◇ 34 ◇
――4日目 22:54
月島の隣で、谷地が息を飲んだ。
彼女たちの視線の先。影山のすぐ隣でナイフを弄んでいる全身黒づくめの人物は、白面を取り去り後方へと投げ捨てた。その下から現れた女の顔に、覚悟を決めていたはずの木下すら瞠目する。
項にかかる長さで緩く波打った胡桃色の髪と、タレ目が特徴の女性。2日前、『Café Le Ciel』で木下と谷地をにこやかに迎え入れた女性だった。
「本当に、美羽さんなんだ……」
木下の口からは乾いた笑いがこぼれた。信じたくないと目が語っている。
そんな2人を眺め、彼女は笑いかけた。一方、集団の一番前に乗り出していた西谷が首をかしげ、美羽を見る。
「水谷……みわ……? って、どっかで聞いたような……」
「そりゃそうだよ、西谷。あの人、お前と同じ千鳥山の出身だ。今20歳だから、お前の入学と入れ違いで卒業してるはず」
「それだ! 監督たちがよく名前出してたんだ! 『天才と言って過言じゃない女バレ期待の新星』がいたって」
西谷の言葉に、この場に先についていた東峰たちが驚きを顕わにする。縛られたまま身動きの取れない影山も、美羽の顔を仰ぎ見た。しかし彼女はその視線に答えることなく、変わらず入口に集まっている集団を眺めている。
仮面を剥いだはずなのに、変わることのない顔。笑顔だが、むしろ無表情の仮面の方が人間らしかったのではないかとすら思えてくる。
その笑顔を前に、縁下はわずかに肩を震わせた。恐怖を感じているかのように、冷や汗を流す。縁下だけではなく、全員がそれぞれに恐怖しているようだ。
「天才セッターだったんですよね、水谷さん」
「そう呼ばれた頃もあったねえ」
機械を通さない地の声は、リリコ・スピントだ。穏やかな中にも強靭さを滲ませるよく通る声。その声だけならば、明るさすら感じられる。しかし、ニコニコと微笑みながら、それでもナイフは手放すことはなく、東峰たちの一挙手一投足を見逃すまいと目を光らせる。
その出で立ちはまさしく空間の支配者だ。つい臆してしまいそうになる。
「バレーの強豪大学から声をかけられたりとか、よくあったとか」
「ちょっと待て縁下。天才セッターって、影山と同じじゃんか。それがなんで、ああなるんだよ」
「……3年前に、そうじゃなくなったから」
田中を一瞥して、縁下は再び美羽を睨めつける。彼女は絶えず笑みを浮かべていた。
「3年前。あの場所で、ガラスの落下事故があった。その事故で、多くの重軽傷者と、1人意識不明の重体になった人がいたんだ」
「……その意識不明になったのが、美羽さんだったんですね」
木下の問いかけに頷き、ナイフを片手に持ったまま美羽は拍手する。調べたことに対する賞賛だろうが、手袋は装着したままだったので、音はほとんどならなかった。
「よく調べたね。すごいすごい! それじゃあ、事件の全容も、全部分かってるのかな」
「これが復讐であること。そして、そのために日向を利用したことは、分かってますよ」
事件が露見した当初から、ずっと違和感を覚えていた月島が言葉を発した。レンズの向こうで、目がすっと細められる。
「日向は、僕たちの注意を向けさせるための陽動だ。ああ、あと、六宮さんを刺したのは、貴女ですよね。殺さなかったのは、殺したくなかったっていう理由ともう1つ、共犯者たちを全員逃がす気がなかったからじゃないですか」
月島の言葉に、一足早くこの場に来ていた面々は首を傾げた。美羽も浮かべていた笑顔を消し去り、きょとんと眼を瞬かせ、よく分かったなぁと小さく呟く。その声は小さすぎて、そばにいる影山にしか聞こえていなかった。
「殺したはずの人間が意識不明とはいえ生きていた。いつ目を覚ますか分からない。なら、そうなる前に本当に殺してしまおうとするだろう……貴女はそれを狙っていたんでしょ。そしてさっき、まんまと貴女の罠にはまった犯人たちは、病室で現行犯逮捕された」
