痛みは感じるが、痛いと泣き叫ぶ程でもない。血がこぼれるが、致死量ではない。骨に罅は入っても、折れてはいない。
念の為体の状態を確認してから、私は一呼吸で猛獣使いの懐に飛び込んで、ナイフの柄で抉るように米神を殴りつけた。ぐらりと頭を揺らし、その場に倒れた男を一瞥してから、リッチーへと向き直る。
「リッチーだっけ、あなた、出来れば逃げて欲しいなあ」
リッチーと目を合わせ、努めて優しい口調で語り掛ける。リッチーは痛みに顔を歪めながら、私を見ていた。困惑しているようだ。
「殺したくないしさ、無駄に痛めつけるのも好きじゃないからね」
真っ直ぐ、その金の双眸を見据える。パチリ、一つ瞬きをした後、リッチーは体の強張りを解き、そのままゆっくりと体の向きを変えるとのそのそと歩き去って行く。
初対面の肉食動物相手に言葉で説得して、それを成功させるなど普通は出来ない。
つまり、私が普通ではないだけ。
私が自分の奇妙な体質を理解したのは、生物学者を目指し始めて間もなくの事だ。目を見て語り掛けると心が通じ合う。互いに言葉は通じなくても、言いたい事が曖昧に伝わってくる。仲良くなれるかどうかは個体の性格によるので別問題だが、生物学者として非常に有利な力であるのは変わりがなく、当時は諸手を上げて歓迎したものだ。
流石に、これが異常だという自覚はある。人魚族は魚と話せるけれど、人間は獣と話せない。案外、この能力のせいで親に捨てられたのではないかと疑ってもいる。
まあ今更確かめようもないし、それは割とどうでもいい。
リッチーには先程手を突っ込んだ際、直接睡眠薬を飲ませてある。人間には使えないような効力の強いものだ。
放っておいても眠りにつくのをわざわざ撤退させたのは、確かに眠るまでの間暴力を振るうのを厭うたのもあるが、今は気絶している猛獣使いが目覚めた時、眠るリッチーを起こして再び襲撃を仕掛けて来るかも知れないからだ。
取り敢えずこの男は身動きのとれない状態にして、序でに口も塞いでおこう。
念入りに拘束して地面に転がす。出来れば人目に付かないところに放り込んでおきたいが、非常に不本意ながら、私には意識のない成人男性を抱え上げる事は
おろか引きずる事すら出来ないのだ。切実に筋力が欲しい今日この頃である。
もう怪我人だとか無視してゾロを叩き起こして運ばせようかと、その筋肉への嫉妬も含めて非常に酷い事を考えていたら、丁度ルフィが戻って来た。
「あれ? ライオンは?」
「ルフィ君遅いんですけど。もう倒しちゃったんですけど。お陰でシュシュ怪我しちゃうし」
「犬、怪我したのか?」
私の指摘に、ルフィは初めてシュシュの方を見て、其の左頬から肩にかけて走った傷跡に気が付いた。
「果敢にライオンに立ち向かって負った、名誉の傷です」
「ライオンに?」
ルフィは感心した様子で犬に駆け寄った。
「お前度胸あんなァ」
楽しげにシュシュを眺めると、その傷を無造作につついて噛みつかれている。ルフィが悪い。というか学べ。目玉を突いて噛みつかれたのはつい先程の筈だ。
やり返そうと拳を構えたのを頭をはたいて制し、店の入り口前に腰掛けた。改めて自分の肩の傷を見ると、既に血は止まっている。
「あれ、お前も怪我してるじゃねェか」
「今気が付きましたか。大丈夫ですよ、別に大した傷じゃないので」
「そうか」
「でも早々に吹き飛ばされて戦線離脱した事に関しては、色々と文句がありますけどね?」
「うっ、…ごめんなさい」
「素直でよろしい」
己の油断であっさり殴り飛ばされた事は素直に悪いと思ったのか、ルフィが申し訳なさそうに頭を下げた。自分の非を認めて直ぐに謝れるのはルフィの美点だと思う。
世の中自分が悪いと思いたくない、能力はないくせに自尊心だけ無駄に高い馬鹿など山程居る。そういう輩を何度も見てきたので、ルフィを見ているとどうにも癒される。
因みに私は悪いと分かっていて敢えて相手の地雷を踏み抜きに行くので、基本謝る事はない。謝るとしたら、大概相手を煽るためである。
私と違っていい子なルフィの頭を撫でた後、そのまま猛獣使いを路地裏まで運ばせた。
「ゾロはまだ起きてねェのか?」
ルフィが猛獣使いの頬を突っつきながら言う。起きるからやめなさい。
「ゾロさんはまだ寝てるみたいですよ。まあ結構傷深いですし、自然に起きるか、"道化"が何か仕掛けて来るまでは待ちましょう」
「えェ〜」
「嫌そうですね」
「暇じゃねェか」
「じゃあ退屈しのぎに何か話しますか?」
「何を?」
「何で私の事勧誘するんです?」
時間が余ったのでこれ幸いにと、気になっていた事を訊いた。
ルフィはパチリと目を瞬かせた。それこそ、予想外の事を訊かれたと言わんばかりだ。
「何でって、お前いい奴だし。強いし。面白ェし」
「面白…? ……そうですか、でも、私あなたの仲間になる気はないんですけど」
「じゃあ何でついて来てくれたんだ?」
「ルフィ君がほっとけないからですよ」
「そうか」
にか、と口角を上げ、白く輝く歯を覗かせる。何がそんなに嬉しいのだろうか。
「ルフィ君」
「ん?」
「私なんか諦めて、別の人捜した方がいいですよ」
私は自分の足下を見下ろしながら言った。
「自分で言うのも何ですけど、海賊やるには甘っちょろいし、仲間を信じて頼る覚悟もない。何より、私より人がよくて、私より強くて、それで尚且つあなたの仲間になりたいと思ってくれる人なんていくらでもいますよ」
それは心からの言葉だった。
ルフィは心根も眼差しも真っ直ぐで、何処か人を惹きつける、天賦の才がある。この少年の人となりを知れば、仲間になりたい、共に海に飛び出したいと思う人間はこれから先も現れるだろう。
私でなくともいいのだ。私みたいな訳ありで意気地なしの面倒臭い女よりも、もっとルフィの仲間に相応しい人が居る筈だ。
だから、どうか、頷いて欲しい。
「知るか」
けれど、ルフィは納得してはくれなかったようだ。
「何で会ったこともないやつ仲間にしなきゃいけねェんだ。顔も知らねェ奴捜してもしょうがねェだろ」
「…それは、まだ会ってないから、」
「あのな」
顔を背けていた私の頬を両手で挟み込んで、ルフィが顔を覗き込んでいる。その顔は斜めに傾いた彼の機嫌を如実に表していて、逸らしたいのに、目は自然とその黒い瞳に吸い込まれた。
「おれが出会ったのはお前で、俺が仲間にしたいのもお前だ。会った事もねェ奴なんか知るか」
常より低い、落ち着いた声でルフィが告げる。纏うオーラがゆらりと揺れて、光量を増していく。
「おれは、お前がいい」
言葉が体中に浸透して、背筋がふるえた。それが感嘆かそれとも恐怖故か、自分でも判別が付かない。或いはどちら共が原因かも知れなかった。
「私は」
やめて欲しい。そんな風に真っ直ぐな目で見ないで欲しい。
この世界は残酷だから、あなたみたいな人から死んでいくから。私を置いていくくらいなら、はじめから出会わないで欲しいのに。
「わ、たしは」
その言葉を受け入れるには、私はまだ弱過ぎる。
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