◇ 32 ◇
――4日目 22:19
度々外を眺めていたエスが、小さく笑った。
影山が目にするエスという人物は、よく笑う。顔には相変わらず表情の抜け落ちた真っ白い面をつけているので、その下の顔がどうなっているかは分からない。だが、声だけは常に楽しそうに笑っている。
『烏野の小さい10番君は、“最強の囮”ですものね?』
その楽しげな声は、いっそぞっとするほどの言葉を吐いた。
日向を“最強の囮”としたのは、他ならぬ影山だ。並外れた瞬発力、運動神経、体を操るセンス、持久力、そしてバネ。バレーに関する技術はてんで素人だが、それでも一度コートに立てば強烈な存在感を放つ。
それを引き出しているのは影山のトスだが、あくまでも引き出しているだけに過ぎない。彼が放つ存在感も輝きも、身の内に潜むものだ。
そして、それら全てをいかんなく発揮する役目が囮だ。エスは、そのことをきちんと理解した上で、利用したのだ。確実に、誰にも邪魔されないように目的を達成するために。日向の味方である烏野バレー部の目も、家族や友人たちの目も、そして警察の目も、全てを日向に向けさせるために。
日向が囮で、今自分が捕まっているということは、エスの目的は影山にあるということになる。影山を誘拐する、そのために、ただそれだけのために、日向は利用され、傷つけられたということか。
理解した途端、目の前が真っ赤に染まったような気がした。今、こうして縛られていなければ確実に、影山は白面を力の限り殴り飛ばしていたことだろう。
だが、体は柱に固定され、手足はロープで縛られている現状。身の内に芽生えた怒りを発奮させる場を奪われた影山は、憎しみを込めた目でエスを睨みつけるより他に手がなかった。
『怖い顔ですねぇ。少し前までの貴方なら、そんな顔をすることもなかっただろうに……随分と人間くさくなりましたね』
良い傾向です、と言ってエスは再び視線を外に戻した。その態度に怒りが増長する。
「俺が狙いなら、さっきみたいにすれば日向を巻き込む必要なかっただろ! 何でこんなっ!」
『おや、流石に気付きましたか。でも惜しい! 貴方だけがターゲットだったわけじゃないんです。六宮君もだし、あと日向君も無関係ではないんですよ』
「無関係じゃない?」
『六宮君は、君と同罪ですからね。日向くんは、個人的な恨み……うーん、怒りの方が良いかな。君を救ったことに対する怒りがあったので。で、理由か。聞いたところで、理解出来るとは思えないんですけど……』
君の理解力が足りないっていう話じゃないですよ、と口にしながら、一歩一歩、足音を立てずに近づく。すぐ眼前に立つと、すとんとしゃがみこみ白面を影山の顔に寄せた。そして、まるで内緒話でもするかのようにささめく。
『まず、180センチもある男性を私1人で誘拐するのは無理です。頭でも殴って気絶させれば出来なくもないですけど。それだと最悪、貴方も六宮君も死んでしまいますし』
私、誰も殺す気はないんですよね。と、エスは続けた。
考えてみれば、殺す予定だったらしい六宮も生きている。殺す気はないという言葉は本当なのだと思えた。
『1人で誘拐出来ないとなったら、協力者を募るしかないけど、私だって家族や友人にこんなこと頼みたくないですし』
「……ってことは、他の犯人ってのは、そういうことを頼める奴らなのか?」
『彼ら全員犯罪者なんですよ。だから、罰せられる罪が1つ2つ増えても大差ないかなと』
機械越しの声はあくまでも軽く、事件の詳細を語っている。その白面の下の人間は、今どんな顔をしているのか想像出来なかった。
『犯罪者集団を使って、貴方と六宮君を襲って終わり、にしないで日向君も巻き込んだ理由はね。まあ囮と、あとは、貴方たちに恐怖を与えるためですよ』
「恐怖、って」
『絶望から救ってくれた仲間、日向君。彼を失うかもしれないという恐怖は、いかがでした?』
一昨日、菅原から日向が入院するに至った過程を聞かされたとき、確かに影山は恐怖を感じていた。やっと出来た仲間を、相棒を、失うかもしれない恐怖。それを、狙ったということか。
その言葉を聞いた瞬間、影山はエスを蹴ろうと自由にならない足を振り上げた。しかし、それを予期していたかのように、エスは一拍早くその場を飛びのく。
足がぎりぎり届かない距離に立ち、くすくすと笑う相手に、頭がおかしくなりそうだった。
(なんなんだこいつは!)