「ペストマスクをつけた、エスを名乗る男の首を躊躇なく締め上げるような奴が一緒にいたんだ。そういう流れになるのは必然だよな」
月島、縁下の話を聞きながら、美羽は小さく頷く。彼らの話に間違いがないことを肯定するかのように。
「さっき、影山君には話したんだけどね。彼ら全員犯罪者なの。殺人とか、麻薬密売とか色々の。だから、手伝ってくれたお礼をしたのよ」
「警察に捕まることが、礼ですか。犯人たちにとっては恐ろしい話ですね」
「ん? じゃあ六宮がすぐ目を覚ましたのって……」
「そうなるように、刺したんだろ? 念のため医者に聞いたけど、そこまで深い傷じゃないし、幸い出血量も少なかったからすぐ目を覚ましたんだろうって、言ってたよ」
西谷の疑問に答えるように、縁下が続ける。昨日、六宮と話をした際に、彼の担当医からも話を聞いていたらしい。
「とは言っても、いつ目を覚ますかは貴女にも分からない。……だから、貴女は相当多くの情報を掴んでいたはずだ。臨機応変に対応できるように。僕らの部活予定とかも合わせて。多分、日向が退院した時にも近くにいたんでしょ」
「うん。見てたよーあの大騒ぎも、その後も」
「……ってことは、月島と及川が言ってた、つけてきてた奴って」
「私のことかな?」
あの日、月島はつけられているようだとは口にしたが、それがどういう人物かは口にしていない。及川もまた然り。だが彼は『女の子から尾行されちゃったりとか日常茶飯事だから』気づいたのだと言っていた。あの時は誰もが、ただの自慢混じりの戯言と取り合わなかったが、もしかしたら。あの時彼の視線の先には、美羽がいたのではないか。
今となっては確認しようもないが、彼女は確かに彼ら、烏野の後をつけていたという。
「だから、こっちのこと全部知ってて……」
「なら、その都度犯人たちに指示を出してたってことか?」
「いいえ。計画は笹野さんに伝えて以降、一度も変更してないよ」
その言葉に、月島たちが眉間にしわを寄せて、美羽を睨めつけた。口元だけで小さく、やっぱりと呟く。
全容が分からない田中たちは疑問符を浮かべるばかりだ。
「その笹野さんっていう人が、エスなんですね。表向きの、事件の首謀者」
六宮は、犯行グループは自分を含めて6人だと断言していた。その中の1人、ペストマスクをつけた男が主導していたと、口にしていた。
だが、その実、事件の裏には高橋――水谷美羽という7人目が存在していた。彼女こそが、事件を企てた言わば真犯人。
真犯人が別にいる、という事実を知っているのは、エスを演じた笹野と言う男だけ。他の面々は六宮同様、彼こそが主犯だと考えていたはずだ。
「彼のことも恐喝したんでしょうが……追加で金を積んだか、お前だけは助けるとか上手いこと言って主犯を演じさせたんですかね。でも、全て教えていたわけじゃない。六宮さんを殺さないことだけは、伝えていなかったんでしょ? 伝えていたら今頃、彼は逃げてる」
「彼も合わせて捕まっている現状を考えるに、貴女が笹野って人に連絡を取ったのはたった1回だけ。その後も連絡を取り続けたら、何故六宮を殺さなかったのかと詰め寄られるだろうし」
つまり、日向を誘拐し、六宮を半死半生の目にあわせ、影山を誘拐した今日までの数日感。その計画は一度も変えていないというのなら、全てが彼女の思うままに動いたということだ。
烏野全員の動向や、犯人たちの動き、思考、警察の動きなど、全てを把握していないととてもではないが出来ることじゃない。ほんの少し読みを間違えれば、計画が丸つぶれになるリスクの高いことを、彼女はやっていたのだ。
「一種の賭けだった、ってことですよね。そして、今日までに六宮さんが口を割らなかったとき用の保険で、情報は集め続けていた……」
