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 ――2日目 11:05

 自転車で一山越えて30分。なんて、日向は軽く口にしていたけれど、実際に彼の通学路を見てみると、とても過酷な道に見えた。
 舗装されているとは言え、本当に山道だ。急勾配もそれなりに多い。これを毎日自転車で通ってきていたら、底なしとも思えるスタミナにも納得出来た。車に乗っていても急な傾斜に差し掛かれば圧迫感を感じるのだから、自転車なら相当だろう。朝はともかく、帰りは本当に地獄じゃないかこの道。
 ところで今は夏だからいいけど、冬になって雪が積もる季節になったら、自転車で通えるのだろうか。
「着きましたよ」
「ありがとうございます、先生」
 振り返り、後部座席を見ると、一緒に来ている山口と月島がウトウトと船を漕いでいた。菅原自身もそうだが、夜中に変なメールが来たせいであまり眠れなかったのだろう。苦笑して、二人に声をかけてから車を降りた。
「ここが日向の家かー。なんつーか、日本家屋代表! みたいな感じだな」
「庭で野菜育ててそう」
「むしろ家の裏に畑と田んぼありそう」
 そんな感想を口々に、周囲をぐるっと見て回る。山に囲まれた純和風な一戸建て。この環境が、あの日向を育てたんだなと思える風情ある光景が広がっていた。
「ごめんくださーい!」
 インターフォンを鳴らし、声をかけるも反応がない。もしかして家を空けているのだろうか。
 先生たちと顔を見合わせ、出直そうかと相談し始めた時だった。ずっとそっぽを向いていた月島が、いつもの気だるそうな声で呟く。
「家の中から音がするし、いるにはいるんじゃないですか」
「え? 俺には聞こえなかったけど……月島、耳いいんだな」
「もう一度呼びかけてみましょう。すみませーん! 日向さん、ご在宅ですかー?」
 やはり反応がない。例えば掃除をしていて音が聞こえていなかったり、風呂に入っていたりと、家の中にいたとしても出られない状況というのは多々ある。もう少し待ってみるか、一旦帰るか。そんな話をしていた時だった。
 カラカラと音を立てながら、扉がひとりでに開いた。
「……え?」
 思わずといった様子で声を漏らしたのは誰だったのか。全員だったかもしれない。視線の先には誰もいないのに扉がひとりでに開いたら、誰だって驚くだろう。
「また来たの?」
 その声は随分と下の方から聞こえてきた。辿って視線を下げると、そこには菅原の腰の高さくらいまでしかない小さな女の子が立っていた。扉に手を添え、半分だけ覗かせた顔は随分と険しい。
 オレンジ色のくせっ毛に、大きな榛色の瞳、それにこの顔は。
(日向だ。ちっちゃい日向がいる)
 そういえば以前なにかの話の流れで、日向には少し年齢の離れた妹がいるといっていたことを菅原が思い出す。きっと日向にそっくりなんだろうなーなんてその時は軽く返したが、実際に会ってみると、想像以上だった。違うのは現時点での身長と、髪の長さくらいなんじゃないだろうかと思うくらいには、似ている。
 彼女を見て思わず固まってしまった菅原たちを、更にぎっと睨むように見上げてくる。そういえば彼女は先程から何故、菅原たちを睨んでいるんだろう。よく見ると目には薄く涙の膜が張っている。
「兄ちゃんは、やってないって! 何度言えばわかるの!」
 小さな体から発せられたのは、涙混じりの絶叫だった。
 おそらく彼女は先に、大切な兄を犯人扱いする警察官に会っているのだとすぐに思い当たった。少しでも声をかけたらそのまま大泣きしてしまうんじゃないかという危うさで、それでも兄を信じて、小さい体で大きな大人に立ち向かっていくなんて。
(ほんと、そっくりだな)
 菅原がよく知る日向翔陽という人物を思い出しながら、小さく笑う。
 その場に膝をついて、彼女の視線より若干下になるようにしゃがみ込んだ。突然動いたことで一瞬びくっと体を揺らしていたが、構わず彼女の目を見て、笑いかけた。
「だーいじょうぶ! 俺たちは兄ちゃんを信じてる側だから!」
