◇ 19 ◇
――3日目 10:09
携帯画面が割れた。
正しくは“割った”のだろうが、そんな些細なことはどうでも良い。男は正しく、自らの手で携帯を投げ壊したのだ。
男――吉永という名の青年は、全てが不規則で出来ている。
朝に寝て次に目覚めるのは翌朝だったり、深夜に働きに出て家に戻るのは3日後だったり。場当たり的に生きているので、誰にでも生じるであろうパターン、生活習慣というものが吉永の中には存在しない。
とはいっても、世界は彼の思い通りに動いているわけではない。朝起きて夜眠る人々が大半であるように、彼もまた、何かしらのルールに沿って生きている人間に合わせなければいけないときがある。なので、日付感覚も朝も夜も存在しない彼にとって、重要になってくるのが、常に正確な時を刻む時計。ひいては、携帯電話だった。
その携帯を、投げ壊したのだ。
「あっちゃー……」
液晶画面が綺麗に割れている。かろうじて携帯としての機能は生きているようだが、彼のこれはスマートフォンだ。画面が割れていては何かと支障が生じる。
そもそもこんな行動に移した訳は、彼の足元で無残にも鉄くずへと成り果ててしまったテレビにあった。
正確には、その時テレビが映していたニュース番組のせいだった。
滅多に使わないテレビの電源を入れ、適当にチャンネルを変えながら流し見ていた番組の中に、彼の逆燐に触れる内容があった。2日前に発生した、傷害事件を伝えるものだ。
その時運悪く、スマートフォンを手にしていたのが運の尽きだ。怒りに任せてテレビを蹴り落としたあとに、壁に投げつけてしまったのだ。
ニュースでは、被害者は意識不明だと報道されていた。つまりは、生きている。
彼が怒りを覚えたのは、この点にだった。
「くそがっ、やっぱ俺がやっときゃよかった!」
鉄くずになったテレビをさらに踏みつけるが、それで怒りが収まらなかったらしい、手当たり次第蹴りまわって破壊した。ここが自分の部屋だということを忘れているのではないだろうかと思うほど、暴れまわる。後で片付けるのは自分だろうと、誰かがこの現状を見ていたらそう諭したかもしれない。だが、彼には正論は通じない。
住めなくなった部屋は早々に捨てて、別の部屋へと移動すればいいと思っているからだ。
そういう生き方をしている男なのだ。
「はあ……行くか」
息も絶え絶えになるほど暴れまわった彼は、おもむろにバックパックを手に玄関へと向かう。荒廃した部屋を捨て、鍵もかけずに外へと出て行った。
迷いなく歩を進めた先。彼の目的地は、仙台市内のとある路地裏だった。
件の障害事件が発生した現場のそばだ。
歩くたびにごつごつと靴が音を鳴らす。周囲をぐるりと見回すと、事件現場の前でぽつんと佇む人影があることに気がついた。一歩一歩近づくと、しかし途中で吉永は愉しげに口を歪める。
彼の視線の先。事件現場に佇んでいたのは、黒髪を伸ばした清純そうな印象の女だった。
「えーっと、相沢さん、だっけ?」
「……吉永さん、だったかしら」
突然話しかけられたことで、一瞬だけ驚いた女だったが、吉永の顔を見た途端小さく笑う。
ナチュラルメイクで、服装も口調も清楚な印象を与える。若い男よりは、年齢の離れた年上の男性に評判が良さそうな女だ。対して吉永は、ベースは黒だが、一部分にだけ赤いメッシュを入れた奇抜なヘアースタイル。耳や唇にシルバーピアスが光り、服もパンク系だ。
彼らのことを知らない通りすがりの人間からしてみれば、吉永が相沢に何か良からぬことをしようとしているのでは、と勘ぐってしまいそうな。そんな正反対の見た目の2人。