緊張のためか、冷や汗を流している者も少なくなかった。その中で、月島が口を開く。
「でも貴女が予想していたより余程早く六宮さんは目を覚まし、ことの詳細を語ってしまった。正直、焦ったんじゃないですか?」
普段の挑発するような口ぶりで問いかけると、美羽は少しだけ笑って頷いた。
「国見君があんな証拠持ってるとは思ってなかったし……もう少し日向君に注意を向けていたかったんだけどね」
日向の退院後すぐ、奇妙な写真を撮ったといって現れた青葉城西の国見。本人すら、よく分からない写真だと思って放置していたのだが、十分証拠たり得たのだ。もちろん、目撃者がいるかもしれないことは、彼女も考えていただろう。ただ、日向のすぐ身近な人物がそうなるとは思っていなかったらしい。ため息混じりに吐露した。
月島が話をしている間、東峰たちはどうにか影山を助けられる道はないかと策を巡らせていた。動けば影山を殺すというが、実際に殺す気はないとも言う。彼女の視線から逃げて、裏に回ることは出来ないかと空間を見渡すが、身を隠せるような場所がない。
一度外に出て、空窓から入り込もうにも足場が不安定な場所であるために、簡単に回り込めそうにない。
影山たちのところまで、目測で約20メートルの距離。西谷や、今この場にはいないが日向の足でなら一気に詰めることは可能だろう。だがそれよりよほど早く、彼女は影山の首を切ってしまう。そう断言出来る。
「変な動きを見せたら首切っちゃうからね」
「っ!」
東峰たちの行動も思考もお見通しだと言わんばかりに、影山の首筋にナイフを強く当てた。否応なしに従うしかない。苦々しく顔を歪めた面々を見て、満足そうに美羽は笑いかけた。
この場における笑顔の、なんと恐ろしいことか。
「そうそう、予想外のことね。六宮君が案外あっさり口を割ったのと、国見君が証拠を持って現れたのと、六宮君の証言から3年前の事故を調べ始めた木下君たちの行動の速さかな」
「調べるかもしれないことは、少なからず予期していたってことですか」
「全員の性格を参考に行動を予想したら、誰が、とまでは分からなくても、六宮君が事件に巻き込まれた原因を調べるくらいのことはするだろうって、思ってたよ」
「でさ、結局なんで、影山があんな目にあってんだよ」
「それは……」
答えようとする言葉に被って、遠くから集団がかけてくる音が聞こえる。
集団が後ろを見ると、日向と菅原、澤村、清水。そして、青葉城西の及川と岩泉、国見、金田一もが、こちらに向かって走ってきていた。彼らの姿を見て驚いたのは田中と成田だけで、他の面々はいたって落ち着いた様子だ。
「っ影山!」
到着するやいなや、影山の名前を叫ぶ日向。その間に彼の後ろでは、清水が月島に小さなメモ紙を手渡していた。息を切らす先輩たちに、縁下たちは鳴謝する。
メモを見た月島は、少しだけ哀しげな色を瞳に載せ、眉間にシワを寄せた。
「さっき言っただろ、田中。3年前に、あそこでガラスの落下事故があって、意識不明の重体にまで陥った人がいたって。それがあの人」
「いやそれは分かってるけど!」
「天才セッターって呼ばれていた人がだよ。……それがどういう意味か分かるだろ」
はっと息を呑む。恐る恐る、影山の隣に立つ美羽へと視線を移した。
「交換作業中だった業者の業務上過失傷害、それで捜査も裁判も終わったらしい。でも、真実はそうじゃなかった。六宮、そして……影山が、事故を引き起こしたんだ」
突如名前を挙げられた影山は瞠目する。言葉を発した縁下と、すぐ傍らに立つ美羽とを交互に見比べる。その表情には、戸惑いが浮かんでいた。
「彼女はその時の事故で、全身に裂傷を負った。特に酷かったのが腕で、回復は絶望的だったって、貴女の後輩の椎名さんが教えてくれました。私を庇わなければ、先輩は今もバレーを続けていられたのに、って」
