# 04
一番近くのトイレに行っている筈だと予想して駆けた方向は間違ってなかった。丁度トイレ出入口の扉が開く瞬間、侑は靴でブレーキを掛けて高い音を鳴らした。電気が消えた廊下は月明かりに照らされているだけで暗く、「ひっ」っと短く聞こえた悲鳴。
「翔陽くん」
「あ、み…あつむさん」
びっくりした、と目を真ん丸にして詰めていた息を吐き出す。
「驚かしてごめんな」
「いえっ大丈夫です驚いてないです! あっトイレですか?」
若干委縮した様子ですぐ横に除けた日向の手首を掴む。先程とは違うがまた丸くなった目を、今度は真正面に捕らえた。
「話、せぇへん?」
躊躇いながら頷いた日向の手を引いて、少し考えた後に元の教室の方へ少し戻る。残念ながら使用してない教室は鍵がかかっているためゆっくり腰を下ろしてというわけにはいかない。廊下の冷えた空気は体にもあまり良くなさそうだ。
「寒ない?」
「はい、体温高い方なんで平気です」
「ははっ見た目通りやん」
あったかそうな色やもんな、と手首を掴んでいた手を離して頭に手を伸ばす。それを甘受する様子から、普段から周りに可愛がられているのだと想像に難くない。方方に跳ねた癖ッ毛に指を絡ませる。思った場所に留まらない奔放さが当人の気質を表しているようだった。
「さっき態度悪かったな、許してな」
どうにも日向が相手だと上手く喋れないのだと、自覚はしているがそれにまだ名前はつけたくない。日向は撫でられるがままだった頭を左右に振って少し顔を上げた。飴玉のような目がくるりと侑の目とかち合って音を立てたような気がした。
「侑さんって優しいんですね」
揶揄うわけでもなく、ただただ至極当然の事実を言うみたいに。
頭の芯が熱を持つ。電気が消えていて助かった、と侑は心底思った。
「春高でまたやりましょうね!」
「おん…下手したら決勝かもしれんな。俺らと当たるまで負けたら許さへんで」
「がっ…大丈夫です。必ず、行きます」
頑張ります、と言いかけて、必ずと言いなおした日向の真っ当さが眩しい。「必ず」が必ずではないことを自分たちは知っている。
「だから、稲荷崎も負けないでクダサイ…」
言っている途中から生意気な発言だと自覚したのか最後尻すぼみになりつつ、日向が侑のシャツを掴む。
「ほっんま…くそ」
「え、あ、ゴメンナサイ」
「いや、ええ、翔陽くんは悪ない。精神修行せなハニトラにまんま引っ掛かりそうな自分の将来を悲観しただけやから気にせんで」
「歯に虎」
最後にひと撫でして名残惜し気に離れる手。温かな手が離れて冷たい空気に触れた頭を日向は押さえて少し首を傾げた。
「寒いやろ、戻ろうか」
差し出された手を取ったのは反射だったのかもしれない。手首を掴まれた先程とは違い、掌が重なる。少し乾燥気味かもしれないと思った掌にジワリと汗が滲む。掌の大きさの違い、手の甲に触れる指先の感覚。
教室の明かりが近づいて日向が足を止めると、くんと引っ張られて侑の足も止まった。風が出てきたのか窓が少し揺れる音がする。
「おれ、侑さんのトス楽しみです」
それは明日の話か、それとも、もっと先の
「負けへんよ」
二か月後の試合か、それとも、もっと先の未来か。
たとえ敵だろうが味方だろうが誰にも負けるつもりはない。
握った掌と掌の間にネットが見えたような気がした。