友人というわけではないが、全く知らない赤の他人というわけでもない。この2人には、共通していることがある。
この場で起こった傷害事件に関与している、という共通点が。
「現場見に来てみたけど、何もなかったわ」
「六宮が入院してるだろう病院の手がかりも、ない?」
「ここから近いあの病院が怪しそうね。一応、ここ通りかかった人に聞いてみたけど、見解は同じだった」
「聞いてみた?」
「記者を装ってね」
真面目そうな見た目だと色々と得よ、と続けて小さく笑った。そんな彼女を一瞥し、吉永は内心で嘲笑う。
(“狐さん”は猫かぶりがお上手なことで)
2日前。ここに被害者である六宮雅輝と、日向翔陽を捨てる少し前のことだ。
2人は元々、ペストマスクをかぶった謎の男の指示で集められ、強引に誘拐暴行事件の片棒を担がされたのだ。その際、彼の指示に従って日向たちに睡眠薬を飲ませたのが、狐さんこと相沢だった。
日向は最後まで抵抗し続けた。突然誘拐されて相当に混乱していただろうに、それでもめげることなく、諦めなかった。自分の口を無理やり開かせ、薬を飲ませようとした彼女の手に、思い切り噛み付いたのだ。窮鼠猫を噛む、とでもいうのか、とにかく日向の渾身の抵抗は相当強烈だったらしい。今も彼女の右手には、白い包帯が巻かれていた。
その表情は面に隠れていたので吉永には見えていなかったが、きっと般若すら逃げ出すような形相だっただろうと思い浮かべる。今でこそ落ち着いた語り口だが、日向に手を噛まれた怒りから髪をひっつかみ、地面に頭を叩きつけたときの言動には戸惑いが見られなかった。口汚く罵る姿、あれこそが彼女の本性だろう。
そう考えると、その時の表情を見てみたかったような気もする。
くつくつと喉の奥で笑っていると、少し離れたところから大きな笑い声が聞こえてきた。
ここから一本表へ出れば、大通りだ。人通りが多くてもおかしくはないのだが、それにしても大笑いだった。それに付随して、男の声ばかりが聞こえてくる。随分とたくさんいるようだ。
その声が、少しずつ吉永たちの方へと近寄ってくる。一応2人はその場から離れ、様子を伺うことにした。
大通り側から入ってきたのは、随分と背の高い集団だった。3人ほど、小学生や中学生にしか見えない小さい奴がいる。そのうちの1人に、見覚えがあった。2日前、吉永たち自身の手で誘拐し、暴行した少年。日向翔陽。
(バレー部、だったな)
すでに焼却してしまったが、最初に読むよう指示された資料には部活の事が書いてあったし、続けて見せられた映像でもバレーをやっていた。彼がたまたま小さいだけで、本来男子バレー部はあれくらい身長があるのだろう。
ちら、と隣に立つ相沢を見る。日向の姿を認識した彼女がどう表情を歪めるのかという興味からの行動だ。彼女はまだ、手を噛まれたことを根に持っているようで――吉永の予想よりは可愛らしかったが――鬼の形相だった。
(おっかねえー)
こちらに視線をよこした日向を一瞥し、吉永は病院の方向へと視線を向ける。
事件のニュースを見る限りでは、救急車が呼ばれ搬送されたようだったし、日向もそれなりに怪我を負っていた。怪我人を2人同時に運ぶくらい、救急車なら出来るだろうし、夜に搬送して対応してくれる病院がそんなたくさんあるとは思えない。2人とも同じ病院に運ばれたと考えていいだろう。
本人に聞いてみようかとも思ったが、彼は今随分と優しげな面持ちの男と強面の男に挟まれている。加えて、日向の前方も後方もさらに外側も全て、背の高い奴らが中心に囲んでいる。
どう考えても話しかけられる雰囲気ではない。
「今日は引きあげようぜ」
いまだ日向を鬼の形相で睨めつけていた相沢を促し、その場を後にした。