「貴女は今も、リハビリで病院に通院し続けてるそうですね。日向たちが入院してた病院と同じ場所だとか。だから、澤村さんにお願いして六宮さんに調べてもらいました」
澤村と六宮が連絡先を交換していたと月島が知ったのは、日向から連絡をもらった時だった。その直前に、六宮から電話で犯人が全員捕まったという吉報を告げられたのだと。だから、急遽お願いしたのだ。
メモに記された清水の文字は、いつもより歪んでいる。移動しながら書いてくれたのかもしれない。一度深呼吸をして、月島はメモを読み上げた。
「頭部、うなじ、肩、腕、ふくらはぎ……術後も傷や後遺症が残ってしまった箇所ですね。それで肝心の手ですけど……」
一度言葉を切って、月島は美羽に視線を戻す。
正確には、黒い手袋に覆われたままの両手をじっと見る。その視線に呼応するかのように、美羽は手袋を外した。
日焼けを一度もしたことがないのではと疑いたくなるほどの白皙の手には、引き裂いたような傷跡が多数残っていた。それを間近で見ていた影山が息を呑む。
「懸命のリハビリの甲斐あって、どうにか日常生活を送れる程度には回復したそうですね。でも、あくまでどうにか、であって完璧に回復したわけじゃない。特に右手の小指と薬指は、今も殆ど動かないとか」
「そ、れじゃあ、バレーなんて、とても……」
「難しいだろうね。特にセッターは何より手先を大切にしてる。その生命線が絶たれたんじゃ、とてもスパイカーに合わせたトスなんて上げられない……」
及川の呟きにつられるように、それぞれが苦痛の表情を浮かべ、美羽を見つめた。
「自分からバレーを奪った2人に、復讐すること。それが、この事件を起こした動機だ」
言い終わると、沈黙が訪れた。
しかし一拍後、突如彼女は声を出して笑い始める。悲壮感すら漂っていた空間が、戸惑い始めた。
「うん、大体合ってるね。インターハイ予選を見るまでは、こんなことする気もなかったんだけど……」
言いながら彼女は、影山、そして日向へと視線を移した。突然視線を向けられたことに戸惑いつつも、2人は美羽から目を逸らさない。
「影山君が、あのまま孤独の王様でい続けてくれたら。バレーを、出来ないままでいたら、こんなことしようとは思わなかった」
「どういう、意味だ?」
変わらずナイフを突きつけたまま、右手を軽く握ったり開いたりを繰り返している。月島が言っていたように、小指と薬指だけはまともに曲がりもしなければ、他の指のようにしっかりと伸びることもなかった。
「7歳の頃からずっとバレーばっかりの人生だったんだ。でもあの日、両手の感覚が戻らないって分かった日から、皆口揃えて言うのよね。“バレー以外の人生もあるから”って」
そんなもの、求めてないのにね。そう呟いて、一瞬だけ目を伏せた。
彼女が今言った言葉はまさしく、先ほど影山に対して言った言葉そのままだった。
「どれだけ頑張っても、戻らないんだって分かった時に思い知った。水谷美羽っていう人間は、あの日に死んでたんだって。なら、体が動き続けてるのって変でしょ、ゾンビじゃないんだから。だから体の方も止めてしまおうって何度も自殺したんだけど、その度に助けられちゃって」
「……は?」
理解出来ないとばかりに、口々に戸惑いの言葉を漏らす。実際彼らには到底理解出来るわけがない。中身が死んでいるから、体も止めようと自殺を繰り返すなんて行動を解せる者は殆どいないだろう。
その反応に小さく笑って、言葉を続けた。
「ついに監視がついて、自殺も許されなくて。そんな頃に、クラブチームで一緒だった子が北川第一に入学して、試合やるからって誘ってくれてね。断る理由もないから行ったのよ、決勝戦。そこで、影山君を知った」
「決勝戦……って」