 そういうと、先程までの険しい顔が鳴りを潜めた。まだ怪しんではいるようだが、ひとまず話を聞いてくれそうな雰囲気には持ち込めただろう。
「俺の名前は、菅原孝支。兄ちゃんと同じ、バレー部。兄ちゃんの、仲間だよ」
 いつもより少しだけゆっくり、大きく声を発し、一節一節で区切るように言葉を紡ぐ。笑みは絶やさないで、じっと相手の様子を伺うと、“バレー部”や“仲間”という単語を聞くたび、少しずつだが表情が和らいでいったのが分かった。
「すがわら……兄ちゃんがよく話してる、3年生の、先輩の、菅原さん?」
「おー日向のやつ、家で俺のこと話してくれてんの? 変なこと言ってないと良いんだけど」
 そこでようやく安心したのか、少しだけ笑ってくれた。笑うとますます似ている。
「優しくて、かっこよくて、スッゲー先輩だ! って言ってた。サイン? とか色々教えてくれるって」
「うわ、なんか照れるなそれ」
「怒って、ごめんなさい。警察の人だと思って……あ、私、日向夏っていいます」
 言い終わると、夏は菅原から視線を外し、後ろに控えていた3人を順番に見ていく。視線に気づいた武田と山口は早々にしゃがんで彼女に視線を合わせたが、月島だけはずっと立ちっぱなしだった。
「初めまして、夏ちゃん。僕はバレー部顧問の、武田一鉄って言います」
「たけだ……先生! 東京合宿組んでくれたって言ってた先生?」
「僕の話もしてくれてるんだ。嬉しいなー。で、左の彼は山口君、その隣は月島君ですよ」
「やまぐち……つきしま……ツッキーだ!」
「日向、家では月島のことツッキーって呼んでんの?」
「ううん、練習中の話するときに、山口がツッキーツッキー呼んでて、みたいなこと話してる。あと最近は、結構二人と仲良くなれたかもって言ってたよ」
 嘘偽りなく、兄が話していたまんまを真っ向から伝えてくる。仲良くなれたかもって言ってた、なんて言われて。山口は照れくさそうに笑い、そっぽを向きっぱなしだった月島もばつが悪そうに口元をゆがめていた。本当に素直じゃないなこいつ。
 高校に入学してから約5ヶ月の間、朝も早くから夜遅くまで部活ばかりしていても、家族との時間は大切にしているようだ。晩御飯を食べながらずっと喋っているのだろうなと簡単に想像出来る。
「夏? 何してるの、早く……どちらさまでしょう?」
 家の奥の方から出てきた黒髪の女性――日向の母親だろう――が、訝しみながら話しかけてきた。180、190近い長身の男が娘と話していたら、誰だって戸惑うだろう。その空気を感じていち早く動いたのは武田だった。
「突然お邪魔して申し訳ありません。烏野バレー部顧問の、武田と申します」
「ああ! バレー部の……いつも息子がお世話になっております。今日は、どのようなご用件で」
「日向君に会いに来ました。ご在宅でしょうか?」
 日向のことを尋ねると、彼女はさっと顔色を変えて俯いてしまった。それに慌てて「事情は知っているんです」とフォローを入れる。息子が傷害事件の容疑者扱いをされている、なんて言い出しにくいだろう。実際、菅原たちも武田や烏養に対してなんと説明したらいいのか戸惑った。
「日向君がそんなことをするはずがありません。だから、直接本人から話を聞きたいんです」
「……ありがとうございます。翔陽はいま、家にはいないんです。入院してて」
「入院っ?」
 思ってもみなかった事実に驚きが隠せない。ニュースでは、被害者が意識不明の重体だとは言っていたが、通報した学生については何も言っていなかった。メールにもそんな記載はなかった。それにわざわざ学校まで来たあの刑事、そんなこと一言も言わなかったじゃないか!
「その、どこの病院に?」
「今から夏と、着替えとか色々届けに行くつもりなんです。もしお時間ありましたら」
「行きます!」
 これは想像以上に、厄介なことになっているのかもしれない。
 事件の容疑者扱いをされているだけじゃなく、日向自身にも何かがあったのだ。そんな大切なことを一言も口にしなかったあの刑事に腹が立ったが、ひとまず今は、少しでも早く日向に直接会いたかった。