
拗ねた顔もいいなと思うおれは一体どうしてしまったんだろう。愛おしくてかわいくて、おでこにちゅっとキスをしてみたら、びっくりしたらしい侑さんは顔を真っ赤にして再びおれのお腹に顔を埋めた。
「なんなん自分!めっちゃこわいやん。テロか」
んんんん‥‥っ!!!か、かわいいっっ!!!
さっきまであんなに恐ろしかった存在が今はおでこにキスしただけでこの有様だ。
ちなみに意外と長男気質なおれはこういう仕草にめちゃくちゃ弱い。
まだ幼かった夏が、久しぶりに会ういとこのお姉ちゃんに話掛けられて、恥ずかしさのあまりおれの後ろに隠れていたことを思い出す。
こんなに身体の大きい成人した男性でも、幼児と同じように恥ずかしがることがあるんだなと一気に親しみが湧いて、夏にするように頭を撫でたらおれの腰に回された腕に一層力が入った。
「同じかわかんないっすけど、ニアリーイコールではあると思います」
ワックスで整えられた髪を撫でながらおれは言った。それが今現在のおれの想いを一番適切に表している言葉だと思った。
「好きや、翔陽くん。めっちゃ好き…」
侑さんの告白に応えるようにぐぅぅ…とおれのお腹が鳴った。
バッとおれから身を離した侑さんはちょっとげんなりした顔で
「きみにはデリカシーっちゅーもんがないんか」
と言った。