プロローグ〜とある大学生の独り言〜
俺がこの日休憩に入ったのは、午後9時を回った頃だった。
始業時からすでに6時間以上が経っているが、休憩に入れただけマシなのだと、自分を無理やり納得させる。飲食店で働いている以上、全てお客様中心に回るのだ。例え予約もなしに急に来店なさった団体様のせいで休憩時間が2時間もずれたとしても、仕方ない。仕方ないのだ。せめて大人数で来るときは確認の電話くらい欲しかったと思わないでもないけれど。
煙草とライターを手に喫煙スペースを目指して非常扉を開くと、日本の夏独特の湿気を多分に含んだ生暖かい風が襲ってきた。思わず小さく呻いてしまったが、結婚して東京に嫁いでいった姉曰く、
『東京より遥かにマシ』
だそうだ。絶対東京には住めない。あーでも色々楽しそうだし遊びには行きたい。新婚家庭に突入する勇気はないので、行くとしたらホテルの予約が必要になるが。そうなると出費が馬鹿にならないな。
白い箱の中心に碇が描かれたフレーバーシガレットをズボンのポケットから取り出し、1本だけ手に取る。俺のお気に入りの銘柄だ。友人らには散々、煙草っぽくないだの何だの言われたが、そこは好みだろう。フレーバーシガレットは少なくないし、最近はメントール入りとか色々増えているんだから、バニラの香りがするくらい良いだろう。嫌煙家にもそれなりの評価を頂いていたような気がするようなしないような大体最近は分煙だの禁煙だのとやかましいせいで俺たち愛煙家は日々肩身の狭い思いをしているんだ一部のマナー違反者のせいだこんにゃろう。
「……疲れてんな俺」
肺に溜まった空気という空気を全て、煙草の煙と一緒に吐き出す。なんて盛大なため息!
疲れがたまっている自覚はある。なんせここ数日は休みなく毎日働いているんだ。夏休みだからと調子に乗ってシフトを詰めすぎた結果がこれだ。
正直自分を過信しすぎていた。今すぐ過去の自分に会えるなら「このシフトはちょっと考え直したほうがいい、なんならこの先に待っている七夕祭りあたりにギュッと詰めてるシフトにも余裕をもたせとけ」と必死に説得すること間違いなし。後悔先に立たず、なんて、偉人の言葉はさすがに偉大だ。誰が言いだしたのかは知らないが。
煙草の煙をぼーっと見つめながら、そんなくだらないことを考えていた時だった。
下の方から人の話し声が聞こえてきた。このビルの喫煙スペース――つまり今俺がいるこの場所――は、ビルの3階と4階を繋ぐ非常用外階段の踊り場に設置されている。路地裏を通る人々がこちらに気づくことは滅多にないが、こちらからはその細い道を通る人々のことはよく見えた。なので休憩中、道を歩く猫や会社帰りのサラリーマン、イチャラブしてるカップルなんかもよく見るし、なんなら話してる内容もよく聞こえる。精神衛生上なるべく見ないように勤めてはいるが。爆ぜろリア充!
しかし、この聞こえてきた声は、切迫感とか苛立ちみたいな色を濃くまとっているのに小さな声で話そうと必死になっている、という印象を受けた。何か良くないことでもしようとしているのではないか、と思ってしまうくらいには。
つい、聞き耳をたててしまいそうになったが、いかんせん声が小さくて上手く聞き取れそうもない。
聞き取れないならせめて、何をやっているのかだけでも見ようと少しだけ身を乗り出す。間違ってもあちらにバレないよう慎重に、だ。好奇心は猫をも殺す、なんていうけれど気になってしまったものは仕方がない。
そこには、性別も顔も分からないが、4つの人影があった。お揃いなのか、黒っぽい服を着ていてしきりに周囲に視線を彷徨わせて、なんとも怪しさ満点といった感じだった。
その人たちのすぐそばには同じく黒っぽいワゴン車が停まっている。周囲に人がいないことを確認したのだろうか、4人のうち1人をその場に残して、3人が車に近寄って扉を開けた。
車の中から、何かを引っ張り出した。1つに対して2人がかりで運び出しているのだから、それなりに重たいのだろう。それらを車から少し離した場所に下ろした。
こうも光源が少ないと、何をしているのかがいまいちよく見えない。表通りは煌々と明かりに照らされているが、路地裏に入ればビルから漏れるわずかな明かりしか届かないのだ。
しかも全員黒っぽい服を着ていて、地面に置かれた何かもこれまた黒っぽい。なんだあれ。
この距離からじゃあ何も見えていないのとあまり変わらないような気がしてきた。一部だけ赤っぽい色と白がある意外、殆ど夜闇に紛れてしまってよく分からない。
そこでふと視線をずらすと、その集団をじっと見つめる人影がいることに気づいた。集団からはだいぶ距離があるため、その人影に集団は気づいていない。俺の位置からだと、白っぽい服を着ていること以外、性別も顔もわからなかった。
その人影はしばらく集団を見ていたが、とくにアクションを起こすこともなくどこかへと歩いて行ってしまった。なんだったんだ。視界の端に何かがちらついたのが気になったとか、そういうことだろうか。
もう一度集団に目を向けたが、地面に置いた何かはそのままに、車で走り出したあとだった。あれは一体何なんだろう。そういえば、ビルのオーナーが以前、増え続ける不法投棄に頭を抱えていたことを思い出す。まさかあれ、不法投棄だろうか……迷惑な。
ふいに足に振動を感じた。休憩時間を忘れないようにセットしていたアラームだ。
「っやばい、休憩終わる!」
煙草の火を消して階段を駆け上がる。地面に置かれた何かは非常に気になったが、今は正直それどころではない。頭からポイと好奇心を捨て去って、仕事に戻った。