「そう、去年のね。そこには私と同じ、天才とまで言われているのにバレーを許されない王様の姿があった。シンパシー感じるのと同時に、奇妙な既視感に襲われたのよ。……事故があった日の記憶は一部曖昧だったんだけど、そこでようやく思い出した。こちらを見て青ざめる六宮君と、焦ったように影山、って呼びながら逃げるように遠ざかる声を聞いてたってことを。そこで一応、茜ちゃんにも聞いてみたけど、彼女も全く同じことを言っていた……」
苦しげに紡がれる言葉を、全員が沈痛な面持ちで聞く。そして同時に、影山を見つめた。
彼は変わらず、美羽に視線を向けてはいたが、驚きから顔を変えてはいなかった。
「仕方のないことだし、バレーが出来ない状況は同じだったから、それで良いと無理やり納得させてた。けど、インターハイ予選を見て、考えが変わった。まさか、あんな生き生きとバレーをやっているなんて、思ってなかった……!」
「っじゃあ、六宮さんがそんなに深手を負っていなかったのは」
「彼は事故を起こして以来、まともにバレーを続けられなかった。中学の間はどうにか続けたみたいだけどね。だから、彼への復讐は形を変えるしかなかった。……もう一度、恐怖を与えることにしたのよ。日向君を使って」
急に名指しされたことで、日向は瞠目する。彼は、六宮が恐怖を感じていたことを知らない。その事を知っているのは、澤村と縁下、木下の3人だけだ。
何故、日向を助けてくれたのかと問いかけた彼らに『また、あの恐怖を味わうのが、怖かった』と六宮は苦しげに告白している。そこで初めて、3年前に事故があったことを知ったわけだ。
「六宮は、水谷さんの人生を奪ったことをすごく後悔してた。その彼の目の前に罪を突きつけて、日向を使って既視感を煽ったんだ。“また、自分の目の前で選手生命を絶たれるかもしれない人がいる”って、恐怖を与えるために」
「貴女はあくまでも、手足は折らないようにって指示を出しただけだから。放っておけば内臓損傷とか、あるいは頭を重点的に狙われるような事態になっていたかもしれない。だから六宮さんは日向を助けたんだ。……自分が殺されるかもしれないって知りながら。日向は影山の相棒だから、都合が良かったんだろうな」
「『もう、そっち側に立ちたくない』って言ってたのは、そういうことだったんだ……」
ぽつり、と日向が呟いた。
自分を助けてくれた彼の悲痛な叫びを、鮮明に記憶しているのだろう。わずかに声が震えている。
「インハイ予選の日に、日向君が、そして烏野の人たちが王様を救い出したんだって理解するのに時間はかからなかった。じゃないと、独裁者とまで呼ばれた影山君が、あんなドンピシャなトスをあげられるはずないもの。でも、そんなの酷いじゃない。私は全て奪われたのに、奪った側は今もバレーを続けて、仲間も相棒もライバルも何もかも手に入れて……だから、もう一度、引きずりおろしてやろうと思ったのよ。今度は、二度と這いあがれないように」
言い終わると同時に、美羽は影山の首に右腕を回し締め上げた。左手は変わらずナイフを握り、影山の腕へと押し当てる。
突然の行動に全員が動けないでいる中、言葉を続けた。
「私の時は、手は後回しにされたの。死にかけてたからね。でも影山君はそうじゃないから、運が良ければ、切ってもちゃんと治るかも知れないでしょ」
「やめろっ!」
日向と西谷を先頭に駆け出そうとする。影山も抵抗をするが、縛られたままの腕はいうことを聞かないし、足は届かない。そうしている間にも、美羽はナイフを握る手に力を入れ、迷いなく切り裂こうとする。
間に合わない、と誰かが呟いた。
「影山は関係ない!」
その叫びに、ナイフを持つ手が止まる。走り出そうとしていた面々も足を止め、振り返った。
「……く、にみ?」
どうして、と顔にありありと書いた影山が、戸惑いがちに名前を呼ぶ。
叫んだ国見は、隣に立つ金田一と2人、ひときわ険しい顔で美羽を睨めつけていた。平素とは違う彼を前に、彼女の目も険しくなった。
