◇ 30 ◇
――1日目 22:39
ある程度の距離を移動した後、車からそれぞれ帰路につく。吉永という男は最後まで苛立たしげにペストマスクの男に詰め寄ったり、車を蹴り飛ばしたりしていたが、他は大人しく帰って行った。
彼に逆らったところで、六宮と同じ運命をたどることになると痛感したからだろう。
その様子を助手席で眺めていた渡部は、後ろに座るペストマスク――自らをエスと名乗った男だ――を鏡越しに見つめ、吐息した。今この空間には、2人しかいない。少しだけ緊張しながらも、口を開いた。
「確認したいことがあるんですけど」
『なんでしょう』
「六宮君がターゲットだったのは、何でですか、笹野さん」
ぴたり、とエスが止まった。鏡越しにじっと観察していると、くつくつと笑い肩を揺らしている。そうしておもむろに、ペストマスクへと手を伸ばし、それを外し始めた。
マスクの下から、濃茶の髪と、切れ長の目が特徴の男が顔を出した。世の中の常識に当てはめれば十分イケメンと呼ばれる類の整った顔立ちをしているというのに、何故か印象に残らない。同じ空間から出た途端、顔だけがすっぽりと記憶から抜け落ちていそうな、そんな印象を抱かせる男だった。
その男は、鏡越しに見てくる渡部を見やり、にやっと笑う。
「よく俺だって分かったね、渡部君」
「手首の入れ墨がちょっと見えたから……」
「なるほどー。ああ、六宮君がターゲットだった理由ね。それもよく気がついたなぁ」
そう告げると同時に、振り返る。笹野と呼ばれた男は、手袋をはずしながら自身の入れ墨を軽く撫でた。
「そう依頼されたからだよ。本物のエスに」
「依頼……? 笹野さんが、そんなの受けたんですか? 俺たちと同じように、何か握られて」
「その通り。俺も、ルートとか顧客とか含めていろんな情報握られちゃっててね」
「貴方なら、自分を脅してくるような奴は探し出して潰してると思いますけど」
訝しげに尋ねると、笹野は小さく笑い肩をすくめた。
「恐ろしいことに、見つけられなかった。仕方なく、依頼を受けるしかなかったんだ。まあ難しいことじゃなかったし、結構積んでくれたから良いんだけど」
渡部は瞠目した。彼が知るこの男は、長いものに巻かれたふりをしながらも策略をめぐらせる厄介な男だったはずだ。自分の容姿が優れていることも、また印象に残りにくいという事実も自覚して、様々な場面で存分に活用する、計算高い男。
そんな男を使う、本物のエスに寒気がする。
「依頼内容ってなんだったんです?」
「俺がエスとして表に立つこと。日向君を誘拐して暴行すること。そして最後が、六宮君をあの場所へ、気絶させて連れて行くこと。なんでこの2人がターゲットだったのかは知らないよ。ちなみに、エスには俺たちを殺す気はまるでないそうだよ。脅しただけで」
「……じゃあ、日向の手足を折らないように、とかも全部、そいつの指示だったんですか」
「そう。あーあと、万が一、六宮が動かなかったら、適当なところで止めろとも書かれてたな。とどめは別の人間がやるんだってさ。案外本人かもね」
先ほど六宮を殺すと言っていたのに、何もしないで道路に転がしただけだった理由が分かった。元々六宮は殺される予定で、集められていたらしい。
何故あの2人がそういう事になったかは、あまり興味もないのだが。
「明々後日、俺たちの情報全部くれるんだってさ。それで、この仕事はおしまい。割のいいバイトだったって思えば、なかなか楽しかったよね」
「俺は金銭のやり取り一切してないんですけど……」
にやり、と笑った笹野を呆れながら見返した。彼の言う通り、割と簡単な仕事だったのだと思う。脅された材料もちゃんと渡してくれるようだし、それさえ手に入れば、もう心配することはない。
だから油断していた。
本物のエスに嵌められていたのだと知ったのは、約束の日。情報を全て渡すと言われた場所で待ち構えていた私服警察官に、話しかけられた時だった。