元々人の心情や考えを察することは不得手としている自覚はある。だが、こいつは本当に訳が分からない。これがもし、自分の立場に居るのが菅原や及川だったら、分かったのだろうか。エスの目的が。言わんとしていることが。
『落ち着きましょうよ。大した怪我してないでしょう?』
一度言葉を切って、エスはポケットからナイフを取り出した。あのメールに写っていたナイフと、同じ形のように見える。
「何がしたいんだ! お前は!」
『ああ、それ言わないといけませんよね。気になりますものね』
そこでエスは、それまで上着のポケットに入れたまま出すことのなかった右手を晒した。上下真っ黒な服と同じく、真っ黒な手袋をはめている。両手を胸の前まで持ち上げ、ひらひらと動かした。
『私はね、影山君。君の、両手を、潰してしまいたいんです』
「っ」
ひゅっと喉がなった。今コイツはなんといった?
セッターである影山にとって、大切なものの1つである手を、潰したいと言わなかったか。
どっどっ、と早鐘を打ち続けていた心臓が一瞬止まったような錯覚に陥った。それほどの恐怖を感じる言葉だったのだ。
二の句が継げずに固まる影山を見やり、エスは何かに気がついたようにああ、声を上げる。
『潰すって言っても、骨を粉砕するとか手を切り落とすとかではなくて、こう……指の神経や筋繊維をいくつか断ち切りたいだけですよ?』
「っふざけるな! そんなことされたら、俺は!」
『セッターとしては生きていけなくなりますね。いいじゃないですか、バレーだけが人生じゃないでしょう?』
小首をかしげるエスからは、その言葉に対する本気さが伝わってきた。
バレーだけが人生じゃない。そんなことは影山にも分かっている。だが、15年生きてきたうちの半分はバレーで構成されているのだ。自他ともに認めるバレー馬鹿から、それを奪ったら。
そうなったとき、彼はもう影山飛雄という人間ではなくなるのではないか。
今まで考えたこともなかった恐怖を、絶望を、すぐ目の前に叩きつけられる。この状況から逃げなければ、そう遠くない未来に、それが訪れるのだ。心臓を鷲掴みにされたような息苦しさが襲った。
『……あら』
顔面蒼白状態の影山から視線を逸らし、再び外を眺めていたエスが小さく声を漏らす。フードを被ったままの頭を僅かに傾け、わずかに身を乗り出して下を見始めた。
『うーん……予想より早かったか……。良かったですねぇ影山君。貴方の仲間はとても優秀なようですよ』
ポケットから取り出したナイフを弄びつつ振り返る。仲間が優秀とは、どういう意味なのだろうか。
『坊主頭が2人……田中君と成田君かな? 2人がすぐ近くまで来てますよ』
「……は?」
脳内を占めていた現実的な恐怖から、少しだけ浮上した。先輩2人の名前を聞いて、目の前が開けた気がした。
『遅かれ早かれ来るだろうとは思ってたけど……。ここにたどり着くのも時間の問題ですね』
「2人に、なにかしたら……!」
『するはずないでしょう。自分の心配をしたらどうですか。なんなら、大声出して助けを呼びますか?』
その言葉にかぶさるように、田中が影山の名前を叫ぶ声が遠くから聞こえてきた。徐々に近づいているのが分かる。だが、2人を呼んでもいいというエスの意図が全く理解出来ない。日向を囮として使っている以上、誰にもバレることなく事に及びたかったはずなのに。
その思考を読み取ったかのように、エスは影山に近づき笑った。
『君が起きるのをずっと待っていたんですけど、それより早くバレちゃったみたいですから』
「待ってた、って……」
『目の前でずたずたに切り裂かれる方が、より絶望出来るでしょう?』
結構ぐっすり眠っていて困りました、なんて軽く呟きまた笑う。
そうこうしているうちに、田中の大声がすぐ近くまで迫ってきていた。エスは2人に何かをするつもりはないと断言していたが、本当にそうするかは分からない。幸い、影山たちがいる場所は空間の奥に位置している。入口までの距離はおおよそ20メートル。
万が一何かが起こっても、田中と成田なら逃げ切れる距離だ。
「影山!」
田中と成田が声をそろえて叫ぶ。全身汗だくな2人は、影山を目にした途端、安堵と緊張が入り混ざったような表情を浮かべた。
しかしすぐに、田中がぎっと眦を上げて部屋の中へと1歩足を踏み出す。
『動かないでください』
田中が動くより早く、エスは影山の首にナイフを当てた。金属独特のひやっとした感触が気持ち悪い。
その光景を目の当たりにした2人は、慌ててその場に立ち止まる。
『ようこそご両人。お茶でも入れて歓迎してあげたいのは山々なんですが、それ以上こちらに入らないでくださいね。入ってきたら、影山君を殺します』
「っテメエ! ふざけたこと抜かすんじゃねえ!」
『ではその場に留まってください。そうすれば命は奪いませんから』
「っ田中さん! こいつは俺を殺す気なんて」
叫ぶが言いきる前に、エスは影山の髪をひっつかみナイフを眼球すれすれの位置に突きつける。突然襲った痛みに、息を詰まらせた。
『彼の言う通り、殺す気はないんです。ただ、絶対とは言っていないし必要になったらやりますよ。今ここで目を潰したって良いんですけど』
機械越しとはいえずっと楽しげに話していた声が、わずかに低くなった。相手を畏怖させる迫力をこめた声だ。
『彼の首を切り裂いても、正しく処置が出来る知識と技術を持った人がいるなら、入ってくればいい。でもそうでないなら、やめておきなさい。本当に、死んでしまうから』
2人は悔しそうに顔を歪め、その場に留まった。指示に従うことにしたようだ。
田中の影に隠れて、成田はずっと何かをしていた。おそらく、警察あたりにでも連絡を取っているのだろうと推察する。
『誰に連絡してるか知りませんけど、堂々と携帯使っていいですよ。どうせ、他の人たちもすぐ近くにいるんでしょう?』
「は?」
拍子抜けするようなことを言ってのけるエスを、2人は信じられないものを見るような目で見つめる。影山自身、何がしたいのか全く分からず、内心で罵倒した。しかしエスはどこ吹く風といった様子で、歌うように言葉を紡ぐ。
『だって、もう全部分かってるんでしょう? 私が誰で、何故影山君を狙っているのかとか。だから、ここにたどり着いた。違いますか?』
「ああ、理由なんて全然分かってねえ!」
「ちょ、田中。せめてブラフとかさあ……」
大きな声で、堂々と胸を張って言ってのける田中に、成田は呆れたようにツッコミを入れる。
一方でエスは沈黙し、しかし少しの間を空けてから、腹を抱えて笑い始めた。
『正直ですね! 清々しいほどに! そういうの好きですよ、あははっ!』
引き攣りながら笑い続けるエスに瞠目する。先程から笑うことが多かった印象ではあるが、ここまで笑うほどのことか。笑い続けてはいても、首に当てられたナイフが外されることはなかったが。
『はー……面白かった。じゃあ貴方たちは、誰かに指示されてとりあえず探しに来ただけなんですね。しかし、よく見つけましたね』
「……最初は、ここから近いあの体育館が怪しいって言われたけど、ついさっきまで利用者がいた場所に誘拐した人間を連れて入るのは無理だろ」
『ふむ。なら、その指示を出した人には全部分かっているようですね』