「……関係ない、って? 言い訳とか、聞きたくないんだけど」
「ガラスが落ちたとき、影山はあの場にいなかった。時間稼ぎの妄言じゃないですよ、本当のことです」
「……は?」
戸惑っているのは美羽だけではない。今回の事件を調べていた烏野の面々も驚きを顕にしていた。事件の被害者全員に話を聞けたわけではなかったが、椎名ともう1人からは話を聞いている。2人共、六宮と影山がその場にいたはずだと証言していた。
だというのに、この2人は、その場に影山はいなかったと口にする。
そのズレは、どういうことなのか。
「さっき言ってましたよね。影山を呼ぶ声が聞こえたって……それ、影山の名前呼んだの、俺たちです」
金田一の言葉を受け、場が沈黙する。そこで気がついた。
遠くの方から、パトカーのサイレンが聞こえる。徐々に、こちらに迫ってきていた。
「現場に、影山のボールがあったんです。少し前に及川さんが落書きしてたから、分かったんですけど……それを見つけてすぐに、ガラスが落ちた。まさかと思いました」
「それから国見と2人、体育館の中にいる先生たち呼びに行ったら、そこに影山いて……ずっと体育館で監督たちと話してたんです」
「だから、影山は一切関係ない。なんならそいつ、事故があったことすら綺麗さっぱり忘れてたくらいだし」
遠かった警察のサイレンがすぐ近くまで迫っていた。ここまで上がってくるのも時間の問題だろう。
ようやくこの空間から解放される。そんな安堵の空気に包まれた。その時だ。
影山を拘束していた美羽が、おもむろに立ち上がった。影山を刺そうとする、まさにその時までずっと浮かべていた笑顔は消え去り、目が伏せられる。そして、左手で握っていたナイフを両手で持ち、ゆったりと持ち上げた。
何をするつもりかと全員の視線が集中する中で、美羽の口元が弧を描く。数歩後ずさりした後、緩慢な動作でナイフを自分の首へと押し当てた。
「っ! やめろ!」
今度こそ本当に日向と西谷が駆け出した。そしてそれと同時に、彼らの後方で何かが空を割く音がする。
「伏せてっ!」
言葉と同時に、一瞬だけ後ろを振り返った面々はその場にしゃがみこんだ。
天井高く投げ上げられたボールの落下方向に合わせて高く跳躍した及川が、試合中さながらの強烈なサーブを放った。強打されたボールは凄まじい威力を持ちながら、まっすぐに美羽へと向かっていく。
ナイフを持つ腕がぴくりと揺れ、とまった。どこか虚ろな瞳には、ボールだけが映っている。
ボールが美羽の左肩へと当たると同時に、両手で握られていたナイフはからんと音を立てて地面へと落下した。
「っ日向!」
ナイフが手を離れたと同時に、影山が叫ぶ。呼びかけに呼応し、日向と西谷がトップスピードで美羽の元へと駆け出した。
足元に落下したナイフを軽く蹴り飛ばし、美羽の左腕を掴む。抵抗するかもしれないと遅ればせながら駆け寄ってきた東峰と田中が変わり、両側から肩を掴み拘束した。
「大丈夫か影山」
一方、菅原たちは影山へと駆け寄り、早々に拘束を解いていく。数時間ぶりに解放された体は節々が痛むらしく、拘束が解かれてもしばらくの間、影山はまともに動かなかった。
そばに寄っていた清水がざっと影山を見、外傷がないことを確かめる。
「どこか痛いところある?」
「……縛られてたところ以外は、大丈夫っす」
言いながら、手首をゆっくりまわすと関節がこきりと鳴った。
「警察だ! すみやかに……あれ?」
川西を筆頭に乗り込ん出来た数名の警察官たちは、現状を見るや否やなんとも間抜けな声を漏らした。誘拐されたと思われていた影山は解放され、犯人と思わしき女性は2人の男子高校生に拘束されているのだから、無理もないかもしれないが。
「えっと、お疲れ様です……?」
「いいから早く逮捕しろよ……」
及川が放ったボールを回収しながら、岩泉があきれたように呟いた。