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 人間は贅沢な生き物なんだよ。
 そう言ったのは1人の男性だった。海外で技術を学んだとか、焙煎に関しては右に出る者はいないとか、金髪美女との恋愛話とか。本当なのか嘘なのか、誇張表現なのか全く分からないようなことを平然と口にする男。
 この人はきっと口から先に生まれたに違いない。見た目はロマンスグレーの紳士だが、“いい加減男”の異名を欲しいままにするどこぞの芸能人並に、軽口ばかりの男。それが『Café Le Ciel』の店長だ。
 そんな男が、穏やかな口調で淡々と話していた時がある。木下の記憶が確かなら、インターハイ予選が終わってすぐの頃。
 店内には、木下の他に数名の客がいた。彼はいつもどおり、注文の品を受け取りに行っただけなので、話の流れは分からなかった。ただ漠然と、カウンター席についている客が何かしらの愚痴を言ったらしいこと。そして、それを店長が聞きながら、アドバイスをしていることだけは理解した。
「贅沢……ですかね」
 暗い顔をした男がため息混じりに呟いた。それを店長は軽く笑いながら、頷き肯定する。
「人間ほど贅沢な存在は、どこにもいないだろうよ。なんせ、人間は知恵も知識もある上、過去も未来も思考する力を持ってるだろ」
「それ贅沢なんですか?」
「それ自体が、ではないかもしれないが。他のどの動物にもない能力じゃないかな。一番知能が近い猿にだって、過去と未来をあれこれ考える力なんてそうないさ」
 作業台では、話しながらも滞ることなく手を動かし続けている。挽きたてのコーヒーをゆっくりドリップして、カップを手近な場所へと移動させた。
 グラスポットからカップへとコーヒーを流し入れ、客の前に静かに置く。かち、とティースプーンがカップに当たる音が響いた。
「だから、人間は贅沢になるんだよ。目先のことだけに必死になってる動物とは違ってね。例えば……AとB、2つの道があるとするよ」
 その言葉と同時に、皿に並べられたクッキーを2皿、彼の前に置いた。1つ分席を空けて隣に座っていた木下にも彼は一瞥する。お前も聞いておけよ、と言われた気がした。
 ちなみに、木下たちから見て右にあるのがチョコチップクッキー、左にあるのがマカダミアナッツクッキーだ。
「Aの道は、短いけどものすごく困難な道。Bは、平坦だけど長い道。でもどちらを通っても、着く場所は一緒。さて、どちらを選ぶ?」
 右のクッキー皿をさしながらAの道の話を、左を差しながらBの道の話をする。
 質問の意図がよく分からず、首をかしげる。戸惑いながら、右の皿を指さした。
「俺は、Aかな。短いほうがいい」
「木下少年は?」
「え、俺も答えるんですか? うーん……Bっすかね」
 答えると、店長はそれぞれに選んだ皿を2人に差し出し、サービスだよといってウインクする。ありがたく頂くことにした。
「じゃあ実際にその道を選んだとしよう。でも、Aの道は予想以上に獣道だし街灯の一本もない過酷な道で、Bも宮城から東京までの距離と同じだとしたら、どうだ?」
「どう、って?」
「『ああ、こっちの道じゃなくて、もう1つの道を選べば良かった!』……って、思うんじゃないかな?」
 言われるままに、想像する。もし今言われたような選択を迫られ、選んだ結果、自分の予想を超えるものだったとしたら。選ばなかったもう1つの道をずっと考えてしまうだろう。
「1つを選択したとしても、選ばなかった何かをずっと考えて生きていくんだ。そして後悔を重ね続ける。どんな優れた人間でも、必ず後悔する。大人は君たちより遥かに多くの後悔を背負っているから、口うるさく言うんだよ。“後悔しない道を選べ”って」
 木下の隣に座る男は、そのようなことを相談して愚痴でもいったのだろうか。私服姿だが、年齢は木下と対して変わらないように見える。高校生か、もしかしたら大学生か。子供と言うには大人であり、大人というには幼い微妙な時期。
 大人の心配を理解しつつも、鬱陶しいと思ってしまう心情は、木下にもよく分かる。そしてそれは、自分たちより長く生きている目の前の男も、かつて通ってきた道だ。
「……後悔しない道、なんてそんなもの、存在しないのにね」
 そういって彼は、眉尻を下げて苦笑した。手元のドリッパーに目を向けているはずなのに、遠くを見るような哀しい目をしていた。
「50年近く生きてるが、そんな奇跡のようなもの選べた試しがない。その時の自分が出来る最良の選択をしたとしても、5年後10年後もそうだとは限らないからな」
「たった一度も?」
「そうだ。そういう道を選んだつもりでも、10年たって振り返ると別の道があったはずだと思うんだよ。でもなー、不思議なことに、20年たって振り返るとそういう過去も全部笑い飛ばせるようになる」
「は?」
 先程までの悲しいくらい静かな空気が霧散した。思わず手にしていたクッキーを皿に落とす。
 店長は木下たちの反応を見るに付け、意地悪く笑う。いたずらが成功した時の子供のような顔だった。
「結論を言うとだ。後悔しない道は存在しない。けど、後悔を減らす努力はし続けたほうが自分のためだな」
「減らす努力……って?」
「その時自分に出来る最良の選択をし続けること。自分を信じること。それで、もし後悔するときが来ても、それを悲観しないこと」
 空になっていた木下のカップにコーヒーを注ぎながら、高橋が持ってきた注文表を受け取る。それをざっと見てから、作業台に何種類かの茶葉や豆を乗せた。
 作業中も、よく回る口は止まることを知らない。
「失敗も後悔も、辛いことも悲しいことも全部ひっくるめて抱えて生き続ける強さを身に付ける。そうすりゃ、今すぐは無理でも、笑える思い出になってるよ。だから」
 一度言葉を切って、店長は隣に座る男を真剣な面持ちで見つめた。
「自分で自分を見捨てるな。裏切るな。お前だけは最後までお前の味方だ。悲観して、死ぬなんて選択するなよ」
 隣の男が息を呑む。死ぬな、なんていう忠告を受けるほどの内容だったのだろうか。
(自分で死ぬ選択をするときって、どんな時だろうな……)
 そんなことを、ぼんやりと考えていた。

 思えばあの日すでに、店長は予感していたんだろうか。
 彼の姪にあたる彼女が、事件を起こそうとしていることに。