複数人の足音が聞こえ、やかましさが増していく。そのためだろうか、影山にしか聞こえないだろう声量で『眠っている間にやればよかったかな』と呟いた。
入口から見えたのは、東峰と西谷、谷地の3人。やはり全身汗だくで、息を切らしながら田中たちと合流していた。それぞれが一様に影山たちを見、息を止める。驚愕、怒り、戸惑い。色々な表情を浮かべていた。
『……おや、マネージャーが一緒とは。だめでしょう、女性をこんな遅くまで連れ回しちゃ』
エスが肩を竦ませ、ため息混じりに告げると、東峰の眉間に皺が寄った。
「男子高校生を誘拐して暴行するような犯罪者に、そんなこと言われたくないよ」
『ふふ。たしかに、そうですね』
「影山を解放しろ!」
西谷が吠える。するとエスはまた可笑しそうに笑い始めた。少し強めに、ナイフが首に当たる。あと少しで、首の皮膚が裂かれそうな圧迫感だ。
『彼の手を潰したら、解放してあげますよ』
エスの言葉に、全員が息を飲んだ。影山の手が潰されることを、その意味を、全員が理解している。
手を潰されたら、セッターとしてはもちろん、バレーボールを続けることすら出来なくなる可能性が高い。その恐怖は、影山だけではない。全員に、理解出来るものだ。
『大人しくしていてくれれば、命の保証はしますから』
「……殺す気は、ないのか。本当に?」
首にナイフをあてがった状態で、殺す気はないと言うことの、なんと説得力のないことか。
東峰が不安げに尋ねると、エスは小さく頷いた。
『死んでしまったら全て終わりですからね。だから、死なせませんよ』
「どういう、意味だ?」
エスは何故そんなことを尋ねられるのかが分からない、といった様子で首をかしげた。そして、言葉を続ける。
『死んだら、全てが消える。苦楽も、死ぬ瞬間の痛みすら綺麗さっぱりね。そう考えると、生きることより余程楽ですよね。……私は彼に、絶望を抱えたまま生きてもらいたいんですよ』
それが、エスが人を殺すことを嫌がる理由だった。
つまり、影山に仲間を失うかもしれない恐怖を与え、バレーを続けられない決定的な状況を与えて、絶望させたい。それが、エスがこの事件を起こした目的だということか。
「なんで、なんでそんなことするんですかあ!」
涙混じりの絶叫をあげたのは、あの谷地だった。いつも何かに怯え、おどおどしている少女が、この状況に臆しながらも叫んだ。驚く烏野の面々をよそに、エスは首をかしげながら彼女を見つめる。
何か、答えるつもりなのだろうか。影山のすぐ隣に立つエスが息を吸う僅かな音を、聞いた。
「復讐、デショ?」
「っ」
突然飛び込んできた声に驚かされたが、この声は間違いない。月島だ。
東峰たちの影に隠れて影山には見えなかったが、月島と山口、木下、縁下の4人が、いつの間にか合流していた。息を弾ませているので、今さっき着いたばかりなのかもしれない。
「ふく、しゅう?」
「どういう意味だ月島。なんだよ復讐って、影山が一体何したってんだよ!」
掴みかかる勢いで詰め寄る田中を前に、月島はいつもと変わらない態度で素っ気無く返す。視線は変わらず、エスと影山を見つめていた。
「貴方は、自分からバレーを奪った六宮さんと、影山に復讐するために、この事件を起こしたんだ。……でしょ? 高橋さん……いえ、水谷美羽さん」
月島が名前を呼ぶと、ナイフを突き付けていた手をおろし、ため息をついて立ち上がった。
手にしていたナイフを右手に持ち替え、左手でフードを取り払い、白面を外す。その姿を目に止めた途端、谷地が息を呑んだ。
仮面の下から現れたのは、緩く波打った胡桃色の髪が特徴の、柔和な笑顔を浮かべた